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加藤泰   そして山中に赤紙(召集令状)が来たのを知らされた

 八月二十五日が来た。
 完成した「人情紙風船」の封切日であった。ぼくは、渋谷の道玄坂の、まだ真新しかった東横映画劇場(いまの渋谷東宝)に出かけて、見た。番組はワーナー映画、ウィリアム・ディターリ監督、ケイ・フランシス、エロール・フリン主演の「沙漠の朝」との二本立てだった。冷房のよく利いた、掃除のよく行きとどいた、五十銭均一の、コセコセしていない映画館での快適な鑑賞だった。
 映画館を出て、同じ並びをもう少し行ったところの古本屋を素見して、いまみたいな、あんなデコデコ、ギタギタ、デパートの縁日みたいでなかった坂道の商店街を戻って、田舎の駅みたいだった渋谷駅と八公の銅像を右に見て、山の手線のガードをくぐった右側の、地方の県庁所在地のの百貨店くらいだった東横デパート(いまの東急東横百貨店)の食堂で、金五十銭也の支那定食(いまならさしづめ中華定食)を食って、市街電車には乗らず、夕日に赤い宮益坂のケトバシ屋を左に見ながらブラブラ歩いて青山南町の家に帰った。山中貞雄も滝沢英輔も、まだ帰っていなかった。そして山中に赤紙(召集令状)が来たのを知らされた。
 掛け値なしの仮住まいで、電話などもなく、ぼくにとくに知らせようとする人もなかったはずのあのとき、だれが、どのようにして知らせてくれたのか、その辺の覚えは、もうまったくの空白になってしまったが、とにかくぼくは知らされた。その年は六月四日に「新人近衛」「未知数魅力」で、軍部からも政党からも財界からも国民からも歓迎された近衛内閣が成立していたが、国民の期待は裏切られ、盧溝橋事件勃発、それを引き金にしての宣戦なき戦争「北支事変」「上海事変」、それがやがて不拡大方針による拡大を重ねて「支那事変」へと雪崩込もうとしていた年だった。山中は、一年志願の陸軍歩兵伍長であった。
 山中貞雄が滝沢英輔とともに帰って来たのは、あくる日だった。無論もう赤紙のことは知っていて、それから、何か、ウワーとなって、人が来て、二人とも出て行って、また人が来て、二人が戻って、壮行会があったらしくてテンテコ舞いのようだった。ぼくは何もすることがなかった。何かしたい気だったが、手が出せず、見守るばかりだった。山中とは何も話す時を持てなかった。そして山中は滝沢英輔やみんなに囲まれて、応召の地、残暑の京都に帰って行った。三月、もう戻るまいと心に定め、あとにして来た京都へであった。その立つ間際の倉皇の間、ちょっとのすきを見つけた山中は、あの三白眼でジロッとぼくを呼んで、人のいない隅っこで、「お前のこと、あと憲坊に頼んだから……。ええな」、早口にそれだけ言って、みんなのほうに戻って行った。それが、この世で山中から聞けた最後の言葉となった。

<中略>

 だが、本当をいうとぼくはあまりよく山中貞雄のことを知ってはいないのだ。なぜと言って、ぼくが彼と起居を共にしたのは、彼が監督昇進第一回作品「抱寝の長脇差」を発表した当時の一年余りと最後の「人情紙風船」のころの東京・青山南町一丁目の家での一ヶ月余りの暮らしだけなのだ。本当によく彼を知る者は、その映画界以前は父母、兄や姉、学校友達、先生たち、映画の人となってからは同期の友、先輩たち、上役たち、作品のスタッフ、俳優諸君、ファン、研究家、そうしてその中から、やがて生涯の友、心の友となり、交わりを厚くした人たちこそではなかろうか。ぼくは、この本は、可能な限りその人たちが残した話や書いたものを渉猟して書いた。文中のその人たちの年齢は当時の習慣に従って数え年とした。
 一つ、青山南町の家でのことを落としていた。応召の山中、彼を送って京都まで共に行く滝沢英輔たち、みんな潮を引くように去ってしまったあとだった。ひとり、留守番で残されたぼくは、山中が部屋にしていた奥に行って、書架を見てたたずんだ。蝉の声が耳立って腋の汗に気がついた。書架には講談社の『評釈江戸文学叢書』の全冊と、三田村鳶魚の本数冊と、月に一冊ずつ来るはずだった『古事類苑』と、道玄坂の古本屋で見つけて、金だけ払ってきて、ぼくに取りに行かせた『円朝全集』の完本とが、ポイと突っこまれてあった。山中はそれらを、総朱の机に広げて読むではなく、人が来なかったり、滝沢英輔との馬鹿ッ話に飽いた時など、二つ折りの座蒲団枕に、パンツ一丁くらいで寝ころんで読んでいたものだった。ぼくは、坐って、三田村鳶魚の何かに手を出しかけた。明けっぱなしだった玄関で声がした。女の声だった。ぼくは着たっきり雀の絣のひとえと、しわで細くなった木綿の兵児帯だった。それでノソノソ玄関に出て行った。パーッとその目に華やかなものが飛びこんだ。小柄な、目のパッチリした丸ポチャの、この世にこんな綺麗な女がいるのかと思うような女がそこに立っていた。その母親らしい年輩の婦人がその横に立っていた。「山中さんは……?」とその年輩が口をきいた。ぼくは飛び上がって坐って、シドロモドロで、「もう出かけた」という意味のことを口走ったようだった。綺麗で若い方が、その大きな、鈴を張ったような目をしばたたかせ、何か言って急いで、丁寧に腰を折って、二人は去った。ぼくは急に着たっきり雀と兵児帯が恥ずかしくなった。そして、ああ、深水藤子だったと気がついた。


(加藤泰 『映画監督 山中貞雄』 キネマ旬報社 P15―19)
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by JustAChild | 2010-08-04 06:50 | Wards


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