justachild.exblog.jp
ここや/そこ/あちこちで/わたしたちは/徹底的に/やる

映画的バブルの崩壊

 一九九〇年代は日本経済にとって、これまでにない不景気が恒常的に続く時代となった。八〇年代後半に「バブル景気」と呼ばれた好景気が終わってしまうと、企業はいっせいに経済規模を縮小し、失業率が増加した。加えて九五年は、日本人に後々まで残る心理的トラウマが連続して生じた年であった。神戸で前例のない規模での大地震が生じ、オウム真理教が東京の地下鉄に毒薬を撒いて無差別殺人を企てた。外国人の不法滞在者は急速に増加した。こうした社会的な動向は、これまで多くの日本人が自明のものと信じきっていた日常的な認識が、もはや従来のあり方では通用しなくなりつつあることを示していた。この変化は、けっして急速にでないが、しかし確実に日本映画の性格に影を投じることとなった。
 不景気の到来は、これまで映画制作に手を出していた関連企業の撤退をまず意味した。西武流通グループは、セゾン系列の映画館や配給・制作会社を閉鎖し、文化路線をなかば放棄する形となった。九〇年には佐々木史郎など六人の制作者が集まり、「アルゴ・プロジェクト」を設立し、それは日本のインディーズ専門の映画館の開館にまでこぎ着けた。だが経営難はここにも及び、専門館は撤退を余儀なくされた。八二年に黒沢清、相米慎二、石井聰亙といった新人監督が集まって結成したディレクターズ・カンパニーも、九二年に解散した。これは台頭しつつあったインディーズの将来に、一抹の不安を投げかけた。
 松竹では二〇年にわたる低迷を打破しようと、奥山和由が制作者として「シネマジャパネスク」路線を八〇年代後半から提唱していた。この改革運動に乗じて北野武や坂東玉三郎といった未知の才能が、映画監督としてデビュウすることができた。元来松竹は、東宝などとは違って、制作者に監督以上の権限が与えられることが少ないという体質の企業であった。そのため奥山のこの企てには画期的なものがあった。彼はみずから制作中の黛りんたろう監督の『RAMPO』に不満を覚えると、自分から監督を買って出て、別ヴァージョンの同名の作品を発表してしまうという熱意の持ち主であった。一九九七年、奥山は突然に松竹を追放になった。かくするうちに同じ年に渥美清が死亡し、ついに「寅さん」を撮り続けることは不可能となった。松竹が映画的に再興する最後の可能性は、こうして摘み取られた。

(四方田犬彦 『日本映画史100年』 集英社新書 P216―217)
[PR]
by JustAChild | 2010-08-06 21:15 | Wards


ここや/そこ/あちこちで/わたしたちは/徹底的に/やる


by JUSTAchild

プロフィールを見る

カテゴリ

A
B
C
D
E
F
G
H
I
J
K
L
M
N
O
P
Q
R
S
T
U
V
W
X
Y
Z
Wards

以前の記事

2016年 04月
2015年 01月
2014年 06月
2012年 12月
2012年 03月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2009年 06月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月

タグ

検索

記事ランキング