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吉田喜重  第一作『ろくでなし』を撮る

――レンズを75ミリ1本に限定したというのはどなたのアイディアですか。

吉田 これは私の発案です。映画を撮るときには、1つのレンズにしぼって撮る。それも75ミリ1本で撮ることを、あらかじめ決めていました。さまざまなレンズを組み合わせて撮影すると、これまで見慣れてきた映像空間、その肌触りを感じてしまう。75ミリのレンズは、松竹ではアップを撮るときに使われるものでした。それでロング・ショットも撮ると、焦点の合っている部分のみが強く印象づけられ、背景が霞む。こうした緊張感、映画全体が異様な、異質なものとして、観客の眼に映ることが、監督のデビューには欠かせないと思ったのです。そこにはおのずからスタイルが生まれる。

――1本で撮るということは、ファインダーを覗かなくても大体どのサイズになっているかはわかるわけですね。

吉田 しかし被写体に対しては、構図をレンズの選択によって決めるのではなく、キャメラ自体を常に動かすのですから被写体とキャメラのあいだに運動が起こり、写される俳優も舞台の定められた視点から見られているのではなく、みずからもキャメラに向かって運動する。

――それであの映画の躍動性が出てきたんですね。

吉田 そうだと思います。もちろんこれは監督の処女作には有効な方法でしょうが、それが惰性になってはいけない。こうして映像としての自分の文体ができ、確認されれば、今度はそれを壊してゆくことが必要でしょう。

――カット割りは直感でなさっていたんですか。

吉田 直感というより、映画は現場でしかないという発想です。木下さん演出を間近に見ていて、コンテを作らない方が映画が活き活きするということがわかったからでしょう。コンテを作ることは、あらかじめ想定された映像を再現しているにすぎない。それは映画表現がもつ偶然性、そのかぎりない魅力を捨て去ることです。俳優が訓練して演技すれば、それは舞台と同じです。むしろ訓練によって身につけることのできない演技、それは現場で、俳優の動きなかに、発見するしかないのです。ましてや現場には、予測のできない光がある。生きた空間がある。それと向き合うことが、映画の歓びなのです。そのかぎりでは映画の演出とは、監督自身の肉体を通しての表現でもあるのです。

――リハーサルなしでいきなり回すということはありますか。

吉田 それはあります。場合によっては、俳優が一回きりの演技と思ってやったほうが、最高のものができると、予感したときです。もっともそういう予感をあらかじめ話してしまえば、俳優はすでにテストしたのと同じで、新鮮さが失われる(笑)。


(『ユリイカ 2003年4月臨時増刊号 総特集 吉田喜重』 [吉田喜重インタビュー:パッションとしての映画 『ろくでなし』から『鏡の女たち』まで 聞き手・構成=筒井武文] 青土社 P18)
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by JustAChild | 2010-09-16 08:35 | Wards

吉田喜重  第一作『ろくでなし』を撮る

――レンズを75ミリ1本に限定したというのはどなたのアイディアですか。

吉田 これは私の発案です。映画を撮るときには、1つのレンズにしぼって撮る。それも75ミリ1本で撮ることを、あらかじめ決めていました。さまざまなレンズを組み合わせて撮影すると、これまで見慣れてきた映像空間、その肌触りを感じてしまう。75ミリのレンズは、松竹ではアップを撮るときに使われるものでした。それでロング・ショットも撮ると、焦点の合っている部分のみが強く印象づけられ、背景が霞む。こうした緊張感、映画全体が異様な、異質なものとして、観客の眼に映ることが、監督のデビューには欠かせないと思ったのです。そこにはおのずからスタイルが生まれる。

――1本で撮るということは、ファインダーを覗かなくても大体どのサイズになっているかはわかるわけですね。

吉田 しかし被写体に対しては、構図をレンズの選択によって決めるのではなく、キャメラ自体を常に動かすのですから被写体とキャメラのあいだに運動が起こり、写される俳優も舞台の定められた視点から見られているのではなく、みずからもキャメラに向かって運動する。

――それであの映画の躍動性が出てきたんですね。

吉田 そうだと思います。もちろんこれは監督の処女作には有効な方法でしょうが、それが惰性になってはいけない。こうして映像としての自分の文体ができ、確認されれば、今度はそれを壊してゆくことが必要でしょう。

――カット割りは直感でなさっていたんですか。

吉田 直感というより、映画は現場でしかないという発想です。木下さん演出を間近に見ていて、コンテを作らない方が映画が活き活きするということがわかったからでしょう。コンテを作ることは、あらかじめ想定された映像を再現しているにすぎない。それは映画表現がもつ偶然性、そのかぎりない魅力を捨て去ることです。俳優が訓練して演技すれば、それは舞台と同じです。むしろ訓練によって身につけることのできない演技、それは現場で、俳優の動きなかに、発見するしかないのです。ましてや現場には、予測のできない光がある。生きた空間がある。それと向き合うことが、映画の歓びなのです。そのかぎりでは映画の演出とは、監督自身の肉体を通しての表現でもあるのです。

――リハーサルなしでいきなり回すということはありますか。

吉田 それはあります。場合によっては、俳優が一回きりの演技と思ってやったほうが、最高のものができると、予感したときです。もっともそういう予感をあらかじめ話してしまえば、俳優はすでにテストしたのと同じで、新鮮さが失われる(笑)。


(『ユリイカ 2003年4月臨時増刊号 総特集 吉田喜重』 [吉田喜重インタビュー:パッションとしての映画 『ろくでなし』から『鏡の女たち』まで 聞き手・構成=筒井武文] 青土社 P18)
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