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林道郎   サイ・トゥオンブリ――バルトの言う「動作(ジェスト)」、「怠惰」

「ジェスト」という言葉があります。フランス語で、身振りとか動作というふうに訳されることの多い言葉ですが、それを行為を意味する「アクト」と対比させて彼は考えます。印象的な一文を引用してみましょう。

動作とは何か。行為(アクト)のおまけのような何かである。行為は他動的である。単に対象を、結果を出現させようとする。動作は、行為を大気圏(天文学で用いる意味で)で取り囲む動機、欲動、怠惰の、無限定で、汲み尽くすことのできない総和である。※1

 これはもう、本当にバルト的な、実に繊細な説明だと思うのですが、「行為(アクト)」というものは他動的であって、動作(ジェスト)は、それを取り囲んでいる微小なものの総和だと言う。他動的であるとは、どういうことかというと、何か目的をもって行う行為である。「テロス」に結びついている。前の議論につなげて考えると、行為(アクト)とは要するにロゴス的な性格をもつもので、ある目的=結果を達成するために組織された動きであり、つねに何かに働きかけているがゆえに「他動的」なんですね。しかし「動作(ジェスト)」はそうではない。その原因から結果へとつながる因果論的連鎖の中には捉えられない何か。盲目的なもの、おまけみたいなもの。おまけと言うか余剰というか、ためらいというか、震えというか……。実体論的に分別できるものではなくて、行為が営まれるのに寄生しながら、つねに発生している微少な事件。それをバルトは、日本の禅と結びつけたりしています。それはちょっとどうかなと思うところですけれども、面白いのは、トゥオンブリがある動作を「意味がなくなるまでくり返す」ことにバルトが注目し、それを「因果論的論理の突然の〔時には、きわめて小さな〕切断」であり、禅の文脈における「悟り」のようなものと見ていることです。それが禅における「悟り」に当たることかどうかは大いに疑問ですが、意味がなくなるまでくり返すという方法が、動作事件の発生をうながす契機として使われていることにバルトは注目しているわけです。さらに言えば、そのくり返しは、求心的にテロスに向かって集中してくるものではなくて、遠心的に散漫化されるものであり、バルトの言葉を使えば、「怠惰」の戦略だということになります。

TWの《怠惰》[ここで私がいうのは、結果であって、気質ではない] は、しかし、戦術的(タクティック)である。怠惰のおかげで、彼は字のコードの平板さを避けることができ、しかも、破壊の順応主義に身を委ねずにすんでいる。これこそ、あらゆる意味で、タクト[手ざわり、触覚、気配] である。※2

 注目すべきは、バルトの言う「怠惰」が、因果論的論理を「破壊」するものではないということです。彼がしばしば使う「第三の意味」という概念とも呼応するのですが、ロゴス―破壊 の二極対立的な平板さ――すなわち字のコードの平板さ――をすりぬける何かを起動させるものとして、この「怠惰」ということが言われているわけです。記号論的に言い換えれば、シニフィアンがシニフィエに対して透明な関係を結ぶロゴス的な状態も、その関係がまったく破壊されてシニフィアンが物質的なフェティッシュとして鈍化するのも、「平板」さの圏域を出ないのですが、トゥオンブリの《怠惰》は、そのどちらでもない圏域、その平板さの周囲に広がる「大気圏」を彷彿させるということです。


※1 ロラン・バルト「サイ・トゥオンブリ または量より質」『美術論集』87頁
※2 ロラン・バルト「サイ・トゥオンブリ または量より質」『美術論集』106―107頁



( 林道郎 『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない Art Seminar Series 2002 - 2003 ① Cy Twonbly P27 』
by JustAChild | 2010-10-08 08:06 | Wards

林道郎   サイ・トゥオンブリ――バルトの言う「動作(ジェスト)」、「怠惰」

「ジェスト」という言葉があります。フランス語で、身振りとか動作というふうに訳されることの多い言葉ですが、それを行為を意味する「アクト」と対比させて彼は考えます。印象的な一文を引用してみましょう。

動作とは何か。行為(アクト)のおまけのような何かである。行為は他動的である。単に対象を、結果を出現させようとする。動作は、行為を大気圏(天文学で用いる意味で)で取り囲む動機、欲動、怠惰の、無限定で、汲み尽くすことのできない総和である。※1

 これはもう、本当にバルト的な、実に繊細な説明だと思うのですが、「行為(アクト)」というものは他動的であって、動作(ジェスト)は、それを取り囲んでいる微小なものの総和だと言う。他動的であるとは、どういうことかというと、何か目的をもって行う行為である。「テロス」に結びついている。前の議論につなげて考えると、行為(アクト)とは要するにロゴス的な性格をもつもので、ある目的=結果を達成するために組織された動きであり、つねに何かに働きかけているがゆえに「他動的」なんですね。しかし「動作(ジェスト)」はそうではない。その原因から結果へとつながる因果論的連鎖の中には捉えられない何か。盲目的なもの、おまけみたいなもの。おまけと言うか余剰というか、ためらいというか、震えというか……。実体論的に分別できるものではなくて、行為が営まれるのに寄生しながら、つねに発生している微少な事件。それをバルトは、日本の禅と結びつけたりしています。それはちょっとどうかなと思うところですけれども、面白いのは、トゥオンブリがある動作を「意味がなくなるまでくり返す」ことにバルトが注目し、それを「因果論的論理の突然の〔時には、きわめて小さな〕切断」であり、禅の文脈における「悟り」のようなものと見ていることです。それが禅における「悟り」に当たることかどうかは大いに疑問ですが、意味がなくなるまでくり返すという方法が、動作事件の発生をうながす契機として使われていることにバルトは注目しているわけです。さらに言えば、そのくり返しは、求心的にテロスに向かって集中してくるものではなくて、遠心的に散漫化されるものであり、バルトの言葉を使えば、「怠惰」の戦略だということになります。

TWの《怠惰》[ここで私がいうのは、結果であって、気質ではない] は、しかし、戦術的(タクティック)である。怠惰のおかげで、彼は字のコードの平板さを避けることができ、しかも、破壊の順応主義に身を委ねずにすんでいる。これこそ、あらゆる意味で、タクト[手ざわり、触覚、気配] である。※2

 注目すべきは、バルトの言う「怠惰」が、因果論的論理を「破壊」するものではないということです。彼がしばしば使う「第三の意味」という概念とも呼応するのですが、ロゴス―破壊 の二極対立的な平板さ――すなわち字のコードの平板さ――をすりぬける何かを起動させるものとして、この「怠惰」ということが言われているわけです。記号論的に言い換えれば、シニフィアンがシニフィエに対して透明な関係を結ぶロゴス的な状態も、その関係がまったく破壊されてシニフィアンが物質的なフェティッシュとして鈍化するのも、「平板」さの圏域を出ないのですが、トゥオンブリの《怠惰》は、そのどちらでもない圏域、その平板さの周囲に広がる「大気圏」を彷彿させるということです。


※1 ロラン・バルト「サイ・トゥオンブリ または量より質」『美術論集』87頁
※2 ロラン・バルト「サイ・トゥオンブリ または量より質」『美術論集』106―107頁



( 林道郎 『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない Art Seminar Series 2002 - 2003 ① Cy Twonbly P27 』
by JustAChild | 2010-10-08 08:06 | Wards


ここや/そこ/あちこちで/わたしたちは/徹底的に


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