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蓮實重彦   世の東西を問わず、『恋恋風塵』とは世界で最も美しい題名である

 初期三作品を撮りあげた1983年ごろから、侯孝賢は、新しい仲間たちと映画をつくり始めます。名高い女流作家の朱天文が脚本を書くようになり、侯孝賢自身が、彼女と一緒に仕事をするまでは映画をつくるということに関してまったく無意識であったといっています。それから、台湾映画のニューウェイヴを支えた、中央電影公司という映画会社があります。楊徳昌といった同世代の監督たちもそこから巣立ちました。たしかに、それ以前の侯孝賢はごく普通の70年代台湾映画の流れの中にいた人であるといえます。具体的には、スクリーンサイズがシネマスコープである。また、技法としては、嬉しそうにズームをしたり、パンをしたりしている。そして、背後に流れているのは、ケニー・ビーやフォン・フェイフェイといういわゆる人気歌手の歌であり、歌謡映画といっていいと思います。『ステキな彼女』が当たったので、その直後にまったく同じキャストで『風が踊る』という歌謡映画を撮っています。この歌謡映画の成り立ちそのものは、ある意味いいかげんで、人と人がどう出会うか、昔会った人とどう再会するかというと、いつもばったり偶然なんですね。自在といえば、自在、いいかげんといえば、いいかげん。しかしキャメラを向けていくうちに、そこから次々と映画的なある抵抗力が生まれてくる。例えば『風が踊る』には、ふとドキュメンタリー的なタッチが出てきます。ある盲学校でドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読むシーンがあって、これは物語とはほとんど関係のないはずなのに、実に生き生きとした画面で、まさに撮っていることが嬉しくなって、撮っていることを自分自身の力によってさらに高めようとする感じが見えてきます。
 そして私は傑作の一つだと思っていますが、三作目の『川の流れに草は青々』は、台湾の地方都市の、文字通り川が流れていて草が青々としげっている田園地帯が舞台ですが、実はこの"青々"というところがポイントです。原題でも"青"という字が二つ重なっていますが(《在那河畔青草青》)、これが侯孝賢映画の一つの特徴で、漢字独特の喚起力を、反復によって高めているのです。世の東西を問わず、世界で最も美しい題名である『恋恋風塵』(1987)の恋恋を旧字で"戀戀"と書かれると、恋というものの深さや奥行きが二倍以上になったような気持になる。"青草青"というのも、反復によって緑をより色濃くしていく。『憂鬱な楽園』すなわち《南國再見、南國》の"南國"もsouthにあたる南という意味ももちろんありますが、侯孝賢が「南というのは、台湾の南部のことでもあるが、多くアジアにおいて、台湾そのものが南とされていた」といっていたように、"南國"という言葉自体が台湾という意味も含んでいる。そこへ、《南國再見、南國》、「さよならだけども、もう一度会おう」というタイトルをつけたのです。また、『好男好女』(1995)でも"好"という字が繰り返されています。
 彼の映画の題名には、あるくり返しによってもたらさられ漢字の喚起力を、スクリーンの上までおしひろげて行こうという意識が見られます。日本映画の題名も最近は非常にカタカナが多くなりましたが、あのように"草は青々"とか"恋恋風塵"とか、ある言葉をくり返すことによって、見事な喚起力を題名に与え、それに見合った力強い、それでいて押し付けがましいところのない画面を見せてくれる人は、侯孝賢をのぞいて誰もいません。


( 蓮實重彦 『映画論講義』 東京大学出版会 P247)
by JustAChild | 2010-10-26 05:34 | Wards

蓮實重彦   世の東西を問わず、『恋恋風塵』とは世界で最も美しい題名である

 初期三作品を撮りあげた1983年ごろから、侯孝賢は、新しい仲間たちと映画をつくり始めます。名高い女流作家の朱天文が脚本を書くようになり、侯孝賢自身が、彼女と一緒に仕事をするまでは映画をつくるということに関してまったく無意識であったといっています。それから、台湾映画のニューウェイヴを支えた、中央電影公司という映画会社があります。楊徳昌といった同世代の監督たちもそこから巣立ちました。たしかに、それ以前の侯孝賢はごく普通の70年代台湾映画の流れの中にいた人であるといえます。具体的には、スクリーンサイズがシネマスコープである。また、技法としては、嬉しそうにズームをしたり、パンをしたりしている。そして、背後に流れているのは、ケニー・ビーやフォン・フェイフェイといういわゆる人気歌手の歌であり、歌謡映画といっていいと思います。『ステキな彼女』が当たったので、その直後にまったく同じキャストで『風が踊る』という歌謡映画を撮っています。この歌謡映画の成り立ちそのものは、ある意味いいかげんで、人と人がどう出会うか、昔会った人とどう再会するかというと、いつもばったり偶然なんですね。自在といえば、自在、いいかげんといえば、いいかげん。しかしキャメラを向けていくうちに、そこから次々と映画的なある抵抗力が生まれてくる。例えば『風が踊る』には、ふとドキュメンタリー的なタッチが出てきます。ある盲学校でドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読むシーンがあって、これは物語とはほとんど関係のないはずなのに、実に生き生きとした画面で、まさに撮っていることが嬉しくなって、撮っていることを自分自身の力によってさらに高めようとする感じが見えてきます。
 そして私は傑作の一つだと思っていますが、三作目の『川の流れに草は青々』は、台湾の地方都市の、文字通り川が流れていて草が青々としげっている田園地帯が舞台ですが、実はこの"青々"というところがポイントです。原題でも"青"という字が二つ重なっていますが(《在那河畔青草青》)、これが侯孝賢映画の一つの特徴で、漢字独特の喚起力を、反復によって高めているのです。世の東西を問わず、世界で最も美しい題名である『恋恋風塵』(1987)の恋恋を旧字で"戀戀"と書かれると、恋というものの深さや奥行きが二倍以上になったような気持になる。"青草青"というのも、反復によって緑をより色濃くしていく。『憂鬱な楽園』すなわち《南國再見、南國》の"南國"もsouthにあたる南という意味ももちろんありますが、侯孝賢が「南というのは、台湾の南部のことでもあるが、多くアジアにおいて、台湾そのものが南とされていた」といっていたように、"南國"という言葉自体が台湾という意味も含んでいる。そこへ、《南國再見、南國》、「さよならだけども、もう一度会おう」というタイトルをつけたのです。また、『好男好女』(1995)でも"好"という字が繰り返されています。
 彼の映画の題名には、あるくり返しによってもたらさられ漢字の喚起力を、スクリーンの上までおしひろげて行こうという意識が見られます。日本映画の題名も最近は非常にカタカナが多くなりましたが、あのように"草は青々"とか"恋恋風塵"とか、ある言葉をくり返すことによって、見事な喚起力を題名に与え、それに見合った力強い、それでいて押し付けがましいところのない画面を見せてくれる人は、侯孝賢をのぞいて誰もいません。


( 蓮實重彦 『映画論講義』 東京大学出版会 P247)
by JustAChild | 2010-10-26 05:34 | Wards


ここや/そこ/あちこちで/わたしたちは/徹底的に


by JUSTAchild

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