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林道郎   演劇的振る舞いを裏切るような細部を抽出する方法

 北島さんたちが意識的だったかどうかはわかりませんが、スーザン・ソンタグの「〈キャンプ〉についてのノート」(『反解釈』[高橋康也ほか訳、ちくま学芸文庫、1996年] 所収)という論文が1964年に書かれています。「キャンプ」というのはまさに「狂った資本主義」の問題であり、それは同時に、北島さんの「ニューヨーク」につながるのだと思います。暴走する資本主義的状況のなかで、表層的な振る舞いが人間のアイデンティティ形成にとってとても重要になっていく。つまり人間のアイデンティティが演劇的に構成されざるをえないような世界をわれわれは生きるようになった、ということですね。

<中略>

 もっとも60~70年代には、アウトサイダーたちもある意味でコード化されていたんですね。アウトサイダーになることが「自由への振る舞い」という、それ自体、社会に認知されたコードの世界で生きることになったからです。しかし、80年代はそうではない。一人ひとりが自分の世界をアグレッシブに演劇的に構築していかなきゃいけないという異常な状況になったのが80年代で、ことにニューヨークはそれが突出して出てきた。演劇化の病理がコンテクストからむき出しの「アイデンティティ」問題に直結し、臨界点に達する、とでも言うべきなのか、マドンナやプリンスが突発的な症例として出現するような社会、そういう状況に対して、北島さんのスナップショットはビビッドに反応しているのだろうなと思います。

北島 いまのお話はおそらくウィリアム・クラインの問題とちょっと絡んでくる気がするんですよ。ゴッフマンの本が1959年ということですがクラインの『ニューヨーク』はまさに50年代後半(1956年出版)。街中には広告の看板があふれかえり、人々は雑誌でファッションを研究したりして立ち振る舞っている。つまり、パフォーマンスせざるをえないことが常態化した、その爆発的な始まりをクラインは的確に捕らえていると思うんです。前からクラインの『ニューヨーク』はそういうふうに見るべきだって言っているんですけど、誰も聞いてくれない(笑)。それが結局、これまた滅茶苦茶なことを言うんですけど、シンディ・シャーマンに行き着くわけですよ。

 たしかにクラインは演劇的状況にビビッドに反応した写真家ですよね。いまの「クラインからシャーマンへ」という問題ですが、演劇性とアイデンティティの構築の絡まり合いに対して、写真がどう振る舞うかということについては、乱暴に言うと、ふたつの経路があるような気がします。ひとつは、ウォールやシャーマンのように、演劇性そのものを自己批判的に写真のなかに取り上げること。つまり、リアリティのある写真に見えるんだけれども、それ自体、演劇的に作りこまれている。見る側も「これはつくられたものだな」と分かりながら、「やっぱりこのリアリティはすごい」というような宙吊り感のなかで、演劇性そのものに自覚的にならざるをえない。そういった演劇による自己反省、自己批判みたいなやり方がある。もう一方には、バルトの「プンクトゥム」じゃないけれども、とりわけポートレートに起こることとして、人間の身体が演劇的に振る舞おうとしたときに必ず、意図していないものが見られてしまう。コードに則ってパフォーマンスするんだけれども、どうしたってコード化されない余剰みたいなものが肉体として露出する。その瞬間に焦点化する方向。
 このことに関して、ダイアン・アーバスは「自分はモデルの意図と効果の差異を撮りたいんだ」と言っています。フリードの大著でも繰り返し引用される言葉ですが、、こうした方向性について、フリードはもうひとり、リネケ・ダイクストラのポートレートを取り上げています。ダイクストラがなぜ思春期の少年少女ばかりを対象にするかというと、社会のなかでどう振る舞えばよいかを完全に身体化できていなくて、未整形だからだ、と。その「未整形さ」みたいなものが、写真の前に立ってポーズをとったときに、どうしてもある宙吊り感として出てきてしまう。そのおさまりの悪い細部を的確に捕らえられるのが写真だ、と言うわけです。そしてそのような、ポーズをとるという演劇的振る舞いを裏切るような細部を抽出する方法をフリードは「反演劇性」と見なすわけです。その是非は別として、北島さんのポートレートにも、一貫してそういう関心があるような気がします。「ニューヨーク」のスナップは、これみよがしに「こういうふうに私は生きているんだ」と演劇的に振る舞っている人たちを撮っているんだけれども、それが無残に、ある肉のリアリティのようなものに曝されてしまっていて、実は「演劇性の廃墟」みたいなものが捉えられていると言ってもいい。

倉石 ダイクストラの写真については、私もフリードと同様に一種の可能態として捉えたこともあります。ただ、一歩間違うとサリー・マンとどう違うんだ、というところがありますよね。思春期の少年少女はやっぱり好奇心の対象になるわけです。そこは彼女もわきまえていて、いろんな人種の人をさまざまな海岸に置いて撮る。一定の条件のもとで、モデルのアイデンティティが固定されず、ばらけるようにしている。しかし、そうしたことを詰めて、ポリティカル・コレクトネスを意識したアリバイ工作をすればするほど、人工的なものになっていくということはあると思います。



( 「倉石信乃+林道郎+北島敬三+前田恭二 写真のシアトカリティ――「北島敬三 1975-1991」展関連トーク」 『photographers' gallery press no. 9』 photographers' gallery P73-74)
by JustAChild | 2011-02-13 15:57 | Wards

林道郎   演劇的振る舞いを裏切るような細部を抽出する方法

 北島さんたちが意識的だったかどうかはわかりませんが、スーザン・ソンタグの「〈キャンプ〉についてのノート」(『反解釈』[高橋康也ほか訳、ちくま学芸文庫、1996年] 所収)という論文が1964年に書かれています。「キャンプ」というのはまさに「狂った資本主義」の問題であり、それは同時に、北島さんの「ニューヨーク」につながるのだと思います。暴走する資本主義的状況のなかで、表層的な振る舞いが人間のアイデンティティ形成にとってとても重要になっていく。つまり人間のアイデンティティが演劇的に構成されざるをえないような世界をわれわれは生きるようになった、ということですね。

<中略>

 もっとも60~70年代には、アウトサイダーたちもある意味でコード化されていたんですね。アウトサイダーになることが「自由への振る舞い」という、それ自体、社会に認知されたコードの世界で生きることになったからです。しかし、80年代はそうではない。一人ひとりが自分の世界をアグレッシブに演劇的に構築していかなきゃいけないという異常な状況になったのが80年代で、ことにニューヨークはそれが突出して出てきた。演劇化の病理がコンテクストからむき出しの「アイデンティティ」問題に直結し、臨界点に達する、とでも言うべきなのか、マドンナやプリンスが突発的な症例として出現するような社会、そういう状況に対して、北島さんのスナップショットはビビッドに反応しているのだろうなと思います。

北島 いまのお話はおそらくウィリアム・クラインの問題とちょっと絡んでくる気がするんですよ。ゴッフマンの本が1959年ということですがクラインの『ニューヨーク』はまさに50年代後半(1956年出版)。街中には広告の看板があふれかえり、人々は雑誌でファッションを研究したりして立ち振る舞っている。つまり、パフォーマンスせざるをえないことが常態化した、その爆発的な始まりをクラインは的確に捕らえていると思うんです。前からクラインの『ニューヨーク』はそういうふうに見るべきだって言っているんですけど、誰も聞いてくれない(笑)。それが結局、これまた滅茶苦茶なことを言うんですけど、シンディ・シャーマンに行き着くわけですよ。

 たしかにクラインは演劇的状況にビビッドに反応した写真家ですよね。いまの「クラインからシャーマンへ」という問題ですが、演劇性とアイデンティティの構築の絡まり合いに対して、写真がどう振る舞うかということについては、乱暴に言うと、ふたつの経路があるような気がします。ひとつは、ウォールやシャーマンのように、演劇性そのものを自己批判的に写真のなかに取り上げること。つまり、リアリティのある写真に見えるんだけれども、それ自体、演劇的に作りこまれている。見る側も「これはつくられたものだな」と分かりながら、「やっぱりこのリアリティはすごい」というような宙吊り感のなかで、演劇性そのものに自覚的にならざるをえない。そういった演劇による自己反省、自己批判みたいなやり方がある。もう一方には、バルトの「プンクトゥム」じゃないけれども、とりわけポートレートに起こることとして、人間の身体が演劇的に振る舞おうとしたときに必ず、意図していないものが見られてしまう。コードに則ってパフォーマンスするんだけれども、どうしたってコード化されない余剰みたいなものが肉体として露出する。その瞬間に焦点化する方向。
 このことに関して、ダイアン・アーバスは「自分はモデルの意図と効果の差異を撮りたいんだ」と言っています。フリードの大著でも繰り返し引用される言葉ですが、、こうした方向性について、フリードはもうひとり、リネケ・ダイクストラのポートレートを取り上げています。ダイクストラがなぜ思春期の少年少女ばかりを対象にするかというと、社会のなかでどう振る舞えばよいかを完全に身体化できていなくて、未整形だからだ、と。その「未整形さ」みたいなものが、写真の前に立ってポーズをとったときに、どうしてもある宙吊り感として出てきてしまう。そのおさまりの悪い細部を的確に捕らえられるのが写真だ、と言うわけです。そしてそのような、ポーズをとるという演劇的振る舞いを裏切るような細部を抽出する方法をフリードは「反演劇性」と見なすわけです。その是非は別として、北島さんのポートレートにも、一貫してそういう関心があるような気がします。「ニューヨーク」のスナップは、これみよがしに「こういうふうに私は生きているんだ」と演劇的に振る舞っている人たちを撮っているんだけれども、それが無残に、ある肉のリアリティのようなものに曝されてしまっていて、実は「演劇性の廃墟」みたいなものが捉えられていると言ってもいい。

倉石 ダイクストラの写真については、私もフリードと同様に一種の可能態として捉えたこともあります。ただ、一歩間違うとサリー・マンとどう違うんだ、というところがありますよね。思春期の少年少女はやっぱり好奇心の対象になるわけです。そこは彼女もわきまえていて、いろんな人種の人をさまざまな海岸に置いて撮る。一定の条件のもとで、モデルのアイデンティティが固定されず、ばらけるようにしている。しかし、そうしたことを詰めて、ポリティカル・コレクトネスを意識したアリバイ工作をすればするほど、人工的なものになっていくということはあると思います。



( 「倉石信乃+林道郎+北島敬三+前田恭二 写真のシアトカリティ――「北島敬三 1975-1991」展関連トーク」 『photographers' gallery press no. 9』 photographers' gallery P73-74)
by JustAChild | 2011-02-13 15:57 | Wards


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