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カテゴリ:Wards( 76 )

KID FRESINO まだ人の文句なら腐るほどある でも口は閉じるlike budamunkみたく

Turn.(who do)

KID FRESINO

Featuring jjj
Produced By nosh
Album: Conq.u.er


[Verse 1: jjj]

落ちてきた明確 そいつを頼りに絵を描く
サンキュnosh またペンを下ろす
流れは急だがslow 今はそうfeel
わかるぜbrother あげなgain blow up
てめえの気持ち汲んで 愛を割く
溶かす心 on the rap shit
確信が目の奥
俺を取り巻く幸気付く時から始まったstory
帆をはったあの日は土砂降り
枯れた涙 しめつけるheart ちっぽけとdance
初めて知るpain そうじゃねぇと溜まったrhymeはヤケ
向き合った時わかる意味answer
軽くなる肩 だが信号はまだ黄
でも行けんだ remember あのsailing
時は無常 でも光はその先
仰いだ空 今信号は青 ready go


[Hook]
俺の言葉はred、no end カタチ反転させてるいつも
ヤツなら泣いてるladyに手を差し伸べる 無口なkidsには口で伝える
心配ねぇこの意志なら背中 掲げたモットー never dieだから
笑える話を持ち帰る 好きな奴らの会話リリックに変える

[Verse 2: FRESINO]

このmuiscはfatherやmother 最高にだっせぇが愛してるbrother
それからstreetにpeace願うsister 言葉にする意味もねぇよなmy step brother
そんで俺の相棒に ey men、yo keep 1人のhoney ヤツも当然
このhandおさまりきるほどのlibation この先増える一方なら俺は思い描く
己の才能に敬意を示した くだらねぇdreamでmid-night目覚めた
裏切る裏切らねぇ fakeの話 仲間のくせにその永遠の鎖
信じてることを信じきる俺は 簡単なことも忘れてるバカ
sniff cocaine and good weed で夜を忘れた いつかの約束は嘘になるか
この目に映るbigな摩天楼 誰に言われるわけじゃなく目指してるtop more
引き返すことはねぇゲームに生まれた 誰の心の中 like a scream "Life is ruff"
日々answerは変わり つけてたチェーン champagne goldに変わる
oh no なに見失ったhome boy?  足元見るよかこころみる

[Hook]
俺の言葉はred、no end カタチ反転させてるいつも
ヤツなら泣いてるladyに手を差し伸べる 無口なkidsには口で伝える
心配ねぇこの意志なら背中 掲げたモットー never dieだから
笑える話を持ち帰る 好きな奴らの会話リリックに変える


[Verse 3: FRESINO]

weakerがknowledgeを超える aha, musicはbookよかしっくりくる
このアホな頭 俺らのこのまま 生き急がなくてもcoolだぜforever
bitch,喜怒哀楽 テキストに起こして 金稼ぎなんてのは二の次だぜ
なぁB-boy, rapからmake it 後ろは見ずに立ち向かう本当の意味
もし声を無くしたら next 何をしようか アがるぐらいが俺は調子がいいんだ
まだ人の文句なら腐るほどある でも口は閉じるlike budamunkみたく
それぞれのやり方見て学ぶ but 俺自身のやり口尊重してる
あのboothのbasementで声を枯らした 仙人(掌)のように身に寄り添うだけだ
見てくれだけじゃつかめねぇもの そう心は目には映らねぇだろ
この山場を越えりゃZionへと一歩 風は強えぇが今いいとこ yeah




KID FRESINO - Turn.(who do) ft.jjj lyrics
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by JUSTAchild | 2016-04-01 02:55 | Wards

パウロ・ブランコ    世界中のモノクロフィルムをかっさらったんだ

PB  15年、20年前には、配給業者たちは私たちから作品を買うことができた。なぜなら彼らはそれをTV局に売ることができたからだ。今ではもうだめだ。配給業者たちは恐れている。
 (アラン・)レネのフィルムはいまだに世界中で売れているよ。でもそんな作品はレアなんだ。『ミステリーズ・オブ・リスボン』は別の話になる。この作品は製作の分野においてUFOみたいなものなんだよ。企画を始めたとき、誰もが私に「狂ってる」「できるわけがない」と言ってきた。でも私はこの作品のシナリオが並外れたものだと強く感じていた。私は、『ミステリーズ・オブ・リスボン』に関して、ふたつの異なった面で仕事をした。「シリーズもの」と「映画」という側面だ。そして私はふたつの国に賭けた。「シリーズ」はフランス作品であり「映画」はポルトガル作品だ。すべては配給の際の困難を避けるためだ。そういう構造において、金を手に得る術を知っていたからね。フィルムの周囲で起きることに関して、私は期待していなかった。それは奇跡的なことだ。4時間半のポルトガル映画がフランスで10万人の観客を獲得するなんてことは、生涯に1度だけ訪れるような出来事なんだ!私はこのフィルムをカナル・プリュス CANAL+ に売ることができた、資金調達においてではなく、だ。彼らのところには、時折ある種の寛容さがある。でもそのことは、フランス映画よりもヨーロッパ映画の場合のほうが単純だ。カナル・プリュスは彼らが望んだときにヨーロッパ映画を買うことができる。フランス映画の場合、もし彼らが制作後からそれを買うとすれば、それは業界がフランス映画よりも外国映画に不利益を与えるためなんだよ。それは割当には入らないんだ。同業者が外国映画よりフランス映画に不利益を与えるのはそのせいさ。

 ルイスの映画(『ミステリーズ・オブ・リスボン』)は世界中で売れた。アメリカでは5万ドルで売れて、50館で公開される。フランスとポルトガルでのヴィデオ(DVD/BD)のリリースだけで、最初は15万ユーロを稼ぐ予定だ。私は国際的なバイヤーであり、配給者であり、ここにこそ、私に有益な職人的な側面がある。こんなふうにして、その自由を手にするんだ。4回ポルトガルのコミッションを訪ねた。自由というのは、「いや、徹底的にやるさ」と言えることだ。私はカンヌにも、コンペティションを拒否したベネツィアにも行くことなく、可視性(visibilitèを得るチャンスを手にしたんだ。
 『ミステリーズ・オブ・リスボン』は1週間の上映が可能だとされていた。もし最初の週末のすべての上映が満席でなければ(このフィルムは1日に2回しか上映できない)、月曜にはスクリーンからお払い箱になるだろうことはわかっていた。わたしはUGCのシネ=シテ Cinè-citè館、レ・アール Les Halles館で公開するチャンスを得た。水曜日には客はほとんどおらず、木曜日にはちょうど半入りくらい。幸運なことに評判を得ることができ、金曜には人々が映画を見に来るようになった。そして土曜の最初の上映で劇場は満員になった。成功したんだ。幸運なことにその週末は天候が悪く、雨が降った。そうでなければ週末を越せただろうか?1本の映画の存続と言うのはとても不安定なものなんだよ。
 だからこそ、もしほかの配給方法があるんだったら、どうしてそれを使わない?VOD(ヴィデオ・オン・デマンド)はもちろんだが、でも人々はそこで何を探す?それは有名な作品であって、そうではないほかの作品じゃない。私は今はVODよりも、『ミステリーズ・オブ・リスボン』を半年、あるいは1年間、インターネット上で無料でアップロードすることを選ぶ。そのようにすることは、私とルイスに、次回作のための可視性を与えてくれるだろう。今日では、可視性の新しい形態を探さねばならない。他のフィルムでそれに成功したのは、例えばカンタン・ドゥピューの『ラバー』(10)がそうだ。このフィルムは場を探す術を心得ていた。
 もし金を支払うことが必要ならば、誰もアクセスしないだろう。もし無料なら、おそらく何かが起こる。みな、私が「クロノロジー・デ・メディア」[註1] を狂わせることを望んでいると思っているようだが、認めないよ。なぜなら、それは私たちプロデューサを救ってくれるものだから……でも然るべきときには、いくらか改良の余地がないかどうか検討しなくてはならない。
 人々がそう考える限り、私は壊したくない。なぜならこれは私たちを、つまりわれわれプロデューサーを救ってくれるものだからだ。しかしあるときには、そこに確かな成しうる変化がないのだとしても、検討しなければならない。なぜ劇場での公開とカナル・プリュスでの放映までの期間を1年から6か月に減らさないのか?人々はヴィデオ化についてしか考えていない。

――今後懸念されるのはDVDに関わる生存競争です。

PB  そういうケースがあったとして、なぜカナル・プリュスはある一定の入場者を下回った作品を6か月たっても放映しないのだろう?なぜすべてに対し平等にするんだ?たとえば、10万人以下の観客しか得られなかった作品を例外にすることだってできるだろう。DVD化されたフィルムの生命は、すでに劇場で成功おさめた作品にしか存在しない。作品がDVDで損失を取り戻すことはめったにない。

――あなたはどのようにして『ミステリーズ・オブ・リスボン』を地方で公開したのでしょう?

PB  このフィルムは地方で200館を回った。どこにもDCP(デジタル・シネマ・パッケージ)を上映する環境はなかった。だから多くの劇場上映にはブルーレイを使った。誰も初めは私のことを信用しなかったよ。その可能性を最初に私に話してくれたのは(フランシス=フォード・)コッポラだ。彼はエストリル映画祭に来ていた。私は『テトロ過去を殺した男』(09)の35mmプリントとDCPを持っていたんだが、そしたら彼はブルーレイ・ディスクを持って来て「もし問題があればこのフォーマットで上映してほしい」と言ってきた。「クオリティーは同じ、いやそれよりも上だからね」と。そしてそれは本当だった。(デヴィッド・)クローネンバーグも同じことを私に言ったよ。アメリカ人の見解によれば、ブルーレイには暗号化され得ないという明らかな不都合がある。DCPを用いれば上映の回数を確かめることができる。ブルーレイは誰かに貸すことができてしまう。しかしそんなことは私にとって甚だしくどうでもいいことだ。劇場は私に「小さなプロジェクターしか持ってないんだけど、どうやってこれを上映したらいいんだ?」と尋ねてきた。そして私はこう答えた、「たいしたことじゃないさ。プレイステーションを買ってきて、それに接続すれば最良の上映ができる」とね。私の仲間たちの中にも、最初はそれを拒絶するものがいた。彼らは本当に著作権侵害されることを恐れているわけだ。で、それがどうしたって?何が問題なんだ?少なくとも作品は見てもらえたわけだよ。
 国際的に作品を売り込むフランスのインディペンデント・プロデューサーたちは、今、彼ら自身でDCPで作りたがっている。たとえば、私があるフランス映画をポルトガルで配給するために買う。すると、それをどこで上映するのかを管理するために、私にDCPを提供してくるのがあいつらだ。バカ野郎どもだ!フランス映画を海外で公開するってことはすでに奇跡なんだ、なぜそのうえに上映回数まで管理するんだよ?そのせいで10倍は高くかかっている!そんな管理の脅迫観念は理解不能だ。何ももたらさないインターネットと同じだ。あいつらは全てをブロックしたがっているが、若い奴らはすでに新しい海賊行為の方法を見つけてる。この法律(Hadopi法)とともに失う金はいったいいくらだ?私が批判しているのはプロフェッショナルが硬直していること、彼らが時代が変わったということを理解していないことだ。映画に可視性をもたらす道具を持っているというのに、なぜそれを使わないんだ?

[1] Chronologie des medias フランスにおける劇場公開映画作品保護のために制定された、ヴィデオグラム発売、VOD、有料/地上波TV放送に関する期間的な規制。現行の規制ではヴィデオグラム発売は当該作品の劇場公開6ヶ月後、有料TV放送は1年後、地上波TV放送は2年後にそれぞれ認められる。

<中略>

――あなたは多くの若い映画作家たちの企画を受け入れていますね?

PB  たくさんあったね。でも残念なことに、今、私はあまり多くは目を通してないんだ。17本の作品を製作した年もあったが、今年はさほど多くない。6本の作品を製作した。今は、ポルトガルへのフランス侵攻の時代、まさにポルトガル版『戦争と平和』のような、ラウル・ルイスの新作に集中している。連作になるだろう。ファニー・アルダンの次回作にも関わっているよ。映画作家としての彼女の作品には興味を引かれるんだ。そして、ある若い映画監督の作品も製作しなくてはならない。今、3つ、4つの企画で迷っているものもある。映画を作るのは贅沢なことだ。そのために特別な機会として捉えなければならないだろうし、そのために犠牲を払わなくてはならない。まさにあるべき必要性だ。誰しも興行的に失敗する権利を持っている。私が思うに、クラブ・デ・トレーズ[註3] が探求している安全保障や援助は創造性に対する最大の敵だ。「中間の映画]を巡って起こっているあらゆることが古めかしいんだ。彼らは、別のものがあるべき場所を、奪いたいんだ。それは深刻な事だ。彼らは制度化されることを望み、公の役人のポストを占めたいわけさ。創造性のある映画が存在するのはまさに逆の場所だと私は思っている。むしろシステムを変えるために闘うこと、より多くの自由を得ることこそが重要だろう。私は、映画製作において、ふたつの本質があると思っている。今日の映画に欠けていることはまさに、勇気と欲望だ。

――あなたは若いプロデューサーを育成しなかったんですか?

PB  映画製作は個別の冒険だと思っているんだ。アンベール・バルサンとは親しい友人だったけど、私たちはまったく異なっていた。それぞれのプロデューサーが、各々にあった製作体制を開発するわけだ。学校はないんだ。
フェミス FEMISに講義に行ったとき、学生たちは私をまるで宇宙人のように見ていたよ。私の言っていることが、彼らがそれまでもそこで学んできたこととまるで正反対だったからだ。なぜなら、私たちはもともとシネフィルで、つまり発見の愛から出発している。映画がまさに本当の革命期であった特異な時代(ヌーヴェルヴァーグ、スコリモフスキ、カルメロ・ベーネ、パゾリーニ……)に生きるという幸運に恵まれていた。私の出発点はまさにそこなんだ。望むべきは、そのように作品が存在することだ。何もかも覚悟していた。

 ラウル・ルイス『テリトリー La territoire』(81)はオリヴェイラの『フランシスカ』(81)のフィルムの切れ端で撮影された。世界中のモノクロフィルムをかっさらったんだ。こんなこと、学校では教わらないだろうね。今のプロデューサーは独創性に乏しい。私たちは、先のことを考えずに生きていた。モレッティのことはよく覚えているよ。彼は、作品をパリで上映するために、3つのボビンを抱えてレピュブリックの事務所にやってきた。ある日、シュレーターはマグダレーナ・モンテズマとリスボンに来て、私にこう言った、「もうマグダレーナには6週間しか残された時間がないから、映画を撮るべきだ」、と。私は不可能だと彼に答えた。わずかな資金しか持っていなかったからだ。それでも『薔薇の王国 DER ROSENKONIG』を製作した。それがどうやって実現したのかはわからないが、撮影したんだ。ユベール・バル ―― 当時、ロッテルダム映画祭があるべき役目を果たしていた時代 ―― は、ヴェンダースと作品のラッシュを見て、私たちを多少なりとも援助し協力してくれた。つねに突飛なアレンジをするトマス・アルレンは、コダックのフィルムを買い、ポルトガルにただで送ってきてくれた。そのおかげで撮影を続けることができたんだ。許可も契約もなかった。何本の作品がこんな風にして生まれてきたことか!『マンハッタンから遠く離れて Lion de Manhatten』(82)の製作の際に、私は(ジャン=クロード・)ビエットに言った。製作には3つの条件がある。ロケで撮影すること、一ヶ月につき1度の週末で撮影すること(私は、レピュブリックの金庫の金を製作費にあてた。多少の現金を持っている必要があった)、メインのキャメラマンとしてマリオ・バロッソ、録音はジャン=ポール・ムゲルを使うこと。なぜなら、彼らは『フランシスカ』で仕事をしていて、一ヶ月に一度の週末になら、彼らをビエットの現場に送り出すことができたからだ。ビエットは3つの条件に応じて作品を構想した。こうやって作ったわけさ。F.J.オサンの『雌犬島の宝 Le Trèsor des iles Chiennes』(90)は、スタジオで撮影することを予定していたが、私は支払う金を持っていなかった。しかし、とてもいいあばら屋が田舎にあるとオサンに話した。ライティングを担当していたダリウス・コンジ(Darius Khondji)は照明器具一式を要求してきた。だから私は彼に、2つのマンダリン(軽い照明器具のこと)で乗り切るように話したんだ!
 私が言おうとしているのは、システムを改良し、そしていくつかの方策を打ち出そうと試みているということだ。私だって確信を持っていることなんてない。でも、行動してみるべきだ。フランス映画の幸福な時代はもはや存在しないことはよくわかっている。私は質について語っている。量は十分にあるからね。カンヌのCNC公式の現状分析文章は、非常に奇妙なものになるはずだ。今年、すでに製作された大量の映画を見れば、質の良いものが多くないことは明瞭だ。悪い年ではなかったと思うが、それにしてもな。ありえたかもしれない可能性を引き合いに出せば、やはり大したものじゃないんだ。

[3] Club des 13  フランス映画における「中間の映画」を提唱する映画人たちのグループ。パスカル・フェランがイニシアティブを執り、そのメンバーにはジャック・オディアールや先日急逝したクロード・ミレールなどが名を連ねる。



( 『nobody issue 37 特集 フィリップ・ガレル あるシネアストの肖像』P86-P93 「Cahiers du Cinèma」667号所収、P102~P107 2011年4月25日、パリ 聞き手・構成=ニコラ・アザルベール、ステファン・ドローム 翻訳=田中竜輔、槻舘南菜子)




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by JUSTAchild | 2015-01-24 03:35 | Wards

MC漢   これ以上俺よりも出番じゃねぇよ Libra(ライブラ)

——いまの曲、かなり過激なリリックだったと思うんですけど。

過激じゃねぇ 当たり前のリリックだよ

——いまかかった曲の説明を。

曲は聴いての通り「Let's Beaf」だよ つまりここにいる奴らは「Let's Beaf」な状態だと思う

——それはどういうビーフなんですか。ビーフの対象はどこですか?

ビーフの対象は秤(はかり)だよ 秤

——それは具体的な名前は出さなくてもいいですか?

<天秤>だよ <天秤録音>だよ この野郎

そういうことはっきりさせねぇと仕事に影響が出まくっちゃってるから

これは生放送で影響出まくってるから

ここからは第二章

これが俺流 

やりかたはいろいろあるけど 暴露って意味じゃねぇ ありのままだぜ

これが俺たちのマイク いのち 一本 ここでマイク 土俵 立っている

フリースタイルじゃねえ 今日は ここから誰もが振り返る話の内容だ

これが俺たちのしゃべるオリジナルフロウだ 風呂にはいって飯食う時間もねえぞ

瞬きする時間はねえ ここから要注目だ これがMC漢 a.k.a. GAMIのスタイル

シーンのやつらも話聞いたらだんだんスマイルになるはずだ

つまり、我々はモチベーションがなくなっちゃいかけて この前氷河期の話をしたじゃん?


——しましたね。<ele-king>にもインタビューがあがってるんでたぶん読んでいる人も多いと思います。

氷河期の頃の話をしようかと思って

——しましょう。

そこでケリを付けてはっきりさせて<鎖グループ>はまったく別団体、そういうことをアピールしないと仕事に影響が出てるからさ 俺らが頑張れば頑張るほど関係ねえところに金が流れるっていうのもここらへんで終わりにしようと思ってるから

まあ、何より日本のヒップホップがなあなあ過ぎてつまんねえなって思ってるから

そのへんをはっきりさせるビーフだ

牛肉だ ガッツリ食うぜ 骨のほうまでしゃぶってやるよ

これがMC漢 a.k.a. GAMIの喋るラップだ

お家に隠し持ってるサランラップのシワシワのパケと一緒にするんじゃねえ

俺たちだったら真空パックの新鮮なオイニーのする状態の 

俺たちは刈り取る前の状態のマリファナみたいなものだ

これはマジバナだ

甘い罠がいっぱいあったから俺がここで喋ってやるだけだ

これが14年間の歴史

俺たちがつくったレシピ

全部教えてやったのに

美味しいとこだけ王様が食うっていうのは許せねえなってことで

そろそろMC漢が口を開く出番だ

これ以上俺よりも出番じゃねえよLibra(ライブラ)

だいぶダルいはずだ 開いた口が塞がらなくなるぜ

これがMC漢 これが日本語ラップだ 見本になるはずだぜ




DOMMUNE 2014.06.04 鎖グループ&BLACK SWAN公開記者会見&SPECIAL LIVE
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by JustAChild | 2014-06-08 03:38 | Wards

ジョン・フォード   馬にしては珍しいほど、私のことを愛していたんだ


——サイレントの当時、脚本家とのチームワークは、大体のところ、どんなものだったのでしょう?

フォード 脚本家と缶詰になって作業することは、一切しなかった。例えば、『アイアン・ホース』のオリジナル脚本を書いたのは、ジョン・ラッセルだったが、われわれが頼りにしたのは、実際、簡単なメモ程度のストーリーだった。
 ロケーションに出かけた先はネヴァダ。ロケ隊がそこに着いた時、外気は約零下六度だった。俳優たちとエキストラは、全員、夏着だったので、震え上がったよ。連中が白いニッカポッカー姿で朝起きた時が面白かった。ひどい時期に行ったもんだ。
 いつか『アイアン・ホース』の撮影裏話を書く時間があったら、と思っている。なにしろ珍事続出だったよ。一行のうち、女たちはサーカスの車に住まわせ、男どもはセットの外に小屋を建てて、そこに押しこんだ。(後に、メキシコの砂漠に移動した時のことだ。ソリーという小男がカメラマンのジョージ・シュナイダーマンのところへやって来て言うには、「ホテルは一体どこにあるんで?」ジョージは言ってやったそうな。「ホテルだと?君の立っているところがそうさ」)
 ところで問題はだ。制作費が日いちにちと、山のようにかさんでしまい、当初の単純な小ストーリーが、フォックス社始まって以来の大作、いわゆる”エピック”になってしまったことだ。もちろん、もし会社がその時何が起こりつつあるかを知ったら、即刻、中止令が出されたことだろうよ。

——完成後、会社側が手を入れた個所は相当ありますか?

フォード それほど多くはないね。しかし、会社としてはあの主演女優にしこたま金を注ぎこんでいたので、 フォックス社重役、ソル・ワーツェルは、彼女のクロース・アップが不足だと言い出した。そこで会社は、他の監督に頼んで、彼女を壁の前に立たせ、笑顔を作るショットを追加撮影したもんだ。そんなことしても、作品には何の役にも立ちゃしない。照明は合わないし、コスチュームすらちぐはぐだった。会社は、約十二個所、彼女のクロース・アップをはめこんだ。当然ながら、それは私にとってはぶちこわしもいいところだった。

——そういう経験は、それが初めてでしたか?

フォード ウーム、とにかく、最後でなかったことだけは確かだな。

——カメラマンのジョージ・シュナイダーマンとは、どうやって仕事をされましたか?例を挙げてどうぞ。

フォード 具体的にかね。私は、影はあくまでも黒く、陽光はあくまでも白く撮ってもらう主義だ。それに、光の中にいくつか影を置くのも好きだ。ジョージとは、その点についてよく打ち合わせはした。私が「ここがいい。ジョージ」と言うと、彼が「いいねぇ。だけど私は、もう少し光のほうに動かしたいな」と答える。そこで、私が「やれよ」と言う。こんなふうだった。私たちは実に呼吸が合った。一度だって、私はカメラマンと喧嘩したことがないよ。

——初期の頃から、あたなは同一ショットのフレームのなかで、暗い室内からまばゆい光の外景を撮るのがお好みのようですが。

フォード そうだ。しかし、それがカメラマン泣かせなんだ。露出を決めるのがむずかしいからな。仮にうす暗いテントの中から、陽射しの中へ出てくる人物がいるとしよう。彼の歩みに従って、外界の明るさにゆっくり露出を合わせなければならん。観客がそれと気づかよう、細心の注意を払ってやらねばいかんしな。

——サイレント時代、俳優の演技指導にはリハーサルをされましたか?

フォード そんなことをしている余裕はなかった。役者に伝えることのできることといったら、どっちに向かって動け、という指示だけだった。ところで、役者が動いている間中、話しかけることができたのは、大助かりだったよ。何しろ、サイレントだ。今でもそれができるといいんだがね。時によって、女優は、音楽が少しでも鳴っていたほうが芝居がしやすいようだ。それが気休めになるなら、と私はダニー・ボーザジに命じて、アコーディオンを静かに弾かせたもんだ。あの頃は、みんなそうやっていた。馬鹿げたことのように思えるかも知れんが、とにかく役に立った。


『香りも高きケンタッキー』(一九二五)

フォード 他愛もない競馬のストーリーを撮りに、はるばるケンタッキーくんだりまで出かけた。撮りながら、お笑いをどっさり詰めこんだ。雌の仔馬がいて——実にホレボレする容姿だったよ——、それが、何かと私にすり寄ってきたっけ。群から一頭だけ離れて、俺んところにばかり来るんだ。俺の帽子をくわえて逃げ、こっちをふり返る。そして、トコトコ戻って来ては地面に落とす。拾おうとすると、またくわえ上げて逃げていく。持ち主が言ったもんだ。「どうして名前をつけてやんなさらない? あのこは監督さんにホレてるんですぜ」
 そこで私は、その仔馬をメアリー・フォードと名づけてやった。メアリーは大人になってレースに出場し、三回連続で優勝したという。が、かわいそうにその場で脚を折り、競走馬として使いものにならなくなって、乗物用の馬に売り渡されてしまったとか。私は競馬の通ではないが、そんなことにならなければ、あのこは有名な競走馬になったと思う。あの仔馬のことは忘れたことがないな。馬にしては珍しいほど、私のことを愛していたんだ。役者に演技をつけている間、あのこは私の椅子の脇にじっと立っていた。撮影が終わって立ち去る時、あのこは、群の他の連中が半マイルも向うにいるというのに、柵沿いにわれわれの乗った車の後をしたって、どこまでもついて来たものだった。



( ピーター・ボグダノヴィッチ 『インタビュー ジョン・フォード』 訳:高橋千尋 分遊社 P86-93)
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by JustAChild | 2012-12-11 05:51 | Wards

ジェームズ・T・ファレル   僕はブラックソックスを覚えている


 そして1919年のワールドシリーズをシンシナティ・レッズと戦うことになったとき、ホワイトソックスは無敵のチームだと思えた。アメリカン・リーグだったらシンシナティ程度のチームはせいぜい4位どまりだっただろう。ホワイトソックスの2塁手エディー・コリンズの前任者モーリス・ラスみたいな使い古しの選手ばかりの、寄せ集めのチームだ。ワールドシリーズの行方が決まっているように思える年があったとすれば、それは1919年だった。そして確かに行方は決まっていたが、決めていたのは賭博師たちだった。
 1919年のシリーズがどう仕組まれていたかについては、これまでさんざん語られてきた。第1戦でシンシナティはエディー・シーコットをノックアウトし、9対1で勝った。僕は58番通りの高架鉄道の駅で新聞を買い、がっくりしながらこの試合のプレー詳細を読んだことを覚えている。シーコットは滅多にない乱調だった。1919年のシーズン、彼はどのアメリカン・リーグのピッチャーよりも安定していた。唯一彼の上を行っていたかもしれないのはウォルター・ジョンソンだけだ。そして翌日、レッズはレフティ・ウィリアムズを攻略して4対2で勝った。ここ一番で最高のプレーを披露するチームだというのに、ホワイトソックスは信じられないくらい不調だった。でも僕は選手やスポーツ記者、賭博師たちが出入りするホテルのロビーから遠く離れたところにいた。八百長が仕組まれているなんて夢にも思わなかった。

<中略>

第5戦もシンシナティが勝った。第6戦と第7戦にホワイトソックスが勝利し、シンシナティが4勝3敗でリードして両チームはシカゴに戻ってきた。
 僕の叔父さんは僕の高校の神父に手紙を書いて、甥がシリーズの第8戦を観戦したいと言っているので学校を休ませて欲しいと頼んだ。その手紙には、一生忘れられないようなワールドシリーズの試合を観られるなんて滅多にないチャンスなんですと書いてあった。僕は休みを許された。外野席に1人座った。晴れた日だった。<中略>ソックスの攻撃になるたび、チャンスはあった。でもレッズが10対5で勝った。思ってもいなかったことが起きてしまったのだ。ホワイトソックスはどう見ても格下のチーム相手にワールドシリーズ敗退を喫したのである。

<中略>

 何人かの選手が出てきた。青いスーツを着てグレーの帽子をかぶったレフティ・ウィリアムズもいて、ファンの何人かが彼に声をかけた。他にも何人かが階段を降りてきた。そしてジョー・ジャクソンとハッピー・フェルシュが姿を見せた。2人とも大柄な選手だった。背が高いのはジャクソンの方で、フェルシュの方が横幅があった。2人はシルクのグレーのシャツに白いズックのズボン、白い靴という颯爽としたいでたちだった。ゆっくりとクラブハウスの階段を降りてきて、顔は無表情を装っていた。
 何人かのファンが声をかけたが、2人とも応えなかった。向きを変えて立ち去っていった。同時に、群衆もゆっくり、ぞろぞろと2人を追っていった。僕も一緒に行って、ジャクソンとフェルシュの1メートル半ばかりうしろをついていった。2人はいくぶんゆっくりと歩いていた。ファンの1人が声を上げた——
「ほんとじゃないんだろ、ジョー」
渦中の2人は振り向かなかった。ゆっくりと歩き続けた。群衆は次々に声を上げ、大人も少年も幾度となく言った——
「ほんとじゃないんだろ、ジョー」
 この言葉が、スタンドの下を35番通り側へと歩いていくジャクソンとフェルシュの背中を追っていった。2人は球場を出て、ライトの外野スタンド裏のサッカー場に停めた車へと向かった。僕はサッカー場の出口のそばで待った。そこでも多くのファンが待ち構えていた。まもなくフェルシュとジャクソンはそれぞれスポーティーなオープンカーに乗って、何も言わずに2列に並ぶファンの間を縫って走り去っていった。
 僕はクラブハウスに戻った。でも選手はもうほとんどいなくなっていた。暗くなってきていた。観衆がいなくなったあとの球場は本当に寂しいものだ。あの9月の日曜の夕方ほど球場をわびしく、さびれて見えたことはなかった。日はほとんど暮れていた。僕は家に帰った。本当なんだな、と僕は肌で感じた。でも選手たちが何とかこのスキャンダルから抜け出して、プレーを続けられるようになることを願っていた。
 2日後、シーコットとジャクソンは大陪審に事実を認めた。フェルシュとウィリアムズがそれに続いた。ホワイトソックスのオーナー、チャールズ・A・コミスキーは7人の選手を出場停止処分にした。8人目の選手チック・ガンディルは1919年のシーズンを最後に引退していた。
 シーコットは共謀の分け前として1万ドルもらったことを認めた。ジャクソンは供述によれば5千ドルを受け取っていた。選手たちは全部で10万ドルもらったという話だった。本当はもっともらう約束だったのだが、賭博師たちに裏切られて十分な分け前をもらえなかったらしかった。報酬の詳細はいまだ完全には明らかにされていない。この取引に関わったとして名前が挙がったのは、かつて二流ピッチャーだったビル・バーンズと、元フェザー級チャンピオンのエイブ・アッテル、それにニューヨークの賭博師アーノルド・ロススタインだった。
 8人の選手たちは起訴されて、共謀罪に問われたが、刑事告訴は免れた。球界最初のコミッショナー、ケネソー・マウンテン・ランディス判事は8人を永久追放処分にした。

 1922年、ジャクソン、リスバーグ、ウィリアムズらの選手たちはどさ回りの巡業を試みた。僕の通っているセント・シリル高の野球コーチが選手たちと知り合いで、この巡業チームに加わってプレーする契約をした。ある日の午後彼は、ジャクソン・パークで僕らが練習しているところにレフティ・ウィリアムズを連れてきた。ホワイトソックスのユニフォームを着たウィリアムズは、僕たちの打撃練習のピッチャーを務めてくれた。全部直球で、僕らに打たせてくれた。話しかけてはこなかった。スウィード・リスバーグは黙って立って見ていた。彼も話しかけてはこなかった。
 人呼んで「ブラックソックス」はシカゴでどさ回りを始めた。75番通りとイリノイ中央鉄道が交差するグランドクロッシングにある小さな球場で彼らはプレーした。今ではその球場も取り壊されてしまった2千人くらいの観客がその試合を観ていた。ジョー・ジャクソンは鉄道の線路を越える一発を放った。

 どさ回りの巡業は失敗に終わった。

 その後、僕の野球への思いは変わってしまった。ずっと長い間どのチームも応援しなかった。大人になろうとしていた僕にとって、その事件は野球選手をヒーローとして崇拝する日々の終わりを告げるものだった。多くのファンが裏切られた思いを抱いていた。僕は違った。僕は残念だった。嘘だったらよかったのにと思っていた。選手たちにもう一度チャンスが与えられたらと思っていた。
 ジョー・ジャクソン、バック・ウィーバー、マクマリン以外、ブラックリスト入りした選手たちはまだ生きている(1957年現在)。ジャクソンは野球界の伝説になった。文盲だったと言われていて、マイナーリーグにやってきたときにシューズを持っていなかったという逸話が残っている。かの「嘘だと言ってよ、ジョー」の話は伝説になった。スポーツライターたちの中には、そんなことがあったこと自体を否定する者もいる。伝えられているところによれば、ジャクソンが大陪審で証言している間、シカゴの裁判所の外では群衆が待ち構えていた。彼が出てくると、少年たちが彼に呼びかけたという——
「嘘だと言ってよ、ジョー」
 でも僕がここで書いたように、こうしたことは本当にコミスキー・パークで起きたのだ。勇気があったら、僕も多くの大人や少年たちと一緒に声を上げていただろう。

 ジャクソンの姿はまざまざと瞼に蘇ってくる。背が高くてほっそりしていて、打席では内股に構えていた。両膝を曲げ、バットを揺らしてボールに踏み込んでいって、球界でも屈指の優雅さと力強さを併せ持つスイングを見せてくれた。ベーブ・ルースは彼のバッティングスタンスを参考にした。タイ・カップは彼のことを最も偉大な天性の打者だと讃えた。1911年、メジャーでレギュラーに定着した最初の年、ジョーは4割8厘の打率を残した。ホワイトソックスファンの一番の誇りだった。彼がいるということは、最高の野球選手が自分たちのチームにいるということだった。ジョー・ジャクソンの裏切りは、他のどの選手よりもシカゴのファンを深く傷つけたのである。



( ジェームズ・T・ファレル 「僕はブラックソックスを覚えている」 訳:藤井光 『モンキービジネス 2008 Spring vol.1』 ヴィレッジブックス P50-58)
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by JustAChild | 2012-12-11 05:49 | Wards

菊地成孔 チューニング間違ったと思った?良いんじゃないチューニングなんか間違ってた方が

うおっとっとジョージラッセルじゃないんで驚いた?チューニング間違ったと思った?良いんじゃないチューニングなんか間違ってた方が。だってオレ意味ぜんぜんわかんないんだけど「あげぽよー」とかあんじゃん、あれ、浜田ブリトニーが言ってるとずーっと思ってたんだけど、人間ドックでは特に何も出なかったからね。そんなトコっしょう。そういえばこないだー、靖国通り沿いの結構高めのさあ、要するにとっぽいバーで飲んでた訳、隣が若い女子とおっさんなんだよね。ニューおっさんってかね。まあ、あれ不倫だと思うんだけども、まぁまぁまぁそれはともかく。そしたら女子が「そういえばアヤカが1曲だけ復帰したよね。ちょっと凄過ぎて違わなくないあれって?」って言ったのよそしたらオッサンがね「あああ、あの、天然っぽい子でしょ」「うーん、天然っていうかあ」「あの、あの、あの、あれだ女優だよね」「はあ?」とかいってぜんぜんかみ合ってねえんだよ会話が。そしたら女子が痺れきらして「アヤカだよだって」「ああ、ああ、だから、思い出した。あれだ、干物女。やってた人でしょ」つって、綾瀬はるかと間違ってんのよ。アヤカと綾瀬はるか。がんばれニューおやじ。GNOとか思ってトイレ行っちゃった。そんなん言ったら東横線の「菊名」って菊地成孔の事になっちまうだろうよ。で、おなじみの「菊地成孔の粋な夜電波」今回は月に一度の菊印、21世紀のソウルバー、その名も「ソウルバー<菊>」開店しました。って訳で、ここ東京赤坂TBSラジオの第8スタジオと、リスナーしょっくーんのあらゆるその場所をイルでスムージーなソウルバーにしちまおうって感じで、3Dホログラムでいっちゃいましょうかラジオ局って感じで、ロスのオタク相手の初音ミクって感じでって感じでって感じで。今かかってんのはまぁ81年だけどね。まあはっきり言ってこの曲聴かなくて良いんだ。いや聴いても良いよ勿論、聴いても良いんだけどでもほら、ソウルバーに入った1曲目なんて誰も聴かないじゃん?注文の時間っしょ。みんながウイスキーミルク、あ、この店ブランデーミルクかウイスキーミルクっきゃ出さないんでよろしく。凄いでしょ茶道みたいでしょ。でまあ、その一杯目のウィスキーミルク、最初のアタックね、クラっと来るの待つ時間だからさあ1曲目ってのはさ。まぁ余裕ある人、近所にドンキがある人ね、この曲5分あるから、往復楽勝じゃん?1500円で売ってるから買って来て、ミラーボール。それ自分の部屋で回しながら、こう聴こうか。要するにソウルバー<菊>ミラーボールマストっちゅうことで。近所にドンキねえよって人は、まぁーそのう、作ればいいんじゃん?材料は電球とー、いろんな色のセロファンとー、オーガニックの人はホタルとー、ロウソクとー、竹ひごとー。精霊流しじゃねえんだ。みたいなね。まあどっちにしろ最終的には自分がその周りをぐるぐる回る訳だけどさ。え疲れる?疲れるはねえだろう?がんばれニューおやじーGNOイタリア語でリエゾンしたらニョ。だよこれね。疲れるじゃなくて、正しくは目が回る。でしょー(笑)。良いんじゃない目ぐらいちょっと回ってた方が。でも一応言っとくか、ナウオンプレイング、ズーム、サタデーサタデーナイト、フロムアルバム、サタデーサタデーナイト オン81 欲望はあるだけあった方が良いよ。遠慮すんな。怒りもあるだけあった方が良い。モーリスホワイトも「ブギワンダーランド」で言ってるからね。宵闇が迫ると、欲張りすぎた黒人が、破産する為に外に出る、神を信じる事は恥ずべきことじゃないってね。ニュース観てみろって。もうメチャクチャだよ世界中(笑)。うおっとっと、そろそろ手作りミラーボールは回り始めたかな?サントリーVSOのコロバ・ミルク割りの味はいかがかね?それではいってみよう。あなただけこんばんは。そしていらっしゃいませー。



( 菊地成孔 「菊地成孔の粋な夜電波 第28回 10月28日 ソウルバー<菊>開店しました」/「第三インターネット diary 3月10日 粋な夜電波シーズン2前口上一覧/リングス再臨」 )
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by JustAChild | 2012-03-12 05:53 | Wards

伊藤俊治   モンタージュが原理的に醸し出すパルス音みたいなもの

伊藤 エイゼンシュテインは『映画における第四次元』で、サイレントからトーキーへの移行を受けて、映像と音響を統合するモンタージュ理論を提示しました。スクリャービンらの高次倍音を利用した作曲になぞらえて、さらに音響を映画における下位倍音としてとらえることで音とイメージを統合しようとした。ここで『メキシコ万歳』においては、下位倍音というのはいったい何なのかということを、ちょっと考えてみたいですね。
 これは今年の前半の授業の中でさまざまに、菊地さん、大谷さんなりで討議されたことだと思うんですけど、僕は『映画における第四次元』の実践としての『メキシコ万歳』において、エイゼンシュテインが成し遂げようとした下位倍音のありようというのは、たぶん伝承の力ということだと思うんですね。「伝承の力」といってわかりにくいかもしれませんが、「四次元的な知覚の力」というふうに言い換えてもいいかもしれません。そういう二重構造の中で、多調・無調性が、調性と交わっているという状況が、『メキシコ万歳』のモンタージュの中にかいま見える。
 例えば新生児は映像と音、さらには触覚や味覚、匂いの入り混じった無数の波にもまれ続けているといわれます。だから赤ん坊は大人と同じ匂いをかいでいるのに、匂いを鼻だけで感じるのではなく、匂いを見たり、聞いたりもしている。そうした渾然一体化した世界を生きているわけです。でもだんだん感覚の印象を分類し、体系化し、まとめあげることを覚え、大人の認知や認識の方法を獲得していく。
 しかしまれに、大人になっても視覚や聴覚や触覚が渾然とすることがあります。レースのカーテンをなでると黄色を思い浮かべたりというような。感覚というのは感覚同士が織り合わされて、厚手の生地のようになったものだから、ずるずると引きずりだされるんですね。それは太古の人間がどのように感覚を働かせていたかという記憶でもあり、それが四次元的知覚とむすびつけられている。

<中略>

 さっきちょっとお話ししたように、『映画における第四次元』でエイゼンシュテインはサイレントからトーキーへの移行を受けて、映像と音響を統合するモンタージュ理論を提出した時、音楽理論を援用して、下位倍音という、近代和声学から捨てられた理論に注目し、映像と音響の統合が非常に原始的な、無意識的な律動を生成させていくという可能性を示そうとした。
 しかし、トーキー映画はその後、俳優とか物語とか演出といった十九世紀的な演劇モデルをそのまま使用してしまう。オペラハウスがそのままハリウッドまでつながってしまう。伝承の力に行かない。この『メキシコ万歳』という映画が僕にとっておもしろいのは、さっきお話ししたように下位倍音につながるような、ある種の伝承の力というか、神話的な力へ誘おうとしているというところがあると思うんですね。
 逆に、それ以後、一般化した大衆映画としてのトーキーというのは、そういう下位倍音を抑圧してきた、というふうに考えてもいいかもしれない。あるいは、逆にサイレントとかレコードのほうが感覚を遮断させているだけに、共感覚的に無意識的な律動を潜在させたというふうにもとらえ得るかもしれないと。
 ちょっとメディア論的な補足をしておきたいんですが、まず我々が今、密度の濃い電子メディア環境にいて、これは視覚的に構造化された言語世界とは異質な世界です。こうした事態が進行したのは二十世紀後半のことでした。それがある意味では音響的な傾向を持つ環境であり、視覚的世界が確立してきた枠組みや構造を切り崩し続けている。あるいは視覚的世界と聴覚的世界の間に宙吊りになっているといってもいいかもしれません。

<中略>

菊地 動静、動くということと止まるということが、視覚メディアの中では、今おっしゃったように非常に入れ子のようなものになっている。映画の元は写真で、その元がカメラ・オブスキュラの動画であるというように、止まっている情報と動いている情報が二重、三重に入り組んでいる。そこでエイゼイシュテインは、映像が動けばそこに下方倍音が発生するとしたんですが、彼は聴覚情報は静止しない、音は止まらないんだと言っています。ある時代、音楽の世界で、音が止まってもずうっと同じ、まったく動かない音が、要するに継続音がずうっと鳴り続けるものや、やたらと寸断が入って、ズバッ、ズバッという、スクラッチみたいな、音が止まって空白になって、また始まるショックみたいなものが、とてもショッキングで魅力的な状況としてもてはやされたというのがありました。
 これはつまり、「音が止まる」というのはどういうことなのかという、パッと考えるとあり得ない形を探す営みだと思うんですね。やたらと止まっている音楽、たとえば当時ザッピングと言われていたジョン・ゾーン*のポストモダニズムの音楽とかは、演奏しては止まって、その静止を聞くんだと言う。それはジョン・ケージ*的な意味でもなくて、継続したものが一回止まるという、音が止まっている状況を見せるというものでした。それと、ドローンという、ずうっと同じ音が動かず鳴りつづけるもの……この二つがポストモダン・ミュージックの二大潮流なわけですが。

伊藤 音楽にとって写真な状態はないんですよね。だから、写真は無音なんだと思うんだけど。

菊地 そうですよね。

伊藤 そして写真は、そういう人間の知覚、感覚上に唯一生じた裂け目なんですよね。だって、解釈できないんですよ、写真って。静止しているんだから。

菊地 そうですね。

伊藤 だから、ほんとにそういう意味で、写真は十九世紀に裂け目として出現して、そのあと、映画によって塗り込められたのかもしれない。

大谷 エイゼイシュテインはモンタージュという形で、静止画と静止画の間をつなげようとした……意味でつなぐというか。一枚一枚の絵を文脈というか物語のほうに回収してしまうわけですね。そうしたことから始まっているエイゼイシュテインが、『メキシコ万歳』で、そのモンタージュというやり方をまた違った方向に持っていったとすれば、それはどういった感じだったんでしょうか。

伊藤 さっき伝承の力なんてことを言いましたが、サイレントからトーキーに絡んでいうと、まずサイレントの時代の人々は映画の独自性を強く感じていたが、誰もそれを発見出来なかった。サイレントが提示したモンタージュの可能性はトーキーとシナリオに回収され、消えてしまった。人類が共有しえた唯一の言葉だったかもしれない、各々が母国語で参加できる唯一の共通言語だったかもしれないサイレント映画が消えてしまった。
 ゴダールが復活を遂げた『勝手に逃げろ』という1979年の映画があります。その映画をつくったときにゴダールは、サイレント映画について「モンタージュというのは心臓の鼓動だ。ショットとショットの間に関係を打ちたてて、それによって人々に見えないものを見せる何かだ」って言っていて、それが非常に印象に残っています。僕に言わせると、そこには伝承の力が脈づいていて、ものすごく高いエネルギーでリズムを刻んでいる。それは目に見ることはできないんですけど、サイレント時代の人たちが映画の独自性といったものに何を感じたのかというと、モンタージュが原理的に醸し出すパルス音みたいなものだったのではないでしょうか。サイレントは我々が使っている言語の初源へ連れ戻してくれる……。

大谷 パルスが剥き出しに見えるみたいな。それまでぜんぜん見えなかったものが、モンタージュということになると、あ、ここにはパルスがあったんだということがわかるということでしょうか。

伊藤 そうですね。だから、『勝手に逃げろ』で、ゴダールはスローモーションを多用しています。スローモーションというのもよくわからないんですけどね(笑)。スローモーションって何なんだろう。人間の深い記憶に絡んでいる。ある種の感覚とシンクロしているんだと思うんですけど。



( 「第四回 二〇〇八年十二月三日 伊藤俊治」 『アフロ・ディズニー2 MJ没後の世界』 菊地成孔 大谷能生 P141-160 文藝春秋)
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by JustAChild | 2011-07-10 03:50 | Wards

原雅明     僕らはそんなものを聴きながら、ジャズの側を歩いてきた

 僕らは、当時、中古盤屋のエサ箱から、ネタになどなりようにもないレコードばかりを漁った。奇妙なシンメトリー構造の夢物語を語るローランド・カークとか、デキシーランドからフリーまでを360度体験と銘打って再現化したビーヴァー・ハリスとか、楽器のようなヴォイスが無愛想に演奏空間を浮遊するアネット・ピーコックとか、エレクトロニクスとジャズを観念なしに即物的にミックスしてしまったギル・メレとか、尺八から日本的な湿り気を排してなおかつ凛とした空間を作った山本邦山と菊池雅章のコラボとかを、掬い上げては嬉々としていた。

<中略>

90年代も終盤にさしかかった頃、よりハードコア度を高めたラップが疲弊をしだし、複雑さと精巧さを極めたドラムンベースが2ステップへとセクト化していくのを傍目に見ながら、僕らは再びジャズとの接点に目を向けることになった。ポストロックとターンテーブリストの世界は、明らかにジャズの方向を向いていて、しかも、それは、かつて僕らにとって価値のあった"ジャズじゃないジャズ"へとまさに遡行していくようだった。僕らは、QバートよりDJクエストやロブ・スウィフトを、トータスよりアイトソープ217やシカゴ・アンダーグラウンド・デュオを好んだ。これまた、人によってはどうでもいい差異であると思いながら・・・・・・。

 そして、僕らは相も変わらず、技術に裏打ちされた演奏自体よりも、空気感やテクスチャーを好んだ。グルーヴもテクスチャーがすべてだった。DJクラッシュやDJヴァディムやジミー・テナーといった連中がレコード棚の隅からフリージャズを引っぱり出してくるのにほくそ笑み、端正な4つ打ちやストイックなブレイクビーツの微妙な揺らぎにこそ、気が滅入るフリー・インプロヴィゼーションを乗り越える力があると思いもした。もちろん、そんなものが思い込みにすぎないことも分かっていた。
 だが、僕らは、このあと、アッドリブがアルターエゴのカジモト名義で、ヘリウムガスでひっくり返った声で「アストロ・ブラック」と叫ぶのを聴き、ヤン・イェリネックがデレク・ベイリーのギターの残響音だけをサンプリングしループしてジャズを見つけるのを聴き、そのヤンとの音作りにまで踏み込んでしまったインドープサイキックスの急激な変化にかつてのジャズの前衛的青臭さを聴き、エミネムとのバトルもしたドーズワンがインプロヴァイザー相手にライムを踏み外していくのを聴き、シンク・タンクという特異なるヒップホップ集合体がジャズと接触して塑性変形しる様を聴き、バトルなんて糞だと言い張るスクラッチDJのリッキー・ラッカービッグ・バンドを相手にインプロヴィゼーションを始めるのを聴くことになる。それらは、いまだ、"ジャズじゃないジャズ"の在処を伝えてくる。僕らはそんなものを聴きながら、ジャズの側を歩いてきた。だが、ジャズと本当に交わり合うことができるとは思わないし、僕らにとって、ジャズとはそれでいいのだ。


(原雅明  「JAZZ NOT JAZZ ── 「ジャズじゃないジャズ」の在処を伝えてくる音楽」 『音楽から解き放たれるために ── 21世紀のサウンド・リサイクル』 P276-278)
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by JustAChild | 2011-06-25 00:43 | Wards

菊地成孔   いつか、違う場所で、君にも、君以外にも、言い続けるよ

 こういう時、多くの方が「こんなとき、○○○としてなにが出来るのか考えています」と仰りがちになり、まあ、解らないでも無いとはいえ、腰が抜けるほど驚くべき事には「○○○」の中に「音楽家」が代入される、つまり、「こんなとき、音楽家としてなにが出来るのか考えています」という方がいらっしゃり、本当に椅子から落ち、「記憶喪失症を急発したのかこの人は・・・」と呟きながら額の汗を手の甲で拭うほど驚く訳です。音楽家は、音楽家として、こんな時であれどんな時であれ、何が出来るかと言えば音楽が出来るし、音楽しか出来ないのではないか?え?違うの?としか考えられぬワタシは、不謹慎のみならず、自分の想定以上に遥かなバカなのかも知れません。

<中略>

 さきほど、後手後手野郎である事を嘆いたばかりの口で言いますが、音楽が出来るというわけで、例えば阪神大震災の時に、素早く被災地に行き、アンプラグドで演奏した。といった音楽家がいくらかおり、これはこれでなかなかステキな事でしょうけれども、ワタシの考えでは、これは音楽の即効性と直接性に対する高い信頼であると同時に、懐疑である。つまり、アンビバレンツな行為だと解釈しています。

 即ち、「そのとき、その場で、その人に演奏する」ということと、「ちがうとき、ちがう場で、ちがう人に演奏する」という事を分割しているという事で、前者を信頼するということは、後者を信頼しないという事になりかねないのみならず、信頼している態で、前者自身も懐疑している事になりかねない。

 友人がたった今、失恋し、池尻大橋のマンションで落ち込んでいるとする。すぐさまタクシーでそこに行ってハンディのキーボードを弾いて歌を歌う。ユードンノー・ワットラヴイズ。これなかなかステキですが、そのステキさを一面的に尊いとした場合、「そのとき、その場で、その人の前で演奏しなかった音楽(特に、同じ曲だったりした場合)」の尊さを些かながら無化する可能性を感じます。音楽だけではない。「今、この場で、君に言うよ」というのは歌謡曲のクリシェですが、眼前で津波に飲まれている人にかける言葉は無い。祈りというのは、そもそもそうして生まれたはずです。いつか、違う場所で、君にも、君以外にも、言い続けるよ。

 音楽にはとてつもない遅効性の力もありますし(ワタシは、チャーリーパーカーが本当に効くまで20年ほどかかりました)、何よりも遍在性があります。遍在性はユビキュタスと言いますので検索して頂ければご理解頂けると思いますが、ワタシは(テレビのみですが)報道される情報の総体から遍在性を強く感じます。

 愛する家族を手をつないで逃げたのに、自分だけが助かってしまった老人も、何千もの水死体であり礫死体であるような肉と骨の山を目撃してしまった幼児も、一瞬で粉微塵になってしまった人も、何日ももがき苦しんで死んだ人も、よく出来たカフェオウレを飲んでため息をついていた人も、角ハイボールの18杯目でゲラゲラ笑いながら飲んでいた人も、すべてが遍在であり、つまりはワタシの一部であり、誰かの一部であり、全体を構成しているのだという感覚。自殺しようと首に縄をかけた瞬間に地面が割れた人もいる筈です。とうとう告白し、震える唇が重なり、狂うかというほどの多幸感を感じた瞬間に奈落に落ちた人もいる筈です。人を刺そうとして包丁を構えた瞬間に壁が倒れて来た人もいる筈です。刺し終えて、殺人を犯した瞬間に海面がせり上がって来た人もいる筈です。殺人を犯し、何十年も逃亡し、生きた心地がしない毎日のなかのある日、大地が波打ち始めた人もいる筈です。バチカンに祈りを飛ばした人、発狂した人、あらゆるすべてを持ちこたえた人、すべてが遍在です。そうでないと、どうしてあの人は助かったのにオレは助からなかったのか?あるいはその逆。という問いに対する答えが、運命論だけに収斂されてしまう。運命は別個に存在しますが、遍在性とはまったく次元が異なります。

 音楽は遍在性を強く示す営みで、時空を超えるという属性を持ちます。母親の鼻歌まじりの子守唄は、その時のその子にだけ届いているのではない。1974年のハードロックは、レコードによる再生などとは別に、当時のワタシではないワタシに届いています。いますぐ机を叩き、口笛をお吹きになるがよい。適当にデタラメにではないですよ。ご自分が思う「音楽」になっている事が前提ですが、そこに誰もいなくとも、もしそれが音楽なら、音楽は遍在性と共に、飛行に似た運動を起こします。すなわち無人島に咲く花の美は実存する。

<中略>

 明後日我々は、DCPRGという音楽を行う運動体として、富山県に向かいます。悲劇と喜劇を内包し、奇数拍子と偶数拍子、あらゆる時間速度を遍在させる世界に実在としてのグルーヴを生み出し、<暴れ者のサル>たちをなだめる為に。たったいまワタシは音楽を演奏しておりませんので、局在的存在である文章を綴らせていただく事にします。総ての被災者の皆さん。総ての被災者を内在する皆さん。愛しています。一人一人を直接抱きしめ、ほおずりし、癒し、施そうなどとというのではない。そういうのは藤原紀香さんとかアンジェリーナジョリーさんとか、おっぱいのでっかい方にお任せします。ワタシが愛していますというのは、死んでも演奏をするのだと言う事です。無論、特攻ではない。タイタニックに近い。音楽家なら解る筈です。ステージ上でワタシが背を向けているのは、射殺されても構わないという事です。いつものとおり音楽を送ります。ですから頑張って下さい。枝野官房長官と九大の原発の先生は少し休んで下さい。



( 菊池成孔 「PELISSE 菊池日記 Mar-16-2011 DCPRG富山へ」 )
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by JustAChild | 2011-03-18 00:16 | Wards

鴻鴻   ぼくの妹は都市

ぼくの妹は都市

彼女の手は勤勉に動く、でも頭は

まったく落度だらけ

彼女はコンビニのように熱心にサービスする

現金引出機のように性善説を選択する

郵便ポストのように口を開き、すべての欲望を飲み込みもする



彼女は自分に対してかくも不満で

いつも徹底的に改善したいと思っている

でも工事は時にこちらを立てればあちらが立たず

まるで違った顔を貼りあわせたみたい

夜になると彼女はとりわけ美しい

その時刻になると彼女はひどく悲しむから


妹は都市のように神秘

永遠に路地で見失われたいくつかの番地

故障したいくつかの信号

警官が、制服を着て窃盗をはたらき

鉄のパイプは酸性雨の中で錆び

記念碑が広場を占拠する


妹よ、きみの歴史を忘れなさい

今日から、ぼくはこの都市を好きになる

彼女の混乱する道路標識、融通のきかない路地を好きになり

彼女のわずかに残っただけの緑地と池を好きになり

清掃する人のない犬の糞を好きになって

ぼくたちは抱き合って眠る、そばで清掃車が勝手に歌っている


                                               二〇〇九 (三木直大訳)

( 鴻鴻 『ぼくの妹は都市』「現代詩手帖」2011年3月号 P72)
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by JustAChild | 2011-03-07 12:49 | Wards

カテゴリ:Wards( 76 )

KID FRESINO まだ人の文句なら腐るほどある でも口は閉じるlike budamunkみたく

Turn.(who do)

KID FRESINO

Featuring jjj
Produced By nosh
Album: Conq.u.er


[Verse 1: jjj]

落ちてきた明確 そいつを頼りに絵を描く
サンキュnosh またペンを下ろす
流れは急だがslow 今はそうfeel
わかるぜbrother あげなgain blow up
てめえの気持ち汲んで 愛を割く
溶かす心 on the rap shit
確信が目の奥
俺を取り巻く幸気付く時から始まったstory
帆をはったあの日は土砂降り
枯れた涙 しめつけるheart ちっぽけとdance
初めて知るpain そうじゃねぇと溜まったrhymeはヤケ
向き合った時わかる意味answer
軽くなる肩 だが信号はまだ黄
でも行けんだ remember あのsailing
時は無常 でも光はその先
仰いだ空 今信号は青 ready go


[Hook]
俺の言葉はred、no end カタチ反転させてるいつも
ヤツなら泣いてるladyに手を差し伸べる 無口なkidsには口で伝える
心配ねぇこの意志なら背中 掲げたモットー never dieだから
笑える話を持ち帰る 好きな奴らの会話リリックに変える

[Verse 2: FRESINO]

このmuiscはfatherやmother 最高にだっせぇが愛してるbrother
それからstreetにpeace願うsister 言葉にする意味もねぇよなmy step brother
そんで俺の相棒に ey men、yo keep 1人のhoney ヤツも当然
このhandおさまりきるほどのlibation この先増える一方なら俺は思い描く
己の才能に敬意を示した くだらねぇdreamでmid-night目覚めた
裏切る裏切らねぇ fakeの話 仲間のくせにその永遠の鎖
信じてることを信じきる俺は 簡単なことも忘れてるバカ
sniff cocaine and good weed で夜を忘れた いつかの約束は嘘になるか
この目に映るbigな摩天楼 誰に言われるわけじゃなく目指してるtop more
引き返すことはねぇゲームに生まれた 誰の心の中 like a scream "Life is ruff"
日々answerは変わり つけてたチェーン champagne goldに変わる
oh no なに見失ったhome boy?  足元見るよかこころみる

[Hook]
俺の言葉はred、no end カタチ反転させてるいつも
ヤツなら泣いてるladyに手を差し伸べる 無口なkidsには口で伝える
心配ねぇこの意志なら背中 掲げたモットー never dieだから
笑える話を持ち帰る 好きな奴らの会話リリックに変える


[Verse 3: FRESINO]

weakerがknowledgeを超える aha, musicはbookよかしっくりくる
このアホな頭 俺らのこのまま 生き急がなくてもcoolだぜforever
bitch,喜怒哀楽 テキストに起こして 金稼ぎなんてのは二の次だぜ
なぁB-boy, rapからmake it 後ろは見ずに立ち向かう本当の意味
もし声を無くしたら next 何をしようか アがるぐらいが俺は調子がいいんだ
まだ人の文句なら腐るほどある でも口は閉じるlike budamunkみたく
それぞれのやり方見て学ぶ but 俺自身のやり口尊重してる
あのboothのbasementで声を枯らした 仙人(掌)のように身に寄り添うだけだ
見てくれだけじゃつかめねぇもの そう心は目には映らねぇだろ
この山場を越えりゃZionへと一歩 風は強えぇが今いいとこ yeah




KID FRESINO - Turn.(who do) ft.jjj lyrics
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by JUSTAchild | 2016-04-01 02:55 | Wards

パウロ・ブランコ    世界中のモノクロフィルムをかっさらったんだ

PB  15年、20年前には、配給業者たちは私たちから作品を買うことができた。なぜなら彼らはそれをTV局に売ることができたからだ。今ではもうだめだ。配給業者たちは恐れている。
 (アラン・)レネのフィルムはいまだに世界中で売れているよ。でもそんな作品はレアなんだ。『ミステリーズ・オブ・リスボン』は別の話になる。この作品は製作の分野においてUFOみたいなものなんだよ。企画を始めたとき、誰もが私に「狂ってる」「できるわけがない」と言ってきた。でも私はこの作品のシナリオが並外れたものだと強く感じていた。私は、『ミステリーズ・オブ・リスボン』に関して、ふたつの異なった面で仕事をした。「シリーズもの」と「映画」という側面だ。そして私はふたつの国に賭けた。「シリーズ」はフランス作品であり「映画」はポルトガル作品だ。すべては配給の際の困難を避けるためだ。そういう構造において、金を手に得る術を知っていたからね。フィルムの周囲で起きることに関して、私は期待していなかった。それは奇跡的なことだ。4時間半のポルトガル映画がフランスで10万人の観客を獲得するなんてことは、生涯に1度だけ訪れるような出来事なんだ!私はこのフィルムをカナル・プリュス CANAL+ に売ることができた、資金調達においてではなく、だ。彼らのところには、時折ある種の寛容さがある。でもそのことは、フランス映画よりもヨーロッパ映画の場合のほうが単純だ。カナル・プリュスは彼らが望んだときにヨーロッパ映画を買うことができる。フランス映画の場合、もし彼らが制作後からそれを買うとすれば、それは業界がフランス映画よりも外国映画に不利益を与えるためなんだよ。それは割当には入らないんだ。同業者が外国映画よりフランス映画に不利益を与えるのはそのせいさ。

 ルイスの映画(『ミステリーズ・オブ・リスボン』)は世界中で売れた。アメリカでは5万ドルで売れて、50館で公開される。フランスとポルトガルでのヴィデオ(DVD/BD)のリリースだけで、最初は15万ユーロを稼ぐ予定だ。私は国際的なバイヤーであり、配給者であり、ここにこそ、私に有益な職人的な側面がある。こんなふうにして、その自由を手にするんだ。4回ポルトガルのコミッションを訪ねた。自由というのは、「いや、徹底的にやるさ」と言えることだ。私はカンヌにも、コンペティションを拒否したベネツィアにも行くことなく、可視性(visibilitèを得るチャンスを手にしたんだ。
 『ミステリーズ・オブ・リスボン』は1週間の上映が可能だとされていた。もし最初の週末のすべての上映が満席でなければ(このフィルムは1日に2回しか上映できない)、月曜にはスクリーンからお払い箱になるだろうことはわかっていた。わたしはUGCのシネ=シテ Cinè-citè館、レ・アール Les Halles館で公開するチャンスを得た。水曜日には客はほとんどおらず、木曜日にはちょうど半入りくらい。幸運なことに評判を得ることができ、金曜には人々が映画を見に来るようになった。そして土曜の最初の上映で劇場は満員になった。成功したんだ。幸運なことにその週末は天候が悪く、雨が降った。そうでなければ週末を越せただろうか?1本の映画の存続と言うのはとても不安定なものなんだよ。
 だからこそ、もしほかの配給方法があるんだったら、どうしてそれを使わない?VOD(ヴィデオ・オン・デマンド)はもちろんだが、でも人々はそこで何を探す?それは有名な作品であって、そうではないほかの作品じゃない。私は今はVODよりも、『ミステリーズ・オブ・リスボン』を半年、あるいは1年間、インターネット上で無料でアップロードすることを選ぶ。そのようにすることは、私とルイスに、次回作のための可視性を与えてくれるだろう。今日では、可視性の新しい形態を探さねばならない。他のフィルムでそれに成功したのは、例えばカンタン・ドゥピューの『ラバー』(10)がそうだ。このフィルムは場を探す術を心得ていた。
 もし金を支払うことが必要ならば、誰もアクセスしないだろう。もし無料なら、おそらく何かが起こる。みな、私が「クロノロジー・デ・メディア」[註1] を狂わせることを望んでいると思っているようだが、認めないよ。なぜなら、それは私たちプロデューサを救ってくれるものだから……でも然るべきときには、いくらか改良の余地がないかどうか検討しなくてはならない。
 人々がそう考える限り、私は壊したくない。なぜならこれは私たちを、つまりわれわれプロデューサーを救ってくれるものだからだ。しかしあるときには、そこに確かな成しうる変化がないのだとしても、検討しなければならない。なぜ劇場での公開とカナル・プリュスでの放映までの期間を1年から6か月に減らさないのか?人々はヴィデオ化についてしか考えていない。

――今後懸念されるのはDVDに関わる生存競争です。

PB  そういうケースがあったとして、なぜカナル・プリュスはある一定の入場者を下回った作品を6か月たっても放映しないのだろう?なぜすべてに対し平等にするんだ?たとえば、10万人以下の観客しか得られなかった作品を例外にすることだってできるだろう。DVD化されたフィルムの生命は、すでに劇場で成功おさめた作品にしか存在しない。作品がDVDで損失を取り戻すことはめったにない。

――あなたはどのようにして『ミステリーズ・オブ・リスボン』を地方で公開したのでしょう?

PB  このフィルムは地方で200館を回った。どこにもDCP(デジタル・シネマ・パッケージ)を上映する環境はなかった。だから多くの劇場上映にはブルーレイを使った。誰も初めは私のことを信用しなかったよ。その可能性を最初に私に話してくれたのは(フランシス=フォード・)コッポラだ。彼はエストリル映画祭に来ていた。私は『テトロ過去を殺した男』(09)の35mmプリントとDCPを持っていたんだが、そしたら彼はブルーレイ・ディスクを持って来て「もし問題があればこのフォーマットで上映してほしい」と言ってきた。「クオリティーは同じ、いやそれよりも上だからね」と。そしてそれは本当だった。(デヴィッド・)クローネンバーグも同じことを私に言ったよ。アメリカ人の見解によれば、ブルーレイには暗号化され得ないという明らかな不都合がある。DCPを用いれば上映の回数を確かめることができる。ブルーレイは誰かに貸すことができてしまう。しかしそんなことは私にとって甚だしくどうでもいいことだ。劇場は私に「小さなプロジェクターしか持ってないんだけど、どうやってこれを上映したらいいんだ?」と尋ねてきた。そして私はこう答えた、「たいしたことじゃないさ。プレイステーションを買ってきて、それに接続すれば最良の上映ができる」とね。私の仲間たちの中にも、最初はそれを拒絶するものがいた。彼らは本当に著作権侵害されることを恐れているわけだ。で、それがどうしたって?何が問題なんだ?少なくとも作品は見てもらえたわけだよ。
 国際的に作品を売り込むフランスのインディペンデント・プロデューサーたちは、今、彼ら自身でDCPで作りたがっている。たとえば、私があるフランス映画をポルトガルで配給するために買う。すると、それをどこで上映するのかを管理するために、私にDCPを提供してくるのがあいつらだ。バカ野郎どもだ!フランス映画を海外で公開するってことはすでに奇跡なんだ、なぜそのうえに上映回数まで管理するんだよ?そのせいで10倍は高くかかっている!そんな管理の脅迫観念は理解不能だ。何ももたらさないインターネットと同じだ。あいつらは全てをブロックしたがっているが、若い奴らはすでに新しい海賊行為の方法を見つけてる。この法律(Hadopi法)とともに失う金はいったいいくらだ?私が批判しているのはプロフェッショナルが硬直していること、彼らが時代が変わったということを理解していないことだ。映画に可視性をもたらす道具を持っているというのに、なぜそれを使わないんだ?

[1] Chronologie des medias フランスにおける劇場公開映画作品保護のために制定された、ヴィデオグラム発売、VOD、有料/地上波TV放送に関する期間的な規制。現行の規制ではヴィデオグラム発売は当該作品の劇場公開6ヶ月後、有料TV放送は1年後、地上波TV放送は2年後にそれぞれ認められる。

<中略>

――あなたは多くの若い映画作家たちの企画を受け入れていますね?

PB  たくさんあったね。でも残念なことに、今、私はあまり多くは目を通してないんだ。17本の作品を製作した年もあったが、今年はさほど多くない。6本の作品を製作した。今は、ポルトガルへのフランス侵攻の時代、まさにポルトガル版『戦争と平和』のような、ラウル・ルイスの新作に集中している。連作になるだろう。ファニー・アルダンの次回作にも関わっているよ。映画作家としての彼女の作品には興味を引かれるんだ。そして、ある若い映画監督の作品も製作しなくてはならない。今、3つ、4つの企画で迷っているものもある。映画を作るのは贅沢なことだ。そのために特別な機会として捉えなければならないだろうし、そのために犠牲を払わなくてはならない。まさにあるべき必要性だ。誰しも興行的に失敗する権利を持っている。私が思うに、クラブ・デ・トレーズ[註3] が探求している安全保障や援助は創造性に対する最大の敵だ。「中間の映画]を巡って起こっているあらゆることが古めかしいんだ。彼らは、別のものがあるべき場所を、奪いたいんだ。それは深刻な事だ。彼らは制度化されることを望み、公の役人のポストを占めたいわけさ。創造性のある映画が存在するのはまさに逆の場所だと私は思っている。むしろシステムを変えるために闘うこと、より多くの自由を得ることこそが重要だろう。私は、映画製作において、ふたつの本質があると思っている。今日の映画に欠けていることはまさに、勇気と欲望だ。

――あなたは若いプロデューサーを育成しなかったんですか?

PB  映画製作は個別の冒険だと思っているんだ。アンベール・バルサンとは親しい友人だったけど、私たちはまったく異なっていた。それぞれのプロデューサーが、各々にあった製作体制を開発するわけだ。学校はないんだ。
フェミス FEMISに講義に行ったとき、学生たちは私をまるで宇宙人のように見ていたよ。私の言っていることが、彼らがそれまでもそこで学んできたこととまるで正反対だったからだ。なぜなら、私たちはもともとシネフィルで、つまり発見の愛から出発している。映画がまさに本当の革命期であった特異な時代(ヌーヴェルヴァーグ、スコリモフスキ、カルメロ・ベーネ、パゾリーニ……)に生きるという幸運に恵まれていた。私の出発点はまさにそこなんだ。望むべきは、そのように作品が存在することだ。何もかも覚悟していた。

 ラウル・ルイス『テリトリー La territoire』(81)はオリヴェイラの『フランシスカ』(81)のフィルムの切れ端で撮影された。世界中のモノクロフィルムをかっさらったんだ。こんなこと、学校では教わらないだろうね。今のプロデューサーは独創性に乏しい。私たちは、先のことを考えずに生きていた。モレッティのことはよく覚えているよ。彼は、作品をパリで上映するために、3つのボビンを抱えてレピュブリックの事務所にやってきた。ある日、シュレーターはマグダレーナ・モンテズマとリスボンに来て、私にこう言った、「もうマグダレーナには6週間しか残された時間がないから、映画を撮るべきだ」、と。私は不可能だと彼に答えた。わずかな資金しか持っていなかったからだ。それでも『薔薇の王国 DER ROSENKONIG』を製作した。それがどうやって実現したのかはわからないが、撮影したんだ。ユベール・バル ―― 当時、ロッテルダム映画祭があるべき役目を果たしていた時代 ―― は、ヴェンダースと作品のラッシュを見て、私たちを多少なりとも援助し協力してくれた。つねに突飛なアレンジをするトマス・アルレンは、コダックのフィルムを買い、ポルトガルにただで送ってきてくれた。そのおかげで撮影を続けることができたんだ。許可も契約もなかった。何本の作品がこんな風にして生まれてきたことか!『マンハッタンから遠く離れて Lion de Manhatten』(82)の製作の際に、私は(ジャン=クロード・)ビエットに言った。製作には3つの条件がある。ロケで撮影すること、一ヶ月につき1度の週末で撮影すること(私は、レピュブリックの金庫の金を製作費にあてた。多少の現金を持っている必要があった)、メインのキャメラマンとしてマリオ・バロッソ、録音はジャン=ポール・ムゲルを使うこと。なぜなら、彼らは『フランシスカ』で仕事をしていて、一ヶ月に一度の週末になら、彼らをビエットの現場に送り出すことができたからだ。ビエットは3つの条件に応じて作品を構想した。こうやって作ったわけさ。F.J.オサンの『雌犬島の宝 Le Trèsor des iles Chiennes』(90)は、スタジオで撮影することを予定していたが、私は支払う金を持っていなかった。しかし、とてもいいあばら屋が田舎にあるとオサンに話した。ライティングを担当していたダリウス・コンジ(Darius Khondji)は照明器具一式を要求してきた。だから私は彼に、2つのマンダリン(軽い照明器具のこと)で乗り切るように話したんだ!
 私が言おうとしているのは、システムを改良し、そしていくつかの方策を打ち出そうと試みているということだ。私だって確信を持っていることなんてない。でも、行動してみるべきだ。フランス映画の幸福な時代はもはや存在しないことはよくわかっている。私は質について語っている。量は十分にあるからね。カンヌのCNC公式の現状分析文章は、非常に奇妙なものになるはずだ。今年、すでに製作された大量の映画を見れば、質の良いものが多くないことは明瞭だ。悪い年ではなかったと思うが、それにしてもな。ありえたかもしれない可能性を引き合いに出せば、やはり大したものじゃないんだ。

[3] Club des 13  フランス映画における「中間の映画」を提唱する映画人たちのグループ。パスカル・フェランがイニシアティブを執り、そのメンバーにはジャック・オディアールや先日急逝したクロード・ミレールなどが名を連ねる。



( 『nobody issue 37 特集 フィリップ・ガレル あるシネアストの肖像』P86-P93 「Cahiers du Cinèma」667号所収、P102~P107 2011年4月25日、パリ 聞き手・構成=ニコラ・アザルベール、ステファン・ドローム 翻訳=田中竜輔、槻舘南菜子)




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by JUSTAchild | 2015-01-24 03:35 | Wards

MC漢   これ以上俺よりも出番じゃねぇよ Libra(ライブラ)

——いまの曲、かなり過激なリリックだったと思うんですけど。

過激じゃねぇ 当たり前のリリックだよ

——いまかかった曲の説明を。

曲は聴いての通り「Let's Beaf」だよ つまりここにいる奴らは「Let's Beaf」な状態だと思う

——それはどういうビーフなんですか。ビーフの対象はどこですか?

ビーフの対象は秤(はかり)だよ 秤

——それは具体的な名前は出さなくてもいいですか?

<天秤>だよ <天秤録音>だよ この野郎

そういうことはっきりさせねぇと仕事に影響が出まくっちゃってるから

これは生放送で影響出まくってるから

ここからは第二章

これが俺流 

やりかたはいろいろあるけど 暴露って意味じゃねぇ ありのままだぜ

これが俺たちのマイク いのち 一本 ここでマイク 土俵 立っている

フリースタイルじゃねえ 今日は ここから誰もが振り返る話の内容だ

これが俺たちのしゃべるオリジナルフロウだ 風呂にはいって飯食う時間もねえぞ

瞬きする時間はねえ ここから要注目だ これがMC漢 a.k.a. GAMIのスタイル

シーンのやつらも話聞いたらだんだんスマイルになるはずだ

つまり、我々はモチベーションがなくなっちゃいかけて この前氷河期の話をしたじゃん?


——しましたね。<ele-king>にもインタビューがあがってるんでたぶん読んでいる人も多いと思います。

氷河期の頃の話をしようかと思って

——しましょう。

そこでケリを付けてはっきりさせて<鎖グループ>はまったく別団体、そういうことをアピールしないと仕事に影響が出てるからさ 俺らが頑張れば頑張るほど関係ねえところに金が流れるっていうのもここらへんで終わりにしようと思ってるから

まあ、何より日本のヒップホップがなあなあ過ぎてつまんねえなって思ってるから

そのへんをはっきりさせるビーフだ

牛肉だ ガッツリ食うぜ 骨のほうまでしゃぶってやるよ

これがMC漢 a.k.a. GAMIの喋るラップだ

お家に隠し持ってるサランラップのシワシワのパケと一緒にするんじゃねえ

俺たちだったら真空パックの新鮮なオイニーのする状態の 

俺たちは刈り取る前の状態のマリファナみたいなものだ

これはマジバナだ

甘い罠がいっぱいあったから俺がここで喋ってやるだけだ

これが14年間の歴史

俺たちがつくったレシピ

全部教えてやったのに

美味しいとこだけ王様が食うっていうのは許せねえなってことで

そろそろMC漢が口を開く出番だ

これ以上俺よりも出番じゃねえよLibra(ライブラ)

だいぶダルいはずだ 開いた口が塞がらなくなるぜ

これがMC漢 これが日本語ラップだ 見本になるはずだぜ




DOMMUNE 2014.06.04 鎖グループ&BLACK SWAN公開記者会見&SPECIAL LIVE
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by JustAChild | 2014-06-08 03:38 | Wards

ジョン・フォード   馬にしては珍しいほど、私のことを愛していたんだ


——サイレントの当時、脚本家とのチームワークは、大体のところ、どんなものだったのでしょう?

フォード 脚本家と缶詰になって作業することは、一切しなかった。例えば、『アイアン・ホース』のオリジナル脚本を書いたのは、ジョン・ラッセルだったが、われわれが頼りにしたのは、実際、簡単なメモ程度のストーリーだった。
 ロケーションに出かけた先はネヴァダ。ロケ隊がそこに着いた時、外気は約零下六度だった。俳優たちとエキストラは、全員、夏着だったので、震え上がったよ。連中が白いニッカポッカー姿で朝起きた時が面白かった。ひどい時期に行ったもんだ。
 いつか『アイアン・ホース』の撮影裏話を書く時間があったら、と思っている。なにしろ珍事続出だったよ。一行のうち、女たちはサーカスの車に住まわせ、男どもはセットの外に小屋を建てて、そこに押しこんだ。(後に、メキシコの砂漠に移動した時のことだ。ソリーという小男がカメラマンのジョージ・シュナイダーマンのところへやって来て言うには、「ホテルは一体どこにあるんで?」ジョージは言ってやったそうな。「ホテルだと?君の立っているところがそうさ」)
 ところで問題はだ。制作費が日いちにちと、山のようにかさんでしまい、当初の単純な小ストーリーが、フォックス社始まって以来の大作、いわゆる”エピック”になってしまったことだ。もちろん、もし会社がその時何が起こりつつあるかを知ったら、即刻、中止令が出されたことだろうよ。

——完成後、会社側が手を入れた個所は相当ありますか?

フォード それほど多くはないね。しかし、会社としてはあの主演女優にしこたま金を注ぎこんでいたので、 フォックス社重役、ソル・ワーツェルは、彼女のクロース・アップが不足だと言い出した。そこで会社は、他の監督に頼んで、彼女を壁の前に立たせ、笑顔を作るショットを追加撮影したもんだ。そんなことしても、作品には何の役にも立ちゃしない。照明は合わないし、コスチュームすらちぐはぐだった。会社は、約十二個所、彼女のクロース・アップをはめこんだ。当然ながら、それは私にとってはぶちこわしもいいところだった。

——そういう経験は、それが初めてでしたか?

フォード ウーム、とにかく、最後でなかったことだけは確かだな。

——カメラマンのジョージ・シュナイダーマンとは、どうやって仕事をされましたか?例を挙げてどうぞ。

フォード 具体的にかね。私は、影はあくまでも黒く、陽光はあくまでも白く撮ってもらう主義だ。それに、光の中にいくつか影を置くのも好きだ。ジョージとは、その点についてよく打ち合わせはした。私が「ここがいい。ジョージ」と言うと、彼が「いいねぇ。だけど私は、もう少し光のほうに動かしたいな」と答える。そこで、私が「やれよ」と言う。こんなふうだった。私たちは実に呼吸が合った。一度だって、私はカメラマンと喧嘩したことがないよ。

——初期の頃から、あたなは同一ショットのフレームのなかで、暗い室内からまばゆい光の外景を撮るのがお好みのようですが。

フォード そうだ。しかし、それがカメラマン泣かせなんだ。露出を決めるのがむずかしいからな。仮にうす暗いテントの中から、陽射しの中へ出てくる人物がいるとしよう。彼の歩みに従って、外界の明るさにゆっくり露出を合わせなければならん。観客がそれと気づかよう、細心の注意を払ってやらねばいかんしな。

——サイレント時代、俳優の演技指導にはリハーサルをされましたか?

フォード そんなことをしている余裕はなかった。役者に伝えることのできることといったら、どっちに向かって動け、という指示だけだった。ところで、役者が動いている間中、話しかけることができたのは、大助かりだったよ。何しろ、サイレントだ。今でもそれができるといいんだがね。時によって、女優は、音楽が少しでも鳴っていたほうが芝居がしやすいようだ。それが気休めになるなら、と私はダニー・ボーザジに命じて、アコーディオンを静かに弾かせたもんだ。あの頃は、みんなそうやっていた。馬鹿げたことのように思えるかも知れんが、とにかく役に立った。


『香りも高きケンタッキー』(一九二五)

フォード 他愛もない競馬のストーリーを撮りに、はるばるケンタッキーくんだりまで出かけた。撮りながら、お笑いをどっさり詰めこんだ。雌の仔馬がいて——実にホレボレする容姿だったよ——、それが、何かと私にすり寄ってきたっけ。群から一頭だけ離れて、俺んところにばかり来るんだ。俺の帽子をくわえて逃げ、こっちをふり返る。そして、トコトコ戻って来ては地面に落とす。拾おうとすると、またくわえ上げて逃げていく。持ち主が言ったもんだ。「どうして名前をつけてやんなさらない? あのこは監督さんにホレてるんですぜ」
 そこで私は、その仔馬をメアリー・フォードと名づけてやった。メアリーは大人になってレースに出場し、三回連続で優勝したという。が、かわいそうにその場で脚を折り、競走馬として使いものにならなくなって、乗物用の馬に売り渡されてしまったとか。私は競馬の通ではないが、そんなことにならなければ、あのこは有名な競走馬になったと思う。あの仔馬のことは忘れたことがないな。馬にしては珍しいほど、私のことを愛していたんだ。役者に演技をつけている間、あのこは私の椅子の脇にじっと立っていた。撮影が終わって立ち去る時、あのこは、群の他の連中が半マイルも向うにいるというのに、柵沿いにわれわれの乗った車の後をしたって、どこまでもついて来たものだった。



( ピーター・ボグダノヴィッチ 『インタビュー ジョン・フォード』 訳:高橋千尋 分遊社 P86-93)
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by JustAChild | 2012-12-11 05:51 | Wards

ジェームズ・T・ファレル   僕はブラックソックスを覚えている


 そして1919年のワールドシリーズをシンシナティ・レッズと戦うことになったとき、ホワイトソックスは無敵のチームだと思えた。アメリカン・リーグだったらシンシナティ程度のチームはせいぜい4位どまりだっただろう。ホワイトソックスの2塁手エディー・コリンズの前任者モーリス・ラスみたいな使い古しの選手ばかりの、寄せ集めのチームだ。ワールドシリーズの行方が決まっているように思える年があったとすれば、それは1919年だった。そして確かに行方は決まっていたが、決めていたのは賭博師たちだった。
 1919年のシリーズがどう仕組まれていたかについては、これまでさんざん語られてきた。第1戦でシンシナティはエディー・シーコットをノックアウトし、9対1で勝った。僕は58番通りの高架鉄道の駅で新聞を買い、がっくりしながらこの試合のプレー詳細を読んだことを覚えている。シーコットは滅多にない乱調だった。1919年のシーズン、彼はどのアメリカン・リーグのピッチャーよりも安定していた。唯一彼の上を行っていたかもしれないのはウォルター・ジョンソンだけだ。そして翌日、レッズはレフティ・ウィリアムズを攻略して4対2で勝った。ここ一番で最高のプレーを披露するチームだというのに、ホワイトソックスは信じられないくらい不調だった。でも僕は選手やスポーツ記者、賭博師たちが出入りするホテルのロビーから遠く離れたところにいた。八百長が仕組まれているなんて夢にも思わなかった。

<中略>

第5戦もシンシナティが勝った。第6戦と第7戦にホワイトソックスが勝利し、シンシナティが4勝3敗でリードして両チームはシカゴに戻ってきた。
 僕の叔父さんは僕の高校の神父に手紙を書いて、甥がシリーズの第8戦を観戦したいと言っているので学校を休ませて欲しいと頼んだ。その手紙には、一生忘れられないようなワールドシリーズの試合を観られるなんて滅多にないチャンスなんですと書いてあった。僕は休みを許された。外野席に1人座った。晴れた日だった。<中略>ソックスの攻撃になるたび、チャンスはあった。でもレッズが10対5で勝った。思ってもいなかったことが起きてしまったのだ。ホワイトソックスはどう見ても格下のチーム相手にワールドシリーズ敗退を喫したのである。

<中略>

 何人かの選手が出てきた。青いスーツを着てグレーの帽子をかぶったレフティ・ウィリアムズもいて、ファンの何人かが彼に声をかけた。他にも何人かが階段を降りてきた。そしてジョー・ジャクソンとハッピー・フェルシュが姿を見せた。2人とも大柄な選手だった。背が高いのはジャクソンの方で、フェルシュの方が横幅があった。2人はシルクのグレーのシャツに白いズックのズボン、白い靴という颯爽としたいでたちだった。ゆっくりとクラブハウスの階段を降りてきて、顔は無表情を装っていた。
 何人かのファンが声をかけたが、2人とも応えなかった。向きを変えて立ち去っていった。同時に、群衆もゆっくり、ぞろぞろと2人を追っていった。僕も一緒に行って、ジャクソンとフェルシュの1メートル半ばかりうしろをついていった。2人はいくぶんゆっくりと歩いていた。ファンの1人が声を上げた——
「ほんとじゃないんだろ、ジョー」
渦中の2人は振り向かなかった。ゆっくりと歩き続けた。群衆は次々に声を上げ、大人も少年も幾度となく言った——
「ほんとじゃないんだろ、ジョー」
 この言葉が、スタンドの下を35番通り側へと歩いていくジャクソンとフェルシュの背中を追っていった。2人は球場を出て、ライトの外野スタンド裏のサッカー場に停めた車へと向かった。僕はサッカー場の出口のそばで待った。そこでも多くのファンが待ち構えていた。まもなくフェルシュとジャクソンはそれぞれスポーティーなオープンカーに乗って、何も言わずに2列に並ぶファンの間を縫って走り去っていった。
 僕はクラブハウスに戻った。でも選手はもうほとんどいなくなっていた。暗くなってきていた。観衆がいなくなったあとの球場は本当に寂しいものだ。あの9月の日曜の夕方ほど球場をわびしく、さびれて見えたことはなかった。日はほとんど暮れていた。僕は家に帰った。本当なんだな、と僕は肌で感じた。でも選手たちが何とかこのスキャンダルから抜け出して、プレーを続けられるようになることを願っていた。
 2日後、シーコットとジャクソンは大陪審に事実を認めた。フェルシュとウィリアムズがそれに続いた。ホワイトソックスのオーナー、チャールズ・A・コミスキーは7人の選手を出場停止処分にした。8人目の選手チック・ガンディルは1919年のシーズンを最後に引退していた。
 シーコットは共謀の分け前として1万ドルもらったことを認めた。ジャクソンは供述によれば5千ドルを受け取っていた。選手たちは全部で10万ドルもらったという話だった。本当はもっともらう約束だったのだが、賭博師たちに裏切られて十分な分け前をもらえなかったらしかった。報酬の詳細はいまだ完全には明らかにされていない。この取引に関わったとして名前が挙がったのは、かつて二流ピッチャーだったビル・バーンズと、元フェザー級チャンピオンのエイブ・アッテル、それにニューヨークの賭博師アーノルド・ロススタインだった。
 8人の選手たちは起訴されて、共謀罪に問われたが、刑事告訴は免れた。球界最初のコミッショナー、ケネソー・マウンテン・ランディス判事は8人を永久追放処分にした。

 1922年、ジャクソン、リスバーグ、ウィリアムズらの選手たちはどさ回りの巡業を試みた。僕の通っているセント・シリル高の野球コーチが選手たちと知り合いで、この巡業チームに加わってプレーする契約をした。ある日の午後彼は、ジャクソン・パークで僕らが練習しているところにレフティ・ウィリアムズを連れてきた。ホワイトソックスのユニフォームを着たウィリアムズは、僕たちの打撃練習のピッチャーを務めてくれた。全部直球で、僕らに打たせてくれた。話しかけてはこなかった。スウィード・リスバーグは黙って立って見ていた。彼も話しかけてはこなかった。
 人呼んで「ブラックソックス」はシカゴでどさ回りを始めた。75番通りとイリノイ中央鉄道が交差するグランドクロッシングにある小さな球場で彼らはプレーした。今ではその球場も取り壊されてしまった2千人くらいの観客がその試合を観ていた。ジョー・ジャクソンは鉄道の線路を越える一発を放った。

 どさ回りの巡業は失敗に終わった。

 その後、僕の野球への思いは変わってしまった。ずっと長い間どのチームも応援しなかった。大人になろうとしていた僕にとって、その事件は野球選手をヒーローとして崇拝する日々の終わりを告げるものだった。多くのファンが裏切られた思いを抱いていた。僕は違った。僕は残念だった。嘘だったらよかったのにと思っていた。選手たちにもう一度チャンスが与えられたらと思っていた。
 ジョー・ジャクソン、バック・ウィーバー、マクマリン以外、ブラックリスト入りした選手たちはまだ生きている(1957年現在)。ジャクソンは野球界の伝説になった。文盲だったと言われていて、マイナーリーグにやってきたときにシューズを持っていなかったという逸話が残っている。かの「嘘だと言ってよ、ジョー」の話は伝説になった。スポーツライターたちの中には、そんなことがあったこと自体を否定する者もいる。伝えられているところによれば、ジャクソンが大陪審で証言している間、シカゴの裁判所の外では群衆が待ち構えていた。彼が出てくると、少年たちが彼に呼びかけたという——
「嘘だと言ってよ、ジョー」
 でも僕がここで書いたように、こうしたことは本当にコミスキー・パークで起きたのだ。勇気があったら、僕も多くの大人や少年たちと一緒に声を上げていただろう。

 ジャクソンの姿はまざまざと瞼に蘇ってくる。背が高くてほっそりしていて、打席では内股に構えていた。両膝を曲げ、バットを揺らしてボールに踏み込んでいって、球界でも屈指の優雅さと力強さを併せ持つスイングを見せてくれた。ベーブ・ルースは彼のバッティングスタンスを参考にした。タイ・カップは彼のことを最も偉大な天性の打者だと讃えた。1911年、メジャーでレギュラーに定着した最初の年、ジョーは4割8厘の打率を残した。ホワイトソックスファンの一番の誇りだった。彼がいるということは、最高の野球選手が自分たちのチームにいるということだった。ジョー・ジャクソンの裏切りは、他のどの選手よりもシカゴのファンを深く傷つけたのである。



( ジェームズ・T・ファレル 「僕はブラックソックスを覚えている」 訳:藤井光 『モンキービジネス 2008 Spring vol.1』 ヴィレッジブックス P50-58)
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by JustAChild | 2012-12-11 05:49 | Wards

菊地成孔 チューニング間違ったと思った?良いんじゃないチューニングなんか間違ってた方が

うおっとっとジョージラッセルじゃないんで驚いた?チューニング間違ったと思った?良いんじゃないチューニングなんか間違ってた方が。だってオレ意味ぜんぜんわかんないんだけど「あげぽよー」とかあんじゃん、あれ、浜田ブリトニーが言ってるとずーっと思ってたんだけど、人間ドックでは特に何も出なかったからね。そんなトコっしょう。そういえばこないだー、靖国通り沿いの結構高めのさあ、要するにとっぽいバーで飲んでた訳、隣が若い女子とおっさんなんだよね。ニューおっさんってかね。まあ、あれ不倫だと思うんだけども、まぁまぁまぁそれはともかく。そしたら女子が「そういえばアヤカが1曲だけ復帰したよね。ちょっと凄過ぎて違わなくないあれって?」って言ったのよそしたらオッサンがね「あああ、あの、天然っぽい子でしょ」「うーん、天然っていうかあ」「あの、あの、あの、あれだ女優だよね」「はあ?」とかいってぜんぜんかみ合ってねえんだよ会話が。そしたら女子が痺れきらして「アヤカだよだって」「ああ、ああ、だから、思い出した。あれだ、干物女。やってた人でしょ」つって、綾瀬はるかと間違ってんのよ。アヤカと綾瀬はるか。がんばれニューおやじ。GNOとか思ってトイレ行っちゃった。そんなん言ったら東横線の「菊名」って菊地成孔の事になっちまうだろうよ。で、おなじみの「菊地成孔の粋な夜電波」今回は月に一度の菊印、21世紀のソウルバー、その名も「ソウルバー<菊>」開店しました。って訳で、ここ東京赤坂TBSラジオの第8スタジオと、リスナーしょっくーんのあらゆるその場所をイルでスムージーなソウルバーにしちまおうって感じで、3Dホログラムでいっちゃいましょうかラジオ局って感じで、ロスのオタク相手の初音ミクって感じでって感じでって感じで。今かかってんのはまぁ81年だけどね。まあはっきり言ってこの曲聴かなくて良いんだ。いや聴いても良いよ勿論、聴いても良いんだけどでもほら、ソウルバーに入った1曲目なんて誰も聴かないじゃん?注文の時間っしょ。みんながウイスキーミルク、あ、この店ブランデーミルクかウイスキーミルクっきゃ出さないんでよろしく。凄いでしょ茶道みたいでしょ。でまあ、その一杯目のウィスキーミルク、最初のアタックね、クラっと来るの待つ時間だからさあ1曲目ってのはさ。まぁ余裕ある人、近所にドンキがある人ね、この曲5分あるから、往復楽勝じゃん?1500円で売ってるから買って来て、ミラーボール。それ自分の部屋で回しながら、こう聴こうか。要するにソウルバー<菊>ミラーボールマストっちゅうことで。近所にドンキねえよって人は、まぁーそのう、作ればいいんじゃん?材料は電球とー、いろんな色のセロファンとー、オーガニックの人はホタルとー、ロウソクとー、竹ひごとー。精霊流しじゃねえんだ。みたいなね。まあどっちにしろ最終的には自分がその周りをぐるぐる回る訳だけどさ。え疲れる?疲れるはねえだろう?がんばれニューおやじーGNOイタリア語でリエゾンしたらニョ。だよこれね。疲れるじゃなくて、正しくは目が回る。でしょー(笑)。良いんじゃない目ぐらいちょっと回ってた方が。でも一応言っとくか、ナウオンプレイング、ズーム、サタデーサタデーナイト、フロムアルバム、サタデーサタデーナイト オン81 欲望はあるだけあった方が良いよ。遠慮すんな。怒りもあるだけあった方が良い。モーリスホワイトも「ブギワンダーランド」で言ってるからね。宵闇が迫ると、欲張りすぎた黒人が、破産する為に外に出る、神を信じる事は恥ずべきことじゃないってね。ニュース観てみろって。もうメチャクチャだよ世界中(笑)。うおっとっと、そろそろ手作りミラーボールは回り始めたかな?サントリーVSOのコロバ・ミルク割りの味はいかがかね?それではいってみよう。あなただけこんばんは。そしていらっしゃいませー。



( 菊地成孔 「菊地成孔の粋な夜電波 第28回 10月28日 ソウルバー<菊>開店しました」/「第三インターネット diary 3月10日 粋な夜電波シーズン2前口上一覧/リングス再臨」 )
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by JustAChild | 2012-03-12 05:53 | Wards

伊藤俊治   モンタージュが原理的に醸し出すパルス音みたいなもの

伊藤 エイゼンシュテインは『映画における第四次元』で、サイレントからトーキーへの移行を受けて、映像と音響を統合するモンタージュ理論を提示しました。スクリャービンらの高次倍音を利用した作曲になぞらえて、さらに音響を映画における下位倍音としてとらえることで音とイメージを統合しようとした。ここで『メキシコ万歳』においては、下位倍音というのはいったい何なのかということを、ちょっと考えてみたいですね。
 これは今年の前半の授業の中でさまざまに、菊地さん、大谷さんなりで討議されたことだと思うんですけど、僕は『映画における第四次元』の実践としての『メキシコ万歳』において、エイゼンシュテインが成し遂げようとした下位倍音のありようというのは、たぶん伝承の力ということだと思うんですね。「伝承の力」といってわかりにくいかもしれませんが、「四次元的な知覚の力」というふうに言い換えてもいいかもしれません。そういう二重構造の中で、多調・無調性が、調性と交わっているという状況が、『メキシコ万歳』のモンタージュの中にかいま見える。
 例えば新生児は映像と音、さらには触覚や味覚、匂いの入り混じった無数の波にもまれ続けているといわれます。だから赤ん坊は大人と同じ匂いをかいでいるのに、匂いを鼻だけで感じるのではなく、匂いを見たり、聞いたりもしている。そうした渾然一体化した世界を生きているわけです。でもだんだん感覚の印象を分類し、体系化し、まとめあげることを覚え、大人の認知や認識の方法を獲得していく。
 しかしまれに、大人になっても視覚や聴覚や触覚が渾然とすることがあります。レースのカーテンをなでると黄色を思い浮かべたりというような。感覚というのは感覚同士が織り合わされて、厚手の生地のようになったものだから、ずるずると引きずりだされるんですね。それは太古の人間がどのように感覚を働かせていたかという記憶でもあり、それが四次元的知覚とむすびつけられている。

<中略>

 さっきちょっとお話ししたように、『映画における第四次元』でエイゼンシュテインはサイレントからトーキーへの移行を受けて、映像と音響を統合するモンタージュ理論を提出した時、音楽理論を援用して、下位倍音という、近代和声学から捨てられた理論に注目し、映像と音響の統合が非常に原始的な、無意識的な律動を生成させていくという可能性を示そうとした。
 しかし、トーキー映画はその後、俳優とか物語とか演出といった十九世紀的な演劇モデルをそのまま使用してしまう。オペラハウスがそのままハリウッドまでつながってしまう。伝承の力に行かない。この『メキシコ万歳』という映画が僕にとっておもしろいのは、さっきお話ししたように下位倍音につながるような、ある種の伝承の力というか、神話的な力へ誘おうとしているというところがあると思うんですね。
 逆に、それ以後、一般化した大衆映画としてのトーキーというのは、そういう下位倍音を抑圧してきた、というふうに考えてもいいかもしれない。あるいは、逆にサイレントとかレコードのほうが感覚を遮断させているだけに、共感覚的に無意識的な律動を潜在させたというふうにもとらえ得るかもしれないと。
 ちょっとメディア論的な補足をしておきたいんですが、まず我々が今、密度の濃い電子メディア環境にいて、これは視覚的に構造化された言語世界とは異質な世界です。こうした事態が進行したのは二十世紀後半のことでした。それがある意味では音響的な傾向を持つ環境であり、視覚的世界が確立してきた枠組みや構造を切り崩し続けている。あるいは視覚的世界と聴覚的世界の間に宙吊りになっているといってもいいかもしれません。

<中略>

菊地 動静、動くということと止まるということが、視覚メディアの中では、今おっしゃったように非常に入れ子のようなものになっている。映画の元は写真で、その元がカメラ・オブスキュラの動画であるというように、止まっている情報と動いている情報が二重、三重に入り組んでいる。そこでエイゼイシュテインは、映像が動けばそこに下方倍音が発生するとしたんですが、彼は聴覚情報は静止しない、音は止まらないんだと言っています。ある時代、音楽の世界で、音が止まってもずうっと同じ、まったく動かない音が、要するに継続音がずうっと鳴り続けるものや、やたらと寸断が入って、ズバッ、ズバッという、スクラッチみたいな、音が止まって空白になって、また始まるショックみたいなものが、とてもショッキングで魅力的な状況としてもてはやされたというのがありました。
 これはつまり、「音が止まる」というのはどういうことなのかという、パッと考えるとあり得ない形を探す営みだと思うんですね。やたらと止まっている音楽、たとえば当時ザッピングと言われていたジョン・ゾーン*のポストモダニズムの音楽とかは、演奏しては止まって、その静止を聞くんだと言う。それはジョン・ケージ*的な意味でもなくて、継続したものが一回止まるという、音が止まっている状況を見せるというものでした。それと、ドローンという、ずうっと同じ音が動かず鳴りつづけるもの……この二つがポストモダン・ミュージックの二大潮流なわけですが。

伊藤 音楽にとって写真な状態はないんですよね。だから、写真は無音なんだと思うんだけど。

菊地 そうですよね。

伊藤 そして写真は、そういう人間の知覚、感覚上に唯一生じた裂け目なんですよね。だって、解釈できないんですよ、写真って。静止しているんだから。

菊地 そうですね。

伊藤 だから、ほんとにそういう意味で、写真は十九世紀に裂け目として出現して、そのあと、映画によって塗り込められたのかもしれない。

大谷 エイゼイシュテインはモンタージュという形で、静止画と静止画の間をつなげようとした……意味でつなぐというか。一枚一枚の絵を文脈というか物語のほうに回収してしまうわけですね。そうしたことから始まっているエイゼイシュテインが、『メキシコ万歳』で、そのモンタージュというやり方をまた違った方向に持っていったとすれば、それはどういった感じだったんでしょうか。

伊藤 さっき伝承の力なんてことを言いましたが、サイレントからトーキーに絡んでいうと、まずサイレントの時代の人々は映画の独自性を強く感じていたが、誰もそれを発見出来なかった。サイレントが提示したモンタージュの可能性はトーキーとシナリオに回収され、消えてしまった。人類が共有しえた唯一の言葉だったかもしれない、各々が母国語で参加できる唯一の共通言語だったかもしれないサイレント映画が消えてしまった。
 ゴダールが復活を遂げた『勝手に逃げろ』という1979年の映画があります。その映画をつくったときにゴダールは、サイレント映画について「モンタージュというのは心臓の鼓動だ。ショットとショットの間に関係を打ちたてて、それによって人々に見えないものを見せる何かだ」って言っていて、それが非常に印象に残っています。僕に言わせると、そこには伝承の力が脈づいていて、ものすごく高いエネルギーでリズムを刻んでいる。それは目に見ることはできないんですけど、サイレント時代の人たちが映画の独自性といったものに何を感じたのかというと、モンタージュが原理的に醸し出すパルス音みたいなものだったのではないでしょうか。サイレントは我々が使っている言語の初源へ連れ戻してくれる……。

大谷 パルスが剥き出しに見えるみたいな。それまでぜんぜん見えなかったものが、モンタージュということになると、あ、ここにはパルスがあったんだということがわかるということでしょうか。

伊藤 そうですね。だから、『勝手に逃げろ』で、ゴダールはスローモーションを多用しています。スローモーションというのもよくわからないんですけどね(笑)。スローモーションって何なんだろう。人間の深い記憶に絡んでいる。ある種の感覚とシンクロしているんだと思うんですけど。



( 「第四回 二〇〇八年十二月三日 伊藤俊治」 『アフロ・ディズニー2 MJ没後の世界』 菊地成孔 大谷能生 P141-160 文藝春秋)
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by JustAChild | 2011-07-10 03:50 | Wards

原雅明     僕らはそんなものを聴きながら、ジャズの側を歩いてきた

 僕らは、当時、中古盤屋のエサ箱から、ネタになどなりようにもないレコードばかりを漁った。奇妙なシンメトリー構造の夢物語を語るローランド・カークとか、デキシーランドからフリーまでを360度体験と銘打って再現化したビーヴァー・ハリスとか、楽器のようなヴォイスが無愛想に演奏空間を浮遊するアネット・ピーコックとか、エレクトロニクスとジャズを観念なしに即物的にミックスしてしまったギル・メレとか、尺八から日本的な湿り気を排してなおかつ凛とした空間を作った山本邦山と菊池雅章のコラボとかを、掬い上げては嬉々としていた。

<中略>

90年代も終盤にさしかかった頃、よりハードコア度を高めたラップが疲弊をしだし、複雑さと精巧さを極めたドラムンベースが2ステップへとセクト化していくのを傍目に見ながら、僕らは再びジャズとの接点に目を向けることになった。ポストロックとターンテーブリストの世界は、明らかにジャズの方向を向いていて、しかも、それは、かつて僕らにとって価値のあった"ジャズじゃないジャズ"へとまさに遡行していくようだった。僕らは、QバートよりDJクエストやロブ・スウィフトを、トータスよりアイトソープ217やシカゴ・アンダーグラウンド・デュオを好んだ。これまた、人によってはどうでもいい差異であると思いながら・・・・・・。

 そして、僕らは相も変わらず、技術に裏打ちされた演奏自体よりも、空気感やテクスチャーを好んだ。グルーヴもテクスチャーがすべてだった。DJクラッシュやDJヴァディムやジミー・テナーといった連中がレコード棚の隅からフリージャズを引っぱり出してくるのにほくそ笑み、端正な4つ打ちやストイックなブレイクビーツの微妙な揺らぎにこそ、気が滅入るフリー・インプロヴィゼーションを乗り越える力があると思いもした。もちろん、そんなものが思い込みにすぎないことも分かっていた。
 だが、僕らは、このあと、アッドリブがアルターエゴのカジモト名義で、ヘリウムガスでひっくり返った声で「アストロ・ブラック」と叫ぶのを聴き、ヤン・イェリネックがデレク・ベイリーのギターの残響音だけをサンプリングしループしてジャズを見つけるのを聴き、そのヤンとの音作りにまで踏み込んでしまったインドープサイキックスの急激な変化にかつてのジャズの前衛的青臭さを聴き、エミネムとのバトルもしたドーズワンがインプロヴァイザー相手にライムを踏み外していくのを聴き、シンク・タンクという特異なるヒップホップ集合体がジャズと接触して塑性変形しる様を聴き、バトルなんて糞だと言い張るスクラッチDJのリッキー・ラッカービッグ・バンドを相手にインプロヴィゼーションを始めるのを聴くことになる。それらは、いまだ、"ジャズじゃないジャズ"の在処を伝えてくる。僕らはそんなものを聴きながら、ジャズの側を歩いてきた。だが、ジャズと本当に交わり合うことができるとは思わないし、僕らにとって、ジャズとはそれでいいのだ。


(原雅明  「JAZZ NOT JAZZ ── 「ジャズじゃないジャズ」の在処を伝えてくる音楽」 『音楽から解き放たれるために ── 21世紀のサウンド・リサイクル』 P276-278)
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by JustAChild | 2011-06-25 00:43 | Wards

菊地成孔   いつか、違う場所で、君にも、君以外にも、言い続けるよ

 こういう時、多くの方が「こんなとき、○○○としてなにが出来るのか考えています」と仰りがちになり、まあ、解らないでも無いとはいえ、腰が抜けるほど驚くべき事には「○○○」の中に「音楽家」が代入される、つまり、「こんなとき、音楽家としてなにが出来るのか考えています」という方がいらっしゃり、本当に椅子から落ち、「記憶喪失症を急発したのかこの人は・・・」と呟きながら額の汗を手の甲で拭うほど驚く訳です。音楽家は、音楽家として、こんな時であれどんな時であれ、何が出来るかと言えば音楽が出来るし、音楽しか出来ないのではないか?え?違うの?としか考えられぬワタシは、不謹慎のみならず、自分の想定以上に遥かなバカなのかも知れません。

<中略>

 さきほど、後手後手野郎である事を嘆いたばかりの口で言いますが、音楽が出来るというわけで、例えば阪神大震災の時に、素早く被災地に行き、アンプラグドで演奏した。といった音楽家がいくらかおり、これはこれでなかなかステキな事でしょうけれども、ワタシの考えでは、これは音楽の即効性と直接性に対する高い信頼であると同時に、懐疑である。つまり、アンビバレンツな行為だと解釈しています。

 即ち、「そのとき、その場で、その人に演奏する」ということと、「ちがうとき、ちがう場で、ちがう人に演奏する」という事を分割しているという事で、前者を信頼するということは、後者を信頼しないという事になりかねないのみならず、信頼している態で、前者自身も懐疑している事になりかねない。

 友人がたった今、失恋し、池尻大橋のマンションで落ち込んでいるとする。すぐさまタクシーでそこに行ってハンディのキーボードを弾いて歌を歌う。ユードンノー・ワットラヴイズ。これなかなかステキですが、そのステキさを一面的に尊いとした場合、「そのとき、その場で、その人の前で演奏しなかった音楽(特に、同じ曲だったりした場合)」の尊さを些かながら無化する可能性を感じます。音楽だけではない。「今、この場で、君に言うよ」というのは歌謡曲のクリシェですが、眼前で津波に飲まれている人にかける言葉は無い。祈りというのは、そもそもそうして生まれたはずです。いつか、違う場所で、君にも、君以外にも、言い続けるよ。

 音楽にはとてつもない遅効性の力もありますし(ワタシは、チャーリーパーカーが本当に効くまで20年ほどかかりました)、何よりも遍在性があります。遍在性はユビキュタスと言いますので検索して頂ければご理解頂けると思いますが、ワタシは(テレビのみですが)報道される情報の総体から遍在性を強く感じます。

 愛する家族を手をつないで逃げたのに、自分だけが助かってしまった老人も、何千もの水死体であり礫死体であるような肉と骨の山を目撃してしまった幼児も、一瞬で粉微塵になってしまった人も、何日ももがき苦しんで死んだ人も、よく出来たカフェオウレを飲んでため息をついていた人も、角ハイボールの18杯目でゲラゲラ笑いながら飲んでいた人も、すべてが遍在であり、つまりはワタシの一部であり、誰かの一部であり、全体を構成しているのだという感覚。自殺しようと首に縄をかけた瞬間に地面が割れた人もいる筈です。とうとう告白し、震える唇が重なり、狂うかというほどの多幸感を感じた瞬間に奈落に落ちた人もいる筈です。人を刺そうとして包丁を構えた瞬間に壁が倒れて来た人もいる筈です。刺し終えて、殺人を犯した瞬間に海面がせり上がって来た人もいる筈です。殺人を犯し、何十年も逃亡し、生きた心地がしない毎日のなかのある日、大地が波打ち始めた人もいる筈です。バチカンに祈りを飛ばした人、発狂した人、あらゆるすべてを持ちこたえた人、すべてが遍在です。そうでないと、どうしてあの人は助かったのにオレは助からなかったのか?あるいはその逆。という問いに対する答えが、運命論だけに収斂されてしまう。運命は別個に存在しますが、遍在性とはまったく次元が異なります。

 音楽は遍在性を強く示す営みで、時空を超えるという属性を持ちます。母親の鼻歌まじりの子守唄は、その時のその子にだけ届いているのではない。1974年のハードロックは、レコードによる再生などとは別に、当時のワタシではないワタシに届いています。いますぐ机を叩き、口笛をお吹きになるがよい。適当にデタラメにではないですよ。ご自分が思う「音楽」になっている事が前提ですが、そこに誰もいなくとも、もしそれが音楽なら、音楽は遍在性と共に、飛行に似た運動を起こします。すなわち無人島に咲く花の美は実存する。

<中略>

 明後日我々は、DCPRGという音楽を行う運動体として、富山県に向かいます。悲劇と喜劇を内包し、奇数拍子と偶数拍子、あらゆる時間速度を遍在させる世界に実在としてのグルーヴを生み出し、<暴れ者のサル>たちをなだめる為に。たったいまワタシは音楽を演奏しておりませんので、局在的存在である文章を綴らせていただく事にします。総ての被災者の皆さん。総ての被災者を内在する皆さん。愛しています。一人一人を直接抱きしめ、ほおずりし、癒し、施そうなどとというのではない。そういうのは藤原紀香さんとかアンジェリーナジョリーさんとか、おっぱいのでっかい方にお任せします。ワタシが愛していますというのは、死んでも演奏をするのだと言う事です。無論、特攻ではない。タイタニックに近い。音楽家なら解る筈です。ステージ上でワタシが背を向けているのは、射殺されても構わないという事です。いつものとおり音楽を送ります。ですから頑張って下さい。枝野官房長官と九大の原発の先生は少し休んで下さい。



( 菊池成孔 「PELISSE 菊池日記 Mar-16-2011 DCPRG富山へ」 )
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by JustAChild | 2011-03-18 00:16 | Wards

鴻鴻   ぼくの妹は都市

ぼくの妹は都市

彼女の手は勤勉に動く、でも頭は

まったく落度だらけ

彼女はコンビニのように熱心にサービスする

現金引出機のように性善説を選択する

郵便ポストのように口を開き、すべての欲望を飲み込みもする



彼女は自分に対してかくも不満で

いつも徹底的に改善したいと思っている

でも工事は時にこちらを立てればあちらが立たず

まるで違った顔を貼りあわせたみたい

夜になると彼女はとりわけ美しい

その時刻になると彼女はひどく悲しむから


妹は都市のように神秘

永遠に路地で見失われたいくつかの番地

故障したいくつかの信号

警官が、制服を着て窃盗をはたらき

鉄のパイプは酸性雨の中で錆び

記念碑が広場を占拠する


妹よ、きみの歴史を忘れなさい

今日から、ぼくはこの都市を好きになる

彼女の混乱する道路標識、融通のきかない路地を好きになり

彼女のわずかに残っただけの緑地と池を好きになり

清掃する人のない犬の糞を好きになって

ぼくたちは抱き合って眠る、そばで清掃車が勝手に歌っている


                                               二〇〇九 (三木直大訳)

( 鴻鴻 『ぼくの妹は都市』「現代詩手帖」2011年3月号 P72)
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by JustAChild | 2011-03-07 12:49 | Wards


ここや/そこ/あちこちで/わたしたちは/徹底的に/やる


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