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林道郎   演劇的振る舞いを裏切るような細部を抽出する方法

 北島さんたちが意識的だったかどうかはわかりませんが、スーザン・ソンタグの「〈キャンプ〉についてのノート」(『反解釈』[高橋康也ほか訳、ちくま学芸文庫、1996年] 所収)という論文が1964年に書かれています。「キャンプ」というのはまさに「狂った資本主義」の問題であり、それは同時に、北島さんの「ニューヨーク」につながるのだと思います。暴走する資本主義的状況のなかで、表層的な振る舞いが人間のアイデンティティ形成にとってとても重要になっていく。つまり人間のアイデンティティが演劇的に構成されざるをえないような世界をわれわれは生きるようになった、ということですね。

<中略>

 もっとも60~70年代には、アウトサイダーたちもある意味でコード化されていたんですね。アウトサイダーになることが「自由への振る舞い」という、それ自体、社会に認知されたコードの世界で生きることになったからです。しかし、80年代はそうではない。一人ひとりが自分の世界をアグレッシブに演劇的に構築していかなきゃいけないという異常な状況になったのが80年代で、ことにニューヨークはそれが突出して出てきた。演劇化の病理がコンテクストからむき出しの「アイデンティティ」問題に直結し、臨界点に達する、とでも言うべきなのか、マドンナやプリンスが突発的な症例として出現するような社会、そういう状況に対して、北島さんのスナップショットはビビッドに反応しているのだろうなと思います。

北島 いまのお話はおそらくウィリアム・クラインの問題とちょっと絡んでくる気がするんですよ。ゴッフマンの本が1959年ということですがクラインの『ニューヨーク』はまさに50年代後半(1956年出版)。街中には広告の看板があふれかえり、人々は雑誌でファッションを研究したりして立ち振る舞っている。つまり、パフォーマンスせざるをえないことが常態化した、その爆発的な始まりをクラインは的確に捕らえていると思うんです。前からクラインの『ニューヨーク』はそういうふうに見るべきだって言っているんですけど、誰も聞いてくれない(笑)。それが結局、これまた滅茶苦茶なことを言うんですけど、シンディ・シャーマンに行き着くわけですよ。

 たしかにクラインは演劇的状況にビビッドに反応した写真家ですよね。いまの「クラインからシャーマンへ」という問題ですが、演劇性とアイデンティティの構築の絡まり合いに対して、写真がどう振る舞うかということについては、乱暴に言うと、ふたつの経路があるような気がします。ひとつは、ウォールやシャーマンのように、演劇性そのものを自己批判的に写真のなかに取り上げること。つまり、リアリティのある写真に見えるんだけれども、それ自体、演劇的に作りこまれている。見る側も「これはつくられたものだな」と分かりながら、「やっぱりこのリアリティはすごい」というような宙吊り感のなかで、演劇性そのものに自覚的にならざるをえない。そういった演劇による自己反省、自己批判みたいなやり方がある。もう一方には、バルトの「プンクトゥム」じゃないけれども、とりわけポートレートに起こることとして、人間の身体が演劇的に振る舞おうとしたときに必ず、意図していないものが見られてしまう。コードに則ってパフォーマンスするんだけれども、どうしたってコード化されない余剰みたいなものが肉体として露出する。その瞬間に焦点化する方向。
 このことに関して、ダイアン・アーバスは「自分はモデルの意図と効果の差異を撮りたいんだ」と言っています。フリードの大著でも繰り返し引用される言葉ですが、、こうした方向性について、フリードはもうひとり、リネケ・ダイクストラのポートレートを取り上げています。ダイクストラがなぜ思春期の少年少女ばかりを対象にするかというと、社会のなかでどう振る舞えばよいかを完全に身体化できていなくて、未整形だからだ、と。その「未整形さ」みたいなものが、写真の前に立ってポーズをとったときに、どうしてもある宙吊り感として出てきてしまう。そのおさまりの悪い細部を的確に捕らえられるのが写真だ、と言うわけです。そしてそのような、ポーズをとるという演劇的振る舞いを裏切るような細部を抽出する方法をフリードは「反演劇性」と見なすわけです。その是非は別として、北島さんのポートレートにも、一貫してそういう関心があるような気がします。「ニューヨーク」のスナップは、これみよがしに「こういうふうに私は生きているんだ」と演劇的に振る舞っている人たちを撮っているんだけれども、それが無残に、ある肉のリアリティのようなものに曝されてしまっていて、実は「演劇性の廃墟」みたいなものが捉えられていると言ってもいい。

倉石 ダイクストラの写真については、私もフリードと同様に一種の可能態として捉えたこともあります。ただ、一歩間違うとサリー・マンとどう違うんだ、というところがありますよね。思春期の少年少女はやっぱり好奇心の対象になるわけです。そこは彼女もわきまえていて、いろんな人種の人をさまざまな海岸に置いて撮る。一定の条件のもとで、モデルのアイデンティティが固定されず、ばらけるようにしている。しかし、そうしたことを詰めて、ポリティカル・コレクトネスを意識したアリバイ工作をすればするほど、人工的なものになっていくということはあると思います。



( 「倉石信乃+林道郎+北島敬三+前田恭二 写真のシアトカリティ――「北島敬三 1975-1991」展関連トーク」 『photographers' gallery press no. 9』 photographers' gallery P73-74)
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by JustAChild | 2011-02-13 15:57 | Wards

田中純   近代都市は絶え間なく、写真へと変容することを欲望しつづけてきたのだ

 ウジェーヌ・アジェのパリからウィリアム・クラインのニューヨーク、荒木経惟の東京まで、あるいは無名の観光写真、絵はがき写真にいたるまで、都市は写真というメディアの特権的な主題でありつづけている。いや、むしろこう言うべきだろうか。近代の都市は絶え間なく、写真へと変容することを欲望しつづけてきたのだ、と。飯沢耕太郎が編著『東京写真』において、「写真の中には、映像として定着された東京の物理的な姿だけではなく、他の表現手段ではどうしても実体化できない部分――東京の無意識とでもいえるようなものが写りこんでいるはずだ」と述べているのは、恐らく正しい。伊藤俊治が的確に言い切ったように「写真は都市の視覚的無意識を浮上させる」。まさしく都市は写真という分身のうちに二重化されるとともに分裂し、写真のなかにおいてはじめて、その欲望のかたちを可視化するのではないだろうか。
 イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオーは、20世紀における写真を通じたメトロポリスの表象をめぐって、三つの異なる記号システムあるいは写真的感性の変遷を認めた。その三者とは、モダニズム建築の都市計画がプロパガンダを展開した1920-1930年代における都市表象としてのフォトモンタージュ、1955年の展覧会「ファミリー・オブ・マン」やマグナムの一連の写真に代表される50年代から60年代にかけての、無名の個人のイメージから生まれる都市物語への感受性、そして70年代以降の「テラン・ヴァーグ(terrain vague)」へのまなざしである。ソラ=モラレスが注目するこのテラン・ヴァーグとは、何らかの出来事が起こったのちの放棄された空虚な場所を意味するが、そこにはフランス語のvagueが語源とするゲルマン語やラテン語との関係から、波、空虚、開放、曖昧といったいくつかのニュアンスが重層している。ジョン・デイヴィス、デヴィッド・プローデン、ヤネス・リンデルといった写真家たちの作品に見出されるこのテラン・ヴァーグは、都市の日常的利用にとっては外在的でありながら、都市そのものには内在的な何ものかである、とソラ=モラレスは言う。

忘れさられたかのようなこのような場所においては、過去の記憶が現在よりも優勢であるように見える。都市の活動から完全に離反してしまっているにもかかわらず、ここにはほんのわずかに残された価値ばかりが生き残っている。こうした奇妙な場所は都市の効率的な回路や生産構造の外部に存在する。経済的観点からすれば、この工業地帯、鉄道駅、港、危険な住宅地区、そして汚染された場所はもはや都市ではないのだ。

 生産・消費活動やそのための管理を欠いた、都市内部の「島」であるテラン・ヴァーグは、都市システムに対して異質な、「都市の物理的内部における、精神的に外部的な、都市の否定的=陰画的イメージ」である。ジュリア・クリステヴァやオド・マルクヴァルトに依拠しながらソラ=モラレスはそこに「他者性」や「未知性」、あるいはフロイト的な「無気味なもの」といったテーマとの関連を指摘している。自己の内部の最奥の他者、未知なるものとしての無気味なこのテラン・ヴァーグとはまさに都市の無意識であり、われわれの言葉で言い換えれば「非都市」にほかならない。
 しかしながら、ソラ=モラレスはこの都市の無意識の発見という地点から、現実の都市の内部に実在するテラン・ヴァーグがもつ可能性と、その保存について語ることへと無造作に移行してしまう。あたかもそこでは写真というメディアがそれ自体としては厚みをもたずに透明で、現実の忠実な再現表象を提供しているかのように。だが、事実としての空き地とは所詮たかだか効率的に利用可能な空隙であって、テラン・ヴァーグという都市の無意識ではありえないだろう。テラン・ヴァーグの無気味さの根源は都市と都市写真との間のずれ、この両者の間にあってまなざしを屈折させる歪んだ空間の物質性にこそ求められなければならない。
 またこのテラン・ヴァーグを殊更に新しい写真的発見とするにはおよばない。どこにも人影のない街路を撮影したアジェの写真がすでに、パリという都市全体をテラン・ヴァーグと化していたのではなかったか。「どこも寂しい場所というのではない。気分というものが欠如しているのである。都市はこれらの写真の上では、まだ新しい借り手が見つからない住居のように、きれいにからっぽである」(ヴァルター・ベンヤミン)。この人影のなさこそ、アジェが「街路を犯行現場のように撮影した」と言われる所以であったのだ、とベンヤミンは書く。そして、都市のどんな一角もつねに「犯行現場」なのであり、都市のなかの通行人はみな「犯人」なのだ、と。


( 田中純 『都市表象分析Ⅰ』 INAX出版 P36)
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by JustAChild | 2010-12-27 23:28 | Wards

鈴木一誌   毎日、新聞紙面のどこかに電子書籍関連の記事が載った。世の中が騒然とした感じだ。

 この『d/SIGN』18号では、前号で予告していたとおり、特集を<電子書籍>と決めていた。2010年3月ころから、電子書籍に関する本を読みはじめる。iPadの日本での発売が予告され、電子書籍の日常生活への浸透が急速にリアルなものとなり、毎日、新聞紙面のどこかに関連の記事が載るようになった。世の中が騒然とした感じだ。渦中のひとであるボイジャー社の荻野正昭さんが、ある講演で言っていた「走りながら考えている」とのことばを思いだす。『d/SIGN』も、走りながらの編集作業になるだろう。
■3月某日…出版社31社が集まって、一般社団法人日本電子書籍出版社協会(「電書協」)が正式に発足。
■3月26日…電子書籍の全貌について、自信がもてず、喜多千草さんに「特集監修」をお願いするが、喜多さんが「カリフォルニアで在外研究中」で、断念する。「来ているのが、Stanford大学というシリコンバレーの中心地なので、すべて、地理的には近くで起こっています」と返事がきた。
■4月7日…KindleDXを米国アマゾンから購入。読みたい書物や新聞を選ぶと、その刹那、流体のようにテキストがディスプレイに呼びこまれ、驚く。
■4月8日…最初のラフな目次案をつくる。電子の本が普及するとしても、<読書>の根幹が変わるわけではない。電子の本にではなく、読書について四方田犬彦さんに語ってもらい、これを基本にしようと考えた。

<中略>

■5月10日…iPadを予約する。周囲へのリサーチをはじめる。さまざまな意見があった。<中略>
 このレポートで、「原研哉さんと永原康史さんがtwitter上で議論したのがきっかけで、その後、タイポグラフィの研究会が企画されているそうです」ということを、はじめて知る。永原さんのこんなコメントが引かれていた。「どう見えるかは制御も固定もできない。これがデジタルメディアの特性。ならばどうするか。アルゴリズミックなデザイン思考に切り替えるしかない。これが定着と複製の繰り返しによる従来の文字媒体との大きな違いです。/アルゴリズミックデザインの造型は、絵画型ではなく写真型であるといえる。絵画は一枚の絵を塗ったり削ったりして仕上げていきます。写真はたくさんのショットから1枚を選ぶ」

<中略>

■5月21日…ソニーが情報端末に関してグーグルと提携を発表。

<中略>

■5月28日…午前9時30分、新宿のヨドバシカメラ東口店でiPadを受けとる。帰宅後、早速京極夏彦『死ねばいいのに』電子版を購入。「ソニー、凸版印刷、KDDI、朝日新聞社は27日、電子書籍のネット配信を手がける新会社を7月1日に設立」との報道(朝日新聞)。iPad発売に「合わせた」との印象。

<中略>

■6月11日…「国会図書館と出版各社」が「今秋にも書籍全文検索を実験」と報道(日本経済新聞)
■6月22日…アマゾンがKindleの値下げを発表。「経済産業、総務、文部科学の3省は電子書籍の普及に向け、出版物の著作者の権利を集中管理する仕組をつくる検討に入った」と報道(日本経済新聞)
■6月23日…物書堂の廣瀬則仁さんにインタビューする。

<中略>

■7月19日…おおよその内容が見えてきたが、「テキストの構造化」を自明としてことを進めすぎた反省から、「テキストの構造化とはなにか」を書いてもらおうと、境祐司さんに会う。<中略>
 「本のスキャン 代行横行」との報道(東京新聞)
■7月20日…アメリカのアマゾンでの過去3か月の電子書籍の売り上げが、ハードカバーを抜いたとの報道(東京新聞)。シャープが電子書籍に参入を発表。
■7月27日…「デジタル教科書教材協議会」が発足。大日本印刷と凸版印刷が「電子出版制作・流通協議会」を設立。89社が参加。
■8月4日…NTTドコモと大日本印刷が電子書籍で提携と発表。
■8月23日~26日…用紙の提供を受ける各社、王子製紙株式会社、リンテック株式会社、平和紙業株式会社、株式会社竹尾、王子特殊紙株式会社を、記載順に訪ね、打ち合わせをする。
■9月1日…台割を決定する。前号より40ページ増えた。それまで別個にデザインしてきた各記事を、ページネーションしていく。偶数ページ起こしだったレイアウトを、奇数ページ起こしにしなければならなかったりする。「ページネーション・マニュアル」のドットブック化のミーティングで、ポット出版に沢辺さんたちを訪ねる。どうせなら、PDF化もしようとなり、深沢英次さんを紹介してもらう。


( 鈴木一誌 「テキストの〈構造化〉は、ひとの〈思考〉をどう変えるか [連載]ページネーション・マニュアルの冒険17」 『d/SIGN no.18』 太田出版 P188)
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by JustAChild | 2010-11-04 06:14 | Wards

BlakRoc F/ Raekwon   Stay Off The Fuckin' Flowers

Uh, yup, uh-huh, word
Up in the bleachers in the penthouse, fronting
Stove burning a half a bird, you laker out, the legs is burning
We eating eskavich, green pea soup, Korean coupe in the front
With twelve rich whores, ready to stunt
Roll the blunts, lady, you straighten the pussy, ran Glenny my man
Honest seven hundred gram, be easy
Then the phone rang, BLING BLING BLING, aiyo, King, two more ice packs
Coming, forty bundles of onion
Roll the reefer to the maximum, sax playing, lay on the drum
The Jeffersons on, I'm ready to cum
She looking at me with a relevant stare, know my pockets the only here
Could come up out the hood, stay here
Pissing Merlot out, twirl my little thing downstairs
Cuz anything other than that, we all Williamaires
Can't forget that, the ziplocks is gift bagged
None of that over night shit, we selling seconds, pa, hit back
Sean, aiyo, it's stupid hot, take a shotty with you
You and Barkim, make it pop
Them niggas is from the golden era, lemonade leathers
Who don't give a fuck, if they die, they more high
They soldiers in the streets, they rebels
Bubble for muthafucking money, with bitches rocking stilettos
So when the drought hit, they on they shit
The sheeps come out, loving the C Cypher Powers, they cowards
Stay off the fucking flowers... yup
Rocking a skull full of waves, four frames on his chains
Jamaican accent, fresh out Toronto, we black skinned
Young Black Panther M.O., love wheeling rentals
He on the crack spot, we know it as the trap shop
Adidas down, sterling brown, uncles is traffickers
Lifestyle throwing, spectacular
Green grass smokers with green hash, them niggas don't need cash
They only play fresher by the mean glass
A dream stash only when the good boy last
These is all roofless niggas, we don't feel glad
Left the Aspen, the back of the gas station
Remember no shorties in it, it's only glocks with mags
Here the feds come, niggas is bad, no, give him his bag
These is ninjas in rags, rock the flags
Yeah, uh-huh, yeah, yeah, uh-huh
Word, for real, what the fuck, damn
It's that fly shit, it's that muthafucking fly shit
Word up, we going nigga, one
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by JustAChild | 2010-11-04 04:42 | Wards

ゲオルク・トラークル   嵐の夕べ

嵐の夕べ

おお 赤い夕刻よ!
開け放たれた窓辺に、ブドウの葉はもつれあい
青の色に巻きついて、仄かに光り揺れ動き
部屋には不安の亡霊が巣くう

どぶの悪臭の中、埃は舞い
ガラスをきしらせ風が吹き込む
野生の馬の一群を、どぎつくひかる雲々を
稲妻が駆り立てる

沼の水面は音をたててはじけ
窓枠でカモメが鳴き喚く
火の騎士は丘を駆け下り
炎となって樅の根元に砕け散る

病棟で悲鳴をあげる患者たち
夜の羽が青くさやぎ
突如きらめく雨粒が
屋根屋根を打ち鳴らす
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by JustAChild | 2010-11-03 06:19 | Wards

蓮實重彦   『百年恋歌』の第三話こそが真に素晴らしい

 ここで一つ、ゲームをしてみたいと思います。侯孝賢監督のもっとも素晴らしい映画は何か、ただし『非情城市』だけは挙げないという条件をゲームの規則と考えてください。そういうと、皆、妙に興奮し始めるわけです。『恋恋風塵』などの自伝三部作がもっていたどこか叙情的な感性は素晴らしいと思います。しかし、私はここで『憂鬱な楽園』と『フラワーズ・オブ・シャンハイ』と『ミレニアム・マンボ』の三作を挙げます。実は『フラワーズ・オブ・シャンハイ』がどのように優れているかということは、まだ世界的にも充分いわれていません。『憂鬱な楽園』も、好きな人はかなりいる。『ミレニアム・マンボ』もこれを無視してはいけないという人は多くいる。しかし、どこがどうよいのかはまだ語られていないのが実情です。今後、彼の映画について語る場合、このあたりが注目すべきところではないかという気がしています。

<中略>

 侯孝賢は"侠"の人で、決して素人さんには悪いことをしない人です。しかし彼が本当のところで何を考えているかというのは誰にもわかりません。彼はいまフランスで新作を撮っていますが、この映画作家がいったいどこへいくのかという興味はつきません。しかし、その前に10月12日から始まる『百年恋歌』をぜひご覧ください。この映画の最初の数ショットを見ただけで、またとない緊張感と至福感で、背中がぞくぞくするほどです。
 これは三つのエピソードからなっており、1910年代と、60年代と現代の恋物語です。三つのエピソードの男女は、いずれも同じ役者によって演じられていますが、そのいずれもが素晴らしい。にもかかわらず、もっとも侯孝賢らしさがよく出ているのは現代篇だとはっきり申し上げておきます。1966年のパートに惹かれる人がいるのは、それはまあ素人さんとしてしょうがない。それから、1911年、これは無声映画のかたちで素晴らしいに違いないのですが、しかし、侯孝賢が真に描きたかったもの、もっとも大きな野心をこめて描きたかったのは、最後の現代篇のエピソードだといえます。おそらく『憂鬱な楽園』が人々を興奮させなかったように、最後の現代のエピソードは素直に人を興奮させないかもしれません。しかし実は、「侯孝賢の新作は最後がいちばんいい」といい聞かせつつ、ここはひとつ私の騙しに乗っていただきたい。第一話はとにかくいい。ぞくぞくします。しかし、そんなことは、侯孝賢にとっては朝飯前の話なのです。『フラワーズ・オブ・シャンハイ』を思わせる第二話にもぞくぞくとした感覚がまるで夢のように拡がっていく。だが、第三話は、そのような意味では背筋に震えが走り抜けません。逆に、ああ、どうしたらいいだろう、彼はこれをどう処理するだろうという戸惑いが、見る者を強く映画へさし向けることなる。ここには、侯孝賢的な"侠"の世界が、まがまがしく拡がりだしているのです。
 あまり丁寧に見られることのなかった『憂鬱な楽園』、『フラワーズ・オブ・シャンハイ』、『ミレニアム・マンボ』などを改めて評価するために、これらの作品にこめられた潜在的な力を受け止めるにふさわしく、侯孝賢の新作『百年恋歌』を見ていただきたい。この『百年恋歌』の第三話こそが真に素晴らしいのだという私の興奮が、この中においでの100分の1の方にでも伝われば、こんな素晴らしいことはありません。


( 蓮實重彦 『映画論講義』 東京大学出版会 P253)
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by JustAChild | 2010-10-26 06:33 | Wards

蓮實重彦   世の東西を問わず、『恋恋風塵』とは世界で最も美しい題名である

 初期三作品を撮りあげた1983年ごろから、侯孝賢は、新しい仲間たちと映画をつくり始めます。名高い女流作家の朱天文が脚本を書くようになり、侯孝賢自身が、彼女と一緒に仕事をするまでは映画をつくるということに関してまったく無意識であったといっています。それから、台湾映画のニューウェイヴを支えた、中央電影公司という映画会社があります。楊徳昌といった同世代の監督たちもそこから巣立ちました。たしかに、それ以前の侯孝賢はごく普通の70年代台湾映画の流れの中にいた人であるといえます。具体的には、スクリーンサイズがシネマスコープである。また、技法としては、嬉しそうにズームをしたり、パンをしたりしている。そして、背後に流れているのは、ケニー・ビーやフォン・フェイフェイといういわゆる人気歌手の歌であり、歌謡映画といっていいと思います。『ステキな彼女』が当たったので、その直後にまったく同じキャストで『風が踊る』という歌謡映画を撮っています。この歌謡映画の成り立ちそのものは、ある意味いいかげんで、人と人がどう出会うか、昔会った人とどう再会するかというと、いつもばったり偶然なんですね。自在といえば、自在、いいかげんといえば、いいかげん。しかしキャメラを向けていくうちに、そこから次々と映画的なある抵抗力が生まれてくる。例えば『風が踊る』には、ふとドキュメンタリー的なタッチが出てきます。ある盲学校でドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読むシーンがあって、これは物語とはほとんど関係のないはずなのに、実に生き生きとした画面で、まさに撮っていることが嬉しくなって、撮っていることを自分自身の力によってさらに高めようとする感じが見えてきます。
 そして私は傑作の一つだと思っていますが、三作目の『川の流れに草は青々』は、台湾の地方都市の、文字通り川が流れていて草が青々としげっている田園地帯が舞台ですが、実はこの"青々"というところがポイントです。原題でも"青"という字が二つ重なっていますが(《在那河畔青草青》)、これが侯孝賢映画の一つの特徴で、漢字独特の喚起力を、反復によって高めているのです。世の東西を問わず、世界で最も美しい題名である『恋恋風塵』(1987)の恋恋を旧字で"戀戀"と書かれると、恋というものの深さや奥行きが二倍以上になったような気持になる。"青草青"というのも、反復によって緑をより色濃くしていく。『憂鬱な楽園』すなわち《南國再見、南國》の"南國"もsouthにあたる南という意味ももちろんありますが、侯孝賢が「南というのは、台湾の南部のことでもあるが、多くアジアにおいて、台湾そのものが南とされていた」といっていたように、"南國"という言葉自体が台湾という意味も含んでいる。そこへ、《南國再見、南國》、「さよならだけども、もう一度会おう」というタイトルをつけたのです。また、『好男好女』(1995)でも"好"という字が繰り返されています。
 彼の映画の題名には、あるくり返しによってもたらさられ漢字の喚起力を、スクリーンの上までおしひろげて行こうという意識が見られます。日本映画の題名も最近は非常にカタカナが多くなりましたが、あのように"草は青々"とか"恋恋風塵"とか、ある言葉をくり返すことによって、見事な喚起力を題名に与え、それに見合った力強い、それでいて押し付けがましいところのない画面を見せてくれる人は、侯孝賢をのぞいて誰もいません。


( 蓮實重彦 『映画論講義』 東京大学出版会 P247)
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by JustAChild | 2010-10-26 05:34 | Wards

Aloe Blacc   You Make Me Smile

Oooh
Mmm, you make me smile
Oooh,
Hey, you make me smile

I think it's safe to say
Things just haven't been going my way
No work coming in so my money is thin
And I still got bills to pay

But all in all you've been right here with me
When I'm sinking low you come through and lift me
It's nothing more than the love that you give me
That keeps me from drowning in tears

(You make me smile)
Oh, you make me smile
(you make me smile)
You come through and save the day
(you make me smile)
You make me smile
(you make me smile)
In a very special way

Everywhere I go people seem to ask me
Where'd I get my joy, why am I so happy
In these trying times when a frown is the fashion
I am beaming like the sun now how can that be
See the answer to the query is very simple
I'm always grinning from dimple to dimple
Because you love me unconditionally
My happiness is heart-shaped can't you see

Can't you see when you're gone girl
(When you're gone away from me)
I just don't know what to do
(Don't know what to do)
Because everything about you girl
(Because everything, everything, everything)
Everything revolves around you
(Revolves around you)
And want to thank you for making me smile

(You make me smile)
For making me smile
(you make me smile)
Came through and save the day
(you make me smile)
You make me smile
(you make me smile)
Oh in a very special way

(You make me smile)
You make me smile
(you make me smile)
Love the way you make me hold my head up high
(you make me smile)
Feel like I can walk in the sky
(you make me smile)
When nothing is going my way what else can I say
(you make me smile)
When I can't see the light here you come shining bright
(you make me smile)
When everything's bad and I'm feeling real sad
(you make me smile)
When I don't have the answers you always give me a chance to smile,
smile,
smile


ああ
君は僕を微笑ませてくれるんだ
ああ
ヘイ、思わずニッコリしてしまうんだ
ここのところあまりいい調子とは言えないな
仕事もこなけりゃ財布も軽い
だけど支払いは待っちゃくれない
なのに君はずっと僕と一緒にいてくれる
落ち込んでいたら僕を励ましてくれる
君の愛以上のものなんてない
だから僕は涙に溺れずにいられるんだ

(思わずニッコリしてしまう)
ああ、君といると微笑がこぼれるんだ
君が現れて一日がうまくいった
君が僕を微笑ませてくれるんだ
とっても特別な方法でね

どこに行っても聞かれるんだ
あまりに僕がハッピーだから、どこでそんな喜びを手に入れるのかって
この厳しいご時世、不機嫌にしてる方が普通なのに
僕は太陽のように顔を輝かせているけど、なんでなんだろうってね
答えは実に簡単なこと
僕はいつもえくぼを称えてニッコリ笑ってる
君が僕を無条件に愛してくれるから
僕の幸福はハート型なんだ、見えないかな

君がいない時の僕なんてさ
(君が近くにいないときは)
もうどうしていいか分からないんだ
(分からないんだ)
だって君のすべてが
(すべてが、すべてが、すべてがね)
すべてが君を中心に回ってるのさ
(君を中心に回ってる)
僕に微笑をくれて、ありがとう

(思わずニッコリしてしまう)
君は僕に微笑をくれるんだ
君が現れて一日がうまくいった
君が僕を微笑ませてくれるんだ
とっても特別な方法でね

君といると微笑がこぼれるんだ
君のおかげで僕は胸を張っていられるんだよ
空の上さえ歩ける気分さ
何もかもうまくいかないときでさえ
暗闇の中で光が見えないとき、君が光をかざしてくれる
すべてが最悪で悲しくて仕方がないと
答えが見つからないとき、君はいつも微笑む、微笑む、微笑むチャンスをくれるんだ


( Aloe Blacc 『Good Things』Tr-10「 You Make Me Smile」 Stones Throw Records 2010 )
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by JustAChild | 2010-10-25 03:02 | Wards

フレデリック・ワイズマン   私は確かにマルクス主義者ではある―もちろんグルーチョの方だが

ドキュメンタリーといいますと、しばしば、何か社会的な不正を正そうとするような映画作家のイメージをわれわれはつい想像してしまいますし、事実そのようにして優れた作品を撮った小川紳介のような人が日本にもいるわけですが、フレデリック・ワイズマンの場合は、社会的な不安を正そうとか、あるいは社会的なメッセージを世間に向かって投げかけようというような映画づくりはしておらず、まさに目の前に起こっていることを、彼は、事実はこのように推移しているのだということを、キャメラによって、あるいは録音テープによって確かめつつ、それをわれわれに見せてくれるということなのです。
 といってもこれはある一つの事態を、彼は、作品を通してといいますか、初めから終わりまで構成なしにだらだらと迫っているわけではなくて、構成をつけております。その構成は、例えば私がここでお話しているようなケースがあったとすると、私を撮り、同時にまた私を見ておられる皆さん方を撮り、それを編集によって仕立て上げていく、というかたちになっているわけですが、そのときに、彼は何をいわんとしたのか、ということを非常によく訊かれるのです。彼と一緒にこのような場を東京で持ったことがあるのですが、そこでも「あなたの作品のメッセージは何か?」と訊かれるわけです。すると、彼は、「『メッセージが問題であるなら』と、あるアメリカの偉大な哲学者はいった」―というので皆さんはノートをし始める。そして、「その偉大な哲学者とはサミュエル・ゴールドウィンという名前である。そのサミュエル・ゴールドウィンはこういった。『もしもメッセージが問題であるならば、ユニオン・パシフィックに行け』」と(場内静か)
 ……本当ならここらへんで爆笑が起こらないといけないんですけれども、「アメリカの偉大なる哲学者」といったのは、アメリカでもっとも馬鹿といわれているサミュエル・ゴールドウィンという1930年代から40年代にかけて活躍したプロデューサーの名前です。そのころ、映画を撮っているときに「メッセージなんかいらん」と彼はいって、ユニオン・パシフィックというのは、最後には鉄道会社になりましたけれども、一種の飛脚のような、馬を使って東海岸から西海岸まで往復していた通信会社のことで、それを指して「メッセージが問題であるならばユニオン・パシフィックへ行け。俺には聞くな」といったということで有名なのです。「アメリカのある有名な哲学者であるところのサミュエル・ゴールドウィンは」といったときに、私はつい笑ってしまった。そしたら彼が「しぃっ」というわけです。
 ところが、その翌日の『ジャパン・タイムス』という英語の新聞に、その通りの記事が出てしまった。それを書いているのはアメリカ人の記者です。そのアメリカ人の記者が、いまならネットで「サミュエル・ゴールドウィン」とひけば、「馬鹿なプロデューサー」って出てくるはずなのに、それをそのまま「哲学者」と書いてしまったんで大笑い、ということがあったんですが、とにかく、彼はメッセージということは考えていない。「仮にメッセージということが伝えられるのであれば、私は映画など撮らない。私が映画を撮るのは、現実がこのように機能しているんだということを、皆と一緒に考えるためだ」、というのが彼の基本的な姿勢です。「とするならば、社会的な不正についてあなたはどう考えるか」。これがまた非常によく訊かれる質問です。それに対して彼は、「私は確かにマルクス主義者ではある」という。またすごいことをいうなと驚いていますと、「もちろんそれはグルーチョの方だが」というふうに彼はいい直す。この男、真面目なようでいて酷い、相手が馬鹿だと、とことん相手を馬鹿にするようなことを平気いう、かなり酷い人であります。


( 蓮實重彦 『映画論講義』 東京大学出版会 P201)
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by JustAChild | 2010-10-25 00:25 | Wards

東浩紀   なぜ秋葉原なのか、なぜ携帯掲示板なのか、なぜ無差別なのか

 僕が昔から思っているのは、ネットとかも悪いものではなくて、ネットとかサブカルチャーとかもコミュニティとして、バッファとして効くわけですね。僕はだから、サブカルチャーとかに端的し、まったく社会とかの問題とかに関心をもたない人間ていうのは、むしろ安全だと思っているわけですよ、一貫して。なんでかというと、この国で社会についてとか、政治について本気で考えようとすると絶望しかないんですよね。選挙にもいかないでずっとゲームとかやっている奴のほうがむしろ包摂されているわけですよ、そういう意味では。

 ところが、こういう事件が起きると必ずそれがなぜか逆転して捉えられてしまって、「ゲームとかやっている奴は社会性がないから事件を起こすんだ」と。いや、それはまったく違うと。ゲームとかやってコミュニティを持っている奴はね、例えば今回でも、不幸なことに亡くなった十九歳の二人組み ― あれは四人で歩いていたわけですよね ― がいたと。で、彼らこそ実は加藤容疑者よりもおそらくディープなオタクであって、ネットとかで彼らがその直前にどんな映画を観ていたかっていうのがもうわかるんですけど、かなりちゃんとしたオタクたちですよ。彼らは四人で仲良く歩いていて、そのあとの文章は、友達の亡くなったときの悲しみとかね、全部すごく人間的なものですよ。だからサブカルチャーとかネットとかの問題では、そういう意味ではない。むしろ加藤容疑者が、こう鬱屈してしまったのはサブカルチャーとかネットとかが用意するコミュニティーすら剥奪されて、本当にナマのまま労働環境とか現実に向かい合ってしまったから起きたっていう感じが僕はします。


なぜ秋葉原なのか、なぜ携帯掲示板なのか、なぜ無差別なのか
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by JustAChild | 2010-10-14 00:14 | Wards

カテゴリ:Wards( 76 )

林道郎   演劇的振る舞いを裏切るような細部を抽出する方法

 北島さんたちが意識的だったかどうかはわかりませんが、スーザン・ソンタグの「〈キャンプ〉についてのノート」(『反解釈』[高橋康也ほか訳、ちくま学芸文庫、1996年] 所収)という論文が1964年に書かれています。「キャンプ」というのはまさに「狂った資本主義」の問題であり、それは同時に、北島さんの「ニューヨーク」につながるのだと思います。暴走する資本主義的状況のなかで、表層的な振る舞いが人間のアイデンティティ形成にとってとても重要になっていく。つまり人間のアイデンティティが演劇的に構成されざるをえないような世界をわれわれは生きるようになった、ということですね。

<中略>

 もっとも60~70年代には、アウトサイダーたちもある意味でコード化されていたんですね。アウトサイダーになることが「自由への振る舞い」という、それ自体、社会に認知されたコードの世界で生きることになったからです。しかし、80年代はそうではない。一人ひとりが自分の世界をアグレッシブに演劇的に構築していかなきゃいけないという異常な状況になったのが80年代で、ことにニューヨークはそれが突出して出てきた。演劇化の病理がコンテクストからむき出しの「アイデンティティ」問題に直結し、臨界点に達する、とでも言うべきなのか、マドンナやプリンスが突発的な症例として出現するような社会、そういう状況に対して、北島さんのスナップショットはビビッドに反応しているのだろうなと思います。

北島 いまのお話はおそらくウィリアム・クラインの問題とちょっと絡んでくる気がするんですよ。ゴッフマンの本が1959年ということですがクラインの『ニューヨーク』はまさに50年代後半(1956年出版)。街中には広告の看板があふれかえり、人々は雑誌でファッションを研究したりして立ち振る舞っている。つまり、パフォーマンスせざるをえないことが常態化した、その爆発的な始まりをクラインは的確に捕らえていると思うんです。前からクラインの『ニューヨーク』はそういうふうに見るべきだって言っているんですけど、誰も聞いてくれない(笑)。それが結局、これまた滅茶苦茶なことを言うんですけど、シンディ・シャーマンに行き着くわけですよ。

 たしかにクラインは演劇的状況にビビッドに反応した写真家ですよね。いまの「クラインからシャーマンへ」という問題ですが、演劇性とアイデンティティの構築の絡まり合いに対して、写真がどう振る舞うかということについては、乱暴に言うと、ふたつの経路があるような気がします。ひとつは、ウォールやシャーマンのように、演劇性そのものを自己批判的に写真のなかに取り上げること。つまり、リアリティのある写真に見えるんだけれども、それ自体、演劇的に作りこまれている。見る側も「これはつくられたものだな」と分かりながら、「やっぱりこのリアリティはすごい」というような宙吊り感のなかで、演劇性そのものに自覚的にならざるをえない。そういった演劇による自己反省、自己批判みたいなやり方がある。もう一方には、バルトの「プンクトゥム」じゃないけれども、とりわけポートレートに起こることとして、人間の身体が演劇的に振る舞おうとしたときに必ず、意図していないものが見られてしまう。コードに則ってパフォーマンスするんだけれども、どうしたってコード化されない余剰みたいなものが肉体として露出する。その瞬間に焦点化する方向。
 このことに関して、ダイアン・アーバスは「自分はモデルの意図と効果の差異を撮りたいんだ」と言っています。フリードの大著でも繰り返し引用される言葉ですが、、こうした方向性について、フリードはもうひとり、リネケ・ダイクストラのポートレートを取り上げています。ダイクストラがなぜ思春期の少年少女ばかりを対象にするかというと、社会のなかでどう振る舞えばよいかを完全に身体化できていなくて、未整形だからだ、と。その「未整形さ」みたいなものが、写真の前に立ってポーズをとったときに、どうしてもある宙吊り感として出てきてしまう。そのおさまりの悪い細部を的確に捕らえられるのが写真だ、と言うわけです。そしてそのような、ポーズをとるという演劇的振る舞いを裏切るような細部を抽出する方法をフリードは「反演劇性」と見なすわけです。その是非は別として、北島さんのポートレートにも、一貫してそういう関心があるような気がします。「ニューヨーク」のスナップは、これみよがしに「こういうふうに私は生きているんだ」と演劇的に振る舞っている人たちを撮っているんだけれども、それが無残に、ある肉のリアリティのようなものに曝されてしまっていて、実は「演劇性の廃墟」みたいなものが捉えられていると言ってもいい。

倉石 ダイクストラの写真については、私もフリードと同様に一種の可能態として捉えたこともあります。ただ、一歩間違うとサリー・マンとどう違うんだ、というところがありますよね。思春期の少年少女はやっぱり好奇心の対象になるわけです。そこは彼女もわきまえていて、いろんな人種の人をさまざまな海岸に置いて撮る。一定の条件のもとで、モデルのアイデンティティが固定されず、ばらけるようにしている。しかし、そうしたことを詰めて、ポリティカル・コレクトネスを意識したアリバイ工作をすればするほど、人工的なものになっていくということはあると思います。



( 「倉石信乃+林道郎+北島敬三+前田恭二 写真のシアトカリティ――「北島敬三 1975-1991」展関連トーク」 『photographers' gallery press no. 9』 photographers' gallery P73-74)
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by JustAChild | 2011-02-13 15:57 | Wards

田中純   近代都市は絶え間なく、写真へと変容することを欲望しつづけてきたのだ

 ウジェーヌ・アジェのパリからウィリアム・クラインのニューヨーク、荒木経惟の東京まで、あるいは無名の観光写真、絵はがき写真にいたるまで、都市は写真というメディアの特権的な主題でありつづけている。いや、むしろこう言うべきだろうか。近代の都市は絶え間なく、写真へと変容することを欲望しつづけてきたのだ、と。飯沢耕太郎が編著『東京写真』において、「写真の中には、映像として定着された東京の物理的な姿だけではなく、他の表現手段ではどうしても実体化できない部分――東京の無意識とでもいえるようなものが写りこんでいるはずだ」と述べているのは、恐らく正しい。伊藤俊治が的確に言い切ったように「写真は都市の視覚的無意識を浮上させる」。まさしく都市は写真という分身のうちに二重化されるとともに分裂し、写真のなかにおいてはじめて、その欲望のかたちを可視化するのではないだろうか。
 イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオーは、20世紀における写真を通じたメトロポリスの表象をめぐって、三つの異なる記号システムあるいは写真的感性の変遷を認めた。その三者とは、モダニズム建築の都市計画がプロパガンダを展開した1920-1930年代における都市表象としてのフォトモンタージュ、1955年の展覧会「ファミリー・オブ・マン」やマグナムの一連の写真に代表される50年代から60年代にかけての、無名の個人のイメージから生まれる都市物語への感受性、そして70年代以降の「テラン・ヴァーグ(terrain vague)」へのまなざしである。ソラ=モラレスが注目するこのテラン・ヴァーグとは、何らかの出来事が起こったのちの放棄された空虚な場所を意味するが、そこにはフランス語のvagueが語源とするゲルマン語やラテン語との関係から、波、空虚、開放、曖昧といったいくつかのニュアンスが重層している。ジョン・デイヴィス、デヴィッド・プローデン、ヤネス・リンデルといった写真家たちの作品に見出されるこのテラン・ヴァーグは、都市の日常的利用にとっては外在的でありながら、都市そのものには内在的な何ものかである、とソラ=モラレスは言う。

忘れさられたかのようなこのような場所においては、過去の記憶が現在よりも優勢であるように見える。都市の活動から完全に離反してしまっているにもかかわらず、ここにはほんのわずかに残された価値ばかりが生き残っている。こうした奇妙な場所は都市の効率的な回路や生産構造の外部に存在する。経済的観点からすれば、この工業地帯、鉄道駅、港、危険な住宅地区、そして汚染された場所はもはや都市ではないのだ。

 生産・消費活動やそのための管理を欠いた、都市内部の「島」であるテラン・ヴァーグは、都市システムに対して異質な、「都市の物理的内部における、精神的に外部的な、都市の否定的=陰画的イメージ」である。ジュリア・クリステヴァやオド・マルクヴァルトに依拠しながらソラ=モラレスはそこに「他者性」や「未知性」、あるいはフロイト的な「無気味なもの」といったテーマとの関連を指摘している。自己の内部の最奥の他者、未知なるものとしての無気味なこのテラン・ヴァーグとはまさに都市の無意識であり、われわれの言葉で言い換えれば「非都市」にほかならない。
 しかしながら、ソラ=モラレスはこの都市の無意識の発見という地点から、現実の都市の内部に実在するテラン・ヴァーグがもつ可能性と、その保存について語ることへと無造作に移行してしまう。あたかもそこでは写真というメディアがそれ自体としては厚みをもたずに透明で、現実の忠実な再現表象を提供しているかのように。だが、事実としての空き地とは所詮たかだか効率的に利用可能な空隙であって、テラン・ヴァーグという都市の無意識ではありえないだろう。テラン・ヴァーグの無気味さの根源は都市と都市写真との間のずれ、この両者の間にあってまなざしを屈折させる歪んだ空間の物質性にこそ求められなければならない。
 またこのテラン・ヴァーグを殊更に新しい写真的発見とするにはおよばない。どこにも人影のない街路を撮影したアジェの写真がすでに、パリという都市全体をテラン・ヴァーグと化していたのではなかったか。「どこも寂しい場所というのではない。気分というものが欠如しているのである。都市はこれらの写真の上では、まだ新しい借り手が見つからない住居のように、きれいにからっぽである」(ヴァルター・ベンヤミン)。この人影のなさこそ、アジェが「街路を犯行現場のように撮影した」と言われる所以であったのだ、とベンヤミンは書く。そして、都市のどんな一角もつねに「犯行現場」なのであり、都市のなかの通行人はみな「犯人」なのだ、と。


( 田中純 『都市表象分析Ⅰ』 INAX出版 P36)
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by JustAChild | 2010-12-27 23:28 | Wards

鈴木一誌   毎日、新聞紙面のどこかに電子書籍関連の記事が載った。世の中が騒然とした感じだ。

 この『d/SIGN』18号では、前号で予告していたとおり、特集を<電子書籍>と決めていた。2010年3月ころから、電子書籍に関する本を読みはじめる。iPadの日本での発売が予告され、電子書籍の日常生活への浸透が急速にリアルなものとなり、毎日、新聞紙面のどこかに関連の記事が載るようになった。世の中が騒然とした感じだ。渦中のひとであるボイジャー社の荻野正昭さんが、ある講演で言っていた「走りながら考えている」とのことばを思いだす。『d/SIGN』も、走りながらの編集作業になるだろう。
■3月某日…出版社31社が集まって、一般社団法人日本電子書籍出版社協会(「電書協」)が正式に発足。
■3月26日…電子書籍の全貌について、自信がもてず、喜多千草さんに「特集監修」をお願いするが、喜多さんが「カリフォルニアで在外研究中」で、断念する。「来ているのが、Stanford大学というシリコンバレーの中心地なので、すべて、地理的には近くで起こっています」と返事がきた。
■4月7日…KindleDXを米国アマゾンから購入。読みたい書物や新聞を選ぶと、その刹那、流体のようにテキストがディスプレイに呼びこまれ、驚く。
■4月8日…最初のラフな目次案をつくる。電子の本が普及するとしても、<読書>の根幹が変わるわけではない。電子の本にではなく、読書について四方田犬彦さんに語ってもらい、これを基本にしようと考えた。

<中略>

■5月10日…iPadを予約する。周囲へのリサーチをはじめる。さまざまな意見があった。<中略>
 このレポートで、「原研哉さんと永原康史さんがtwitter上で議論したのがきっかけで、その後、タイポグラフィの研究会が企画されているそうです」ということを、はじめて知る。永原さんのこんなコメントが引かれていた。「どう見えるかは制御も固定もできない。これがデジタルメディアの特性。ならばどうするか。アルゴリズミックなデザイン思考に切り替えるしかない。これが定着と複製の繰り返しによる従来の文字媒体との大きな違いです。/アルゴリズミックデザインの造型は、絵画型ではなく写真型であるといえる。絵画は一枚の絵を塗ったり削ったりして仕上げていきます。写真はたくさんのショットから1枚を選ぶ」

<中略>

■5月21日…ソニーが情報端末に関してグーグルと提携を発表。

<中略>

■5月28日…午前9時30分、新宿のヨドバシカメラ東口店でiPadを受けとる。帰宅後、早速京極夏彦『死ねばいいのに』電子版を購入。「ソニー、凸版印刷、KDDI、朝日新聞社は27日、電子書籍のネット配信を手がける新会社を7月1日に設立」との報道(朝日新聞)。iPad発売に「合わせた」との印象。

<中略>

■6月11日…「国会図書館と出版各社」が「今秋にも書籍全文検索を実験」と報道(日本経済新聞)
■6月22日…アマゾンがKindleの値下げを発表。「経済産業、総務、文部科学の3省は電子書籍の普及に向け、出版物の著作者の権利を集中管理する仕組をつくる検討に入った」と報道(日本経済新聞)
■6月23日…物書堂の廣瀬則仁さんにインタビューする。

<中略>

■7月19日…おおよその内容が見えてきたが、「テキストの構造化」を自明としてことを進めすぎた反省から、「テキストの構造化とはなにか」を書いてもらおうと、境祐司さんに会う。<中略>
 「本のスキャン 代行横行」との報道(東京新聞)
■7月20日…アメリカのアマゾンでの過去3か月の電子書籍の売り上げが、ハードカバーを抜いたとの報道(東京新聞)。シャープが電子書籍に参入を発表。
■7月27日…「デジタル教科書教材協議会」が発足。大日本印刷と凸版印刷が「電子出版制作・流通協議会」を設立。89社が参加。
■8月4日…NTTドコモと大日本印刷が電子書籍で提携と発表。
■8月23日~26日…用紙の提供を受ける各社、王子製紙株式会社、リンテック株式会社、平和紙業株式会社、株式会社竹尾、王子特殊紙株式会社を、記載順に訪ね、打ち合わせをする。
■9月1日…台割を決定する。前号より40ページ増えた。それまで別個にデザインしてきた各記事を、ページネーションしていく。偶数ページ起こしだったレイアウトを、奇数ページ起こしにしなければならなかったりする。「ページネーション・マニュアル」のドットブック化のミーティングで、ポット出版に沢辺さんたちを訪ねる。どうせなら、PDF化もしようとなり、深沢英次さんを紹介してもらう。


( 鈴木一誌 「テキストの〈構造化〉は、ひとの〈思考〉をどう変えるか [連載]ページネーション・マニュアルの冒険17」 『d/SIGN no.18』 太田出版 P188)
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by JustAChild | 2010-11-04 06:14 | Wards

BlakRoc F/ Raekwon   Stay Off The Fuckin' Flowers

Uh, yup, uh-huh, word
Up in the bleachers in the penthouse, fronting
Stove burning a half a bird, you laker out, the legs is burning
We eating eskavich, green pea soup, Korean coupe in the front
With twelve rich whores, ready to stunt
Roll the blunts, lady, you straighten the pussy, ran Glenny my man
Honest seven hundred gram, be easy
Then the phone rang, BLING BLING BLING, aiyo, King, two more ice packs
Coming, forty bundles of onion
Roll the reefer to the maximum, sax playing, lay on the drum
The Jeffersons on, I'm ready to cum
She looking at me with a relevant stare, know my pockets the only here
Could come up out the hood, stay here
Pissing Merlot out, twirl my little thing downstairs
Cuz anything other than that, we all Williamaires
Can't forget that, the ziplocks is gift bagged
None of that over night shit, we selling seconds, pa, hit back
Sean, aiyo, it's stupid hot, take a shotty with you
You and Barkim, make it pop
Them niggas is from the golden era, lemonade leathers
Who don't give a fuck, if they die, they more high
They soldiers in the streets, they rebels
Bubble for muthafucking money, with bitches rocking stilettos
So when the drought hit, they on they shit
The sheeps come out, loving the C Cypher Powers, they cowards
Stay off the fucking flowers... yup
Rocking a skull full of waves, four frames on his chains
Jamaican accent, fresh out Toronto, we black skinned
Young Black Panther M.O., love wheeling rentals
He on the crack spot, we know it as the trap shop
Adidas down, sterling brown, uncles is traffickers
Lifestyle throwing, spectacular
Green grass smokers with green hash, them niggas don't need cash
They only play fresher by the mean glass
A dream stash only when the good boy last
These is all roofless niggas, we don't feel glad
Left the Aspen, the back of the gas station
Remember no shorties in it, it's only glocks with mags
Here the feds come, niggas is bad, no, give him his bag
These is ninjas in rags, rock the flags
Yeah, uh-huh, yeah, yeah, uh-huh
Word, for real, what the fuck, damn
It's that fly shit, it's that muthafucking fly shit
Word up, we going nigga, one
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by JustAChild | 2010-11-04 04:42 | Wards

ゲオルク・トラークル   嵐の夕べ

嵐の夕べ

おお 赤い夕刻よ!
開け放たれた窓辺に、ブドウの葉はもつれあい
青の色に巻きついて、仄かに光り揺れ動き
部屋には不安の亡霊が巣くう

どぶの悪臭の中、埃は舞い
ガラスをきしらせ風が吹き込む
野生の馬の一群を、どぎつくひかる雲々を
稲妻が駆り立てる

沼の水面は音をたててはじけ
窓枠でカモメが鳴き喚く
火の騎士は丘を駆け下り
炎となって樅の根元に砕け散る

病棟で悲鳴をあげる患者たち
夜の羽が青くさやぎ
突如きらめく雨粒が
屋根屋根を打ち鳴らす
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by JustAChild | 2010-11-03 06:19 | Wards

蓮實重彦   『百年恋歌』の第三話こそが真に素晴らしい

 ここで一つ、ゲームをしてみたいと思います。侯孝賢監督のもっとも素晴らしい映画は何か、ただし『非情城市』だけは挙げないという条件をゲームの規則と考えてください。そういうと、皆、妙に興奮し始めるわけです。『恋恋風塵』などの自伝三部作がもっていたどこか叙情的な感性は素晴らしいと思います。しかし、私はここで『憂鬱な楽園』と『フラワーズ・オブ・シャンハイ』と『ミレニアム・マンボ』の三作を挙げます。実は『フラワーズ・オブ・シャンハイ』がどのように優れているかということは、まだ世界的にも充分いわれていません。『憂鬱な楽園』も、好きな人はかなりいる。『ミレニアム・マンボ』もこれを無視してはいけないという人は多くいる。しかし、どこがどうよいのかはまだ語られていないのが実情です。今後、彼の映画について語る場合、このあたりが注目すべきところではないかという気がしています。

<中略>

 侯孝賢は"侠"の人で、決して素人さんには悪いことをしない人です。しかし彼が本当のところで何を考えているかというのは誰にもわかりません。彼はいまフランスで新作を撮っていますが、この映画作家がいったいどこへいくのかという興味はつきません。しかし、その前に10月12日から始まる『百年恋歌』をぜひご覧ください。この映画の最初の数ショットを見ただけで、またとない緊張感と至福感で、背中がぞくぞくするほどです。
 これは三つのエピソードからなっており、1910年代と、60年代と現代の恋物語です。三つのエピソードの男女は、いずれも同じ役者によって演じられていますが、そのいずれもが素晴らしい。にもかかわらず、もっとも侯孝賢らしさがよく出ているのは現代篇だとはっきり申し上げておきます。1966年のパートに惹かれる人がいるのは、それはまあ素人さんとしてしょうがない。それから、1911年、これは無声映画のかたちで素晴らしいに違いないのですが、しかし、侯孝賢が真に描きたかったもの、もっとも大きな野心をこめて描きたかったのは、最後の現代篇のエピソードだといえます。おそらく『憂鬱な楽園』が人々を興奮させなかったように、最後の現代のエピソードは素直に人を興奮させないかもしれません。しかし実は、「侯孝賢の新作は最後がいちばんいい」といい聞かせつつ、ここはひとつ私の騙しに乗っていただきたい。第一話はとにかくいい。ぞくぞくします。しかし、そんなことは、侯孝賢にとっては朝飯前の話なのです。『フラワーズ・オブ・シャンハイ』を思わせる第二話にもぞくぞくとした感覚がまるで夢のように拡がっていく。だが、第三話は、そのような意味では背筋に震えが走り抜けません。逆に、ああ、どうしたらいいだろう、彼はこれをどう処理するだろうという戸惑いが、見る者を強く映画へさし向けることなる。ここには、侯孝賢的な"侠"の世界が、まがまがしく拡がりだしているのです。
 あまり丁寧に見られることのなかった『憂鬱な楽園』、『フラワーズ・オブ・シャンハイ』、『ミレニアム・マンボ』などを改めて評価するために、これらの作品にこめられた潜在的な力を受け止めるにふさわしく、侯孝賢の新作『百年恋歌』を見ていただきたい。この『百年恋歌』の第三話こそが真に素晴らしいのだという私の興奮が、この中においでの100分の1の方にでも伝われば、こんな素晴らしいことはありません。


( 蓮實重彦 『映画論講義』 東京大学出版会 P253)
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by JustAChild | 2010-10-26 06:33 | Wards

蓮實重彦   世の東西を問わず、『恋恋風塵』とは世界で最も美しい題名である

 初期三作品を撮りあげた1983年ごろから、侯孝賢は、新しい仲間たちと映画をつくり始めます。名高い女流作家の朱天文が脚本を書くようになり、侯孝賢自身が、彼女と一緒に仕事をするまでは映画をつくるということに関してまったく無意識であったといっています。それから、台湾映画のニューウェイヴを支えた、中央電影公司という映画会社があります。楊徳昌といった同世代の監督たちもそこから巣立ちました。たしかに、それ以前の侯孝賢はごく普通の70年代台湾映画の流れの中にいた人であるといえます。具体的には、スクリーンサイズがシネマスコープである。また、技法としては、嬉しそうにズームをしたり、パンをしたりしている。そして、背後に流れているのは、ケニー・ビーやフォン・フェイフェイといういわゆる人気歌手の歌であり、歌謡映画といっていいと思います。『ステキな彼女』が当たったので、その直後にまったく同じキャストで『風が踊る』という歌謡映画を撮っています。この歌謡映画の成り立ちそのものは、ある意味いいかげんで、人と人がどう出会うか、昔会った人とどう再会するかというと、いつもばったり偶然なんですね。自在といえば、自在、いいかげんといえば、いいかげん。しかしキャメラを向けていくうちに、そこから次々と映画的なある抵抗力が生まれてくる。例えば『風が踊る』には、ふとドキュメンタリー的なタッチが出てきます。ある盲学校でドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読むシーンがあって、これは物語とはほとんど関係のないはずなのに、実に生き生きとした画面で、まさに撮っていることが嬉しくなって、撮っていることを自分自身の力によってさらに高めようとする感じが見えてきます。
 そして私は傑作の一つだと思っていますが、三作目の『川の流れに草は青々』は、台湾の地方都市の、文字通り川が流れていて草が青々としげっている田園地帯が舞台ですが、実はこの"青々"というところがポイントです。原題でも"青"という字が二つ重なっていますが(《在那河畔青草青》)、これが侯孝賢映画の一つの特徴で、漢字独特の喚起力を、反復によって高めているのです。世の東西を問わず、世界で最も美しい題名である『恋恋風塵』(1987)の恋恋を旧字で"戀戀"と書かれると、恋というものの深さや奥行きが二倍以上になったような気持になる。"青草青"というのも、反復によって緑をより色濃くしていく。『憂鬱な楽園』すなわち《南國再見、南國》の"南國"もsouthにあたる南という意味ももちろんありますが、侯孝賢が「南というのは、台湾の南部のことでもあるが、多くアジアにおいて、台湾そのものが南とされていた」といっていたように、"南國"という言葉自体が台湾という意味も含んでいる。そこへ、《南國再見、南國》、「さよならだけども、もう一度会おう」というタイトルをつけたのです。また、『好男好女』(1995)でも"好"という字が繰り返されています。
 彼の映画の題名には、あるくり返しによってもたらさられ漢字の喚起力を、スクリーンの上までおしひろげて行こうという意識が見られます。日本映画の題名も最近は非常にカタカナが多くなりましたが、あのように"草は青々"とか"恋恋風塵"とか、ある言葉をくり返すことによって、見事な喚起力を題名に与え、それに見合った力強い、それでいて押し付けがましいところのない画面を見せてくれる人は、侯孝賢をのぞいて誰もいません。


( 蓮實重彦 『映画論講義』 東京大学出版会 P247)
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by JustAChild | 2010-10-26 05:34 | Wards

Aloe Blacc   You Make Me Smile

Oooh
Mmm, you make me smile
Oooh,
Hey, you make me smile

I think it's safe to say
Things just haven't been going my way
No work coming in so my money is thin
And I still got bills to pay

But all in all you've been right here with me
When I'm sinking low you come through and lift me
It's nothing more than the love that you give me
That keeps me from drowning in tears

(You make me smile)
Oh, you make me smile
(you make me smile)
You come through and save the day
(you make me smile)
You make me smile
(you make me smile)
In a very special way

Everywhere I go people seem to ask me
Where'd I get my joy, why am I so happy
In these trying times when a frown is the fashion
I am beaming like the sun now how can that be
See the answer to the query is very simple
I'm always grinning from dimple to dimple
Because you love me unconditionally
My happiness is heart-shaped can't you see

Can't you see when you're gone girl
(When you're gone away from me)
I just don't know what to do
(Don't know what to do)
Because everything about you girl
(Because everything, everything, everything)
Everything revolves around you
(Revolves around you)
And want to thank you for making me smile

(You make me smile)
For making me smile
(you make me smile)
Came through and save the day
(you make me smile)
You make me smile
(you make me smile)
Oh in a very special way

(You make me smile)
You make me smile
(you make me smile)
Love the way you make me hold my head up high
(you make me smile)
Feel like I can walk in the sky
(you make me smile)
When nothing is going my way what else can I say
(you make me smile)
When I can't see the light here you come shining bright
(you make me smile)
When everything's bad and I'm feeling real sad
(you make me smile)
When I don't have the answers you always give me a chance to smile,
smile,
smile


ああ
君は僕を微笑ませてくれるんだ
ああ
ヘイ、思わずニッコリしてしまうんだ
ここのところあまりいい調子とは言えないな
仕事もこなけりゃ財布も軽い
だけど支払いは待っちゃくれない
なのに君はずっと僕と一緒にいてくれる
落ち込んでいたら僕を励ましてくれる
君の愛以上のものなんてない
だから僕は涙に溺れずにいられるんだ

(思わずニッコリしてしまう)
ああ、君といると微笑がこぼれるんだ
君が現れて一日がうまくいった
君が僕を微笑ませてくれるんだ
とっても特別な方法でね

どこに行っても聞かれるんだ
あまりに僕がハッピーだから、どこでそんな喜びを手に入れるのかって
この厳しいご時世、不機嫌にしてる方が普通なのに
僕は太陽のように顔を輝かせているけど、なんでなんだろうってね
答えは実に簡単なこと
僕はいつもえくぼを称えてニッコリ笑ってる
君が僕を無条件に愛してくれるから
僕の幸福はハート型なんだ、見えないかな

君がいない時の僕なんてさ
(君が近くにいないときは)
もうどうしていいか分からないんだ
(分からないんだ)
だって君のすべてが
(すべてが、すべてが、すべてがね)
すべてが君を中心に回ってるのさ
(君を中心に回ってる)
僕に微笑をくれて、ありがとう

(思わずニッコリしてしまう)
君は僕に微笑をくれるんだ
君が現れて一日がうまくいった
君が僕を微笑ませてくれるんだ
とっても特別な方法でね

君といると微笑がこぼれるんだ
君のおかげで僕は胸を張っていられるんだよ
空の上さえ歩ける気分さ
何もかもうまくいかないときでさえ
暗闇の中で光が見えないとき、君が光をかざしてくれる
すべてが最悪で悲しくて仕方がないと
答えが見つからないとき、君はいつも微笑む、微笑む、微笑むチャンスをくれるんだ


( Aloe Blacc 『Good Things』Tr-10「 You Make Me Smile」 Stones Throw Records 2010 )
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by JustAChild | 2010-10-25 03:02 | Wards

フレデリック・ワイズマン   私は確かにマルクス主義者ではある―もちろんグルーチョの方だが

ドキュメンタリーといいますと、しばしば、何か社会的な不正を正そうとするような映画作家のイメージをわれわれはつい想像してしまいますし、事実そのようにして優れた作品を撮った小川紳介のような人が日本にもいるわけですが、フレデリック・ワイズマンの場合は、社会的な不安を正そうとか、あるいは社会的なメッセージを世間に向かって投げかけようというような映画づくりはしておらず、まさに目の前に起こっていることを、彼は、事実はこのように推移しているのだということを、キャメラによって、あるいは録音テープによって確かめつつ、それをわれわれに見せてくれるということなのです。
 といってもこれはある一つの事態を、彼は、作品を通してといいますか、初めから終わりまで構成なしにだらだらと迫っているわけではなくて、構成をつけております。その構成は、例えば私がここでお話しているようなケースがあったとすると、私を撮り、同時にまた私を見ておられる皆さん方を撮り、それを編集によって仕立て上げていく、というかたちになっているわけですが、そのときに、彼は何をいわんとしたのか、ということを非常によく訊かれるのです。彼と一緒にこのような場を東京で持ったことがあるのですが、そこでも「あなたの作品のメッセージは何か?」と訊かれるわけです。すると、彼は、「『メッセージが問題であるなら』と、あるアメリカの偉大な哲学者はいった」―というので皆さんはノートをし始める。そして、「その偉大な哲学者とはサミュエル・ゴールドウィンという名前である。そのサミュエル・ゴールドウィンはこういった。『もしもメッセージが問題であるならば、ユニオン・パシフィックに行け』」と(場内静か)
 ……本当ならここらへんで爆笑が起こらないといけないんですけれども、「アメリカの偉大なる哲学者」といったのは、アメリカでもっとも馬鹿といわれているサミュエル・ゴールドウィンという1930年代から40年代にかけて活躍したプロデューサーの名前です。そのころ、映画を撮っているときに「メッセージなんかいらん」と彼はいって、ユニオン・パシフィックというのは、最後には鉄道会社になりましたけれども、一種の飛脚のような、馬を使って東海岸から西海岸まで往復していた通信会社のことで、それを指して「メッセージが問題であるならばユニオン・パシフィックへ行け。俺には聞くな」といったということで有名なのです。「アメリカのある有名な哲学者であるところのサミュエル・ゴールドウィンは」といったときに、私はつい笑ってしまった。そしたら彼が「しぃっ」というわけです。
 ところが、その翌日の『ジャパン・タイムス』という英語の新聞に、その通りの記事が出てしまった。それを書いているのはアメリカ人の記者です。そのアメリカ人の記者が、いまならネットで「サミュエル・ゴールドウィン」とひけば、「馬鹿なプロデューサー」って出てくるはずなのに、それをそのまま「哲学者」と書いてしまったんで大笑い、ということがあったんですが、とにかく、彼はメッセージということは考えていない。「仮にメッセージということが伝えられるのであれば、私は映画など撮らない。私が映画を撮るのは、現実がこのように機能しているんだということを、皆と一緒に考えるためだ」、というのが彼の基本的な姿勢です。「とするならば、社会的な不正についてあなたはどう考えるか」。これがまた非常によく訊かれる質問です。それに対して彼は、「私は確かにマルクス主義者ではある」という。またすごいことをいうなと驚いていますと、「もちろんそれはグルーチョの方だが」というふうに彼はいい直す。この男、真面目なようでいて酷い、相手が馬鹿だと、とことん相手を馬鹿にするようなことを平気いう、かなり酷い人であります。


( 蓮實重彦 『映画論講義』 東京大学出版会 P201)
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by JustAChild | 2010-10-25 00:25 | Wards

東浩紀   なぜ秋葉原なのか、なぜ携帯掲示板なのか、なぜ無差別なのか

 僕が昔から思っているのは、ネットとかも悪いものではなくて、ネットとかサブカルチャーとかもコミュニティとして、バッファとして効くわけですね。僕はだから、サブカルチャーとかに端的し、まったく社会とかの問題とかに関心をもたない人間ていうのは、むしろ安全だと思っているわけですよ、一貫して。なんでかというと、この国で社会についてとか、政治について本気で考えようとすると絶望しかないんですよね。選挙にもいかないでずっとゲームとかやっている奴のほうがむしろ包摂されているわけですよ、そういう意味では。

 ところが、こういう事件が起きると必ずそれがなぜか逆転して捉えられてしまって、「ゲームとかやっている奴は社会性がないから事件を起こすんだ」と。いや、それはまったく違うと。ゲームとかやってコミュニティを持っている奴はね、例えば今回でも、不幸なことに亡くなった十九歳の二人組み ― あれは四人で歩いていたわけですよね ― がいたと。で、彼らこそ実は加藤容疑者よりもおそらくディープなオタクであって、ネットとかで彼らがその直前にどんな映画を観ていたかっていうのがもうわかるんですけど、かなりちゃんとしたオタクたちですよ。彼らは四人で仲良く歩いていて、そのあとの文章は、友達の亡くなったときの悲しみとかね、全部すごく人間的なものですよ。だからサブカルチャーとかネットとかの問題では、そういう意味ではない。むしろ加藤容疑者が、こう鬱屈してしまったのはサブカルチャーとかネットとかが用意するコミュニティーすら剥奪されて、本当にナマのまま労働環境とか現実に向かい合ってしまったから起きたっていう感じが僕はします。


なぜ秋葉原なのか、なぜ携帯掲示板なのか、なぜ無差別なのか
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by JustAChild | 2010-10-14 00:14 | Wards


ここや/そこ/あちこちで/わたしたちは/徹底的に/やる


by JUSTAchild

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