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カテゴリ:Wards( 76 )

ヴィルモス・スィグモンド  アンドリュー・ワイエスの本をアルトマンのところに持って行った

――やってみたいと思い、頭の中には思い浮かべられるのに、どうしても実現できないルックは今までありましたか?

スィグモンド 映画はそれぞれ独自の世界を持っていると思うし、私はその時手がけているその作品に合わせてルックを作るようにしている。シナリオを読み、セットを見て、はじめて私の頭は活動を開始する。それから作品世界の創造にかかるわけです。ルックが先にあって、それからそれを作り出す手段を追い求めるなんてことはない。そんなことはたいして重要なことじゃないと思いますね。
 いつもその映画独自のルックをとらえようとしないといけない。『愛のメモリー』はある普通とは異なるルックを必要とした。それでそういうルックでやってみようとした。新作にかかるたびに違うルックに挑戦します。『脱出』を見てごらんなさい。『ギャンブラー』や『愛のメモリー』とはまるで別のルックでしょう。実際のところ、それがキャメラマンの仕事なんです。ルックを映画に押し付けることは避けるべきなんです。

――どういうルックがその映画に合っているか他人に言い表す時、画家の作品を挙げることがあると聞いたことがありますが、そうなんですか?

スィグモンド 撮影が入る時で、自分たちの目指すルックを監督にどう説明してよいかわからない時、よくそういうことをします。写真集や画集が家にたくさんあるんですよ。『ギャンブラー』の時は、バンクーバーで買ったアンドリュー・ワイエスの本を持っていて、それをアルトマンのところに持って行って、「この淡く柔らかいパステル調の絵をどう思いますか?」と聞いてみた。気に入ってくれたので、今度はその本をもってラボに持って行って、映画に出したいのはこういうルックなんだと説明した。私たちがなぜフラッシングしようとしているのかすぐに飲み込んでくれた。こんな具合に役に立つわけです。百聞は一見にしかずですよ。絵を見て自分の抱いていた気持ちにハッと気付くことがある。『イメージ』の時、画集から選んだ絵が一枚あって、黒白のなかにカラーを入れたようなその絵が、『イメージ』にぴったりのルックだと思えたんです。この絵を見たアルトマンは、「完璧だ、これで行こう」と言った。この時点でもうセットの色塗りは終わっていたのだけれど、先ほどの絵に完全に心を奪われていたので、塗り替えを指示した。こういうように絵は力強い味方になることがあるあけです。映画を視覚芸術のひとつと考えるなら、絵画や写真と多くの共通項があることがわかるはずです。

――キャメラマンにとって視覚芸術の基礎知識は大切だと考えますか?

スィグモンド もちろんです。ハンガリーの映画アカデミーで美術をみっちり勉強させられたことが何よりも力になっていると思う。絵画の歴史を研究し、少なくとも毎週一回は美術館に足を運んだ。おかげで構図、光、色彩、その他すべてに対する感覚が身につきました。芸術的な環境で生活すれば、芸術家のような思考になっていく。ある種の絵描きになるのはキャメラマンにとって悪いことはありません。構図に関しては天性の勘があるようで、セットに入ってキャメラを据える、それでいいんです。どうしてそこなのか理屈では言えない。監督はよく別の構図をと探し回るけれど、結局私が指定した位置に戻ってくる。何なのか自分でもわからない。フィーリングとしか言いようがないですね。でもそのショットがシーン全体を表現しているんです。まさに的確であるように思えるんです。キャメラマンは何か言うべきこと、何か人に伝えるべきことを持っていないといけない。そうでないなら別の仕事を探したほうがいい。


(デニス・シェファー、ラリー・サルヴァート 『マスターズ・オブ・ライト アメリカン・シネマの撮影監督たち』  訳:高間賢治 他 フィルムアート社 P352)
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by JustAChild | 2010-09-10 03:46 | Wards

大漉 高行  “走りながら考える”をモットーに疲弊する、音専誌の孤児

一方で、AFTERHOURS がこの特集で取り上げるべき批評誌かと問われれば、返答に詰まりもする。編集長であり発行人の大漉が

「こういう音楽を扱う雑誌自体が少ないですから、どちらかと言えば“音楽批評”ではなく、“音楽紹介”という性格を持つ雑誌なんです。他にもウチみたいな雑誌があったら、“音楽批評”が入ってきてもいいんですけど」

と言う通りだ。それでもこうして原稿を書いているのは、AFTERHOURS がここ数回の発行の間に、明確な「ジャーナリズム」を感じさせる雑誌へと変化したからだ。その変化について大漉は、

「身近で下北沢の再開発問題があって、『地域コミュニティーってなんだろう?』とか色々と考えたんですよね。それがきっかけで、例えば『今アメリカで面白いことが起こっていますよ』ってただ単に紹介するんじゃなくて、社会的なバックグラウンドとか、その理由も込みで伝えたいと考えるようになりました」

と語っている。

<中略>

AFTERHOURS のブログには、次のようなエントリーが上がっている。

「事実ではなく真実を」と誰かが言ってた。
アフターアワーズが「紙ならではの表現」とか「ジャーナリズム」というものを意識し続けるなら、光明はそこの一点突破だ。
以前このブログで新聞というメディアの可能性について書いたけど、WEBニュースやTVニュースにない新聞報道の武器はその一点に尽きる。
「いつ、どこで、だれが、何をしたか」というタダで手に入る事実は何も語らない。
「どんな環境で、どんな人間が、何でそんなことをしなければならなかったか」という真実を、金を払っても俺は知りたい。

「じゃあ、音楽誌はどうなのよ」の答えが、うちの雑誌の特集にある(はず)。
大いに手前味噌で悪いが、新譜対応の提灯アーティスト・インタビューや、ねつ造した新ジャンルの特集、気取ったグラビア、業界向けのレビューには特段興味がなくなった。
今は地域コミュニティー、社会に関心があるのよね。
                        (AFTERHOURS ブログ 2007年10月5日付より)

                 

(『CINRA MAGAZINE VOLUME 17』[特集 たのしい批評:インディペンデントマガジンの逆襲 - AFTERHOURS 大漉 高行] CINRA http://cinra-magazine.net/vol.17/CONTENTS/index.php?id=22)
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by JustAChild | 2010-09-08 22:34 | Wards

セシル・テイラー

 セシル・テイラーの音楽は最初のレコードが出てから四十年以上になる現在でも、スウィングしているかいないかとか、ジャズの伝統を受けついでいるかいないかといった程度のことばで語られている。なかには「ヨーロッパのもの」だとして「クラシック」音楽扱いしようとするものもいるが、それはうまくいかない。「クラシック」であるとはどういうことか。たとえば、こういうことができる。テイラーの演奏は「フリー」であるようにきこえるし、即興されたものだが、それでいて楽句の流れにはバロックの特徴がある。楽句の密度はひじょうに高くて、はっきりした「クラシック」の音の線(ライン)ではなく音の織物(テクスチャー)のようにきこえる。しかもその楽句は互いに対立しあう場合が多いし、曲を性格づける発想、モティーフというよりも音の価値を重視したものだ。テイラーはまた楽句をたいへんな密度で重ねていくから、ともすると互いの区別がつかなくなる。ヨーロッパの伝統を受けつぐだれが、なにがこのアンサンブルに影響しているというのか。
 テイラーが実際にピアノですることと、その疑いなく独自の創造性を考えるとき、かなりのところクラシック音楽を演奏しているかのようだし、これに異論をすかさず唱えられるものもない。だからスウィングしているかいないかとか、ヨーロッパとアフリカの起源のものが互いに対立しているとか、とは関係なくきくほうがいいかもしれない。しかしひとつの伝統に縛られているとみる必要がないなら、テイラーにとってジャズはどんなものにも引けをとらない骨組みになる。とりわけジャズ演奏という観点からテイラーのこれまでの音楽活動をとらえるときにはそうだ。また、テイラーのピアノ表現にはジャズの伝統がかなり息づいているともいえるだろう。デューク・エリントンの1963年の吹きこみで、雷雨のようにたたみかけながらも自由なテンポの"サマータイム Summertime"。もたつきながらもいまにも爆発しそうなエロル・ガーナーのフレイジング。デイヴ・ブルーベックのきっちりとビートに乗ったオンザビート感覚。テイラーのよくある演奏手順を考えてみよう。短い音形をピアノが提示すると、すぐさま、ひとりなり2人のホーン奏者に引きつがれる。音形はつぎつぎに引きつがれることもある。ヨーロッパのクラシック音楽でいうカノン、模倣であり、ポリフォニーから派生した月並みな形式だ。しかしクラシックなニューオリンズバンドのホモフォニーとか「たるんだ(ルース)ユニゾン」としても、ききとることはたやすい。つまりはメシアンよりもの血筋にあたる、と。メシアンはフランスの現代クラシック作曲家で、テイラーがときどき比較される相手だ。
 セシル・テイラーはファンの一部に謎を残し、評論家に課題を残す運命の持ち主だ。しかし、わたしたちの時代を代表する演奏家、作曲家、即興者のひとりであり、その演奏に立ちあうことは人生観が変わるほどの体験になる。


(ジョン・F・スウェッド 『ジャズ・ヒストリー』 諸岡 敏行 訳 P245 青土社)
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by JustAchild | 2010-09-06 03:31 | Wards

出発 Le départ

 ブリュッセルで美容師見習いとして働いている19歳の少年マルク(ジャン・ピエール・レオー)は、レーサーになることを夢見ている。彼は二日後に予定されているラリーへの出場登録をしているが、肝心の車を持っていない。そこでマルクは、自らの登録車であるポルシェを手に入れるべくあらゆる手段を講じる。

 彼は当初、勤め先の美容院のボスが所有するポルシェをこっそり車庫から拝借してラリーに出場しようとしていたが、ラリー当日にボスがポルシェを使うことが判明する。そこで彼は、同僚の友人にインド王"マハラジャ"の扮装をさせて自分は彼の秘書のふりをし、自動車販売店で一芝居打つ。このときマルクは"マハラジャ"がポルシェを購入したがっており、自分を運転手にして試乗したがっていると販売員を言いくるめ、まんまと車を盗み出すことに成功する。

 そのままポルシェを使って美容院のかつら配達の仕事を始めたマルクは、配達先の一つで若い娘ミシェール(カトリーヌ=イザベル・デュポール)と出会い、仲良くなる。

 ミシェールと別れた後も、マルクは盗んだポルシェで路上を走り廻るが、やがて"マハラジャ"役の友人が彼の前に現れる。事情を知らずに協力させられた友人は、マルクのペテンに気づいて激怒している。彼は激しくマルクを責め立て、果ては取っ組み合いの喧嘩になる。その後、マルクは仕方なくポルシェを返却する。

 次いでマルクは、ポルシェを正式に借りるための保証金を手に入れようと画策し、ミシェールを誘って自動車ショウへと赴く。彼はそこでスペアの部品を盗んで売り払おうと目論んでいたのだが、この計画も失敗に終わる。

 その後マルクとミシェールは、自分たちの所持品で価値のありそうなものをすべて質入れしていまう。しかしそれでも目標額には足りない。思い余ったマルクはミシェールに協力させて路上に駐車してあったポルシェを盗み出すが、後部座席に所有者の飼い犬が乗っていることに気づき、結局返却してしまう。

 やがてマルクのボスが思いがけず戻って来て、問題は解決する。ラリーに出場するために、ボスの車を拝借すればいいのだから。しかしマルクとミシェールは、イベント開催前夜に仮眠をとるために入った会場近くのホテルで寝過ごしてしまい、ラリーに参加することができなくなる。

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c0144309_6594954.jpg 映画の冒頭、トックリのセーターから頭を出すマルクの姿があからさまな陰茎の隠喩に見える他、女性の髪を弄り回す美容師という職業(と中年の顧客女性の性的誘惑)、屋台のホットドッグ売りの存在(車の排気口にソーセージを入れる)、タイヤ用の空気入れが導き出す運動、そして何よりも主題としての車に、性的な匂いを嗅ぎ取ることはたやすい。

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 自己中心的な若者を覚醒させるのが身近な異性である点には、『バリエラ』からの主題の継承が見いだされるが、恋愛感情の萌芽に力点を置いていた『バリエラ』と違い、『出発』で描かれる男女関係では性的な色合いがより強まっているのである。もっとも、『バリエラ』の最後でヤン・ノヴィツキが取った愛する娘への求愛行動(走って来る娘が乗った路面電車を前にして、路線に身体を横たえる)を、本作のレオーも映画の中盤で繰り返す。

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 本作におけるマルク=レオーが、その静止像が動き出した途端に走り出し、以後敏捷かつ精力的、大仰かつ攻撃的に休むことなく動き続ける(エレベーターを待つ間でさえせわしなく階段を行ったり来たりし、門の開閉を待ちきれずにそれを飛び越える)のも、二つの静止像に挟まれた動く画としての「映画」を意識しての所作に思えてくる。同時にそれは、主題歌が唱える歌詞(『心ならずも/私たちの周囲は/いつも虚ろ』とうたわれる)に応じる形で、「虚ろ=無為」を狂騒で埋め合わせる行為にも見える

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 映画は形式的に、自ら作り上げた円環を閉じるようにして終わる。前述した通り、マルクが着ている途中のセーターから頭を出す瞬間の静止像が動き出し、次いで彼がポルシェめがけて走り出すことで始まる本作は、以下のような形で文字通り自らに終止符を打つからである。
 ラリー開催当日、窓外を何台もの車が走り抜けて行く騒音で目覚めたミシェールは、マルクがまだホテルの部屋に留まっているのに気づいて驚く。しかしマルクの態度は、それまでとは打って変わって落ち着いたものになっている。ここで彼が執着の対象であった車を諦め、ミシェールの方を選んだのだということがはっきりする。いつまでもベッドに横たわっているミシェールを起こそうとシーツを剥がしたマルクは、そこに全裸になって自分を待つ彼女の姿を認め、驚いていったん目をそむけた後で、もう一度ゆっくりと彼女の方に向き直る。その瞬間、マルクの顔が静止する。マルクの像が静止した直後、その静止像が炎と共に歪み、グロテスクに爛れ、焼け落ちて映画は終わる。

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 この最後の場面の少し前、ミシェールがマルクに、幼少時からごく最近までの自らの成長を記録したスライド写真を年代順に見せるくだりがある。ミシェールが途中で眠り込んでしまうために、成熟した娘の段階に至った彼女をとらえた写真がスライド機材の熱で焼け爛れてしまうのだが、このくだりは本作の最後の瞬間を予告しそれと対をなすことで、おそらく焼けた写真の段階でミシェールはマルクがこれから迎えようとする瞬間を経験済みなのだろうと想像させる。


(遠山純生編 『紀伊國屋映画叢書・1 イエジー・スコリモフスキ 』 P79 紀伊國屋書店)
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by JustAchild | 2010-09-06 02:25 | Wards

早春 Deep End

 学校を卒業したばかりの少年マイク(ジョン・モルダー=ブラウン)は、労働者階級一家の出身。彼はロンドンにある公衆浴場兼水泳プール場の接客係の職に就く。職場で彼は、自分よりもわずかに年上の先輩職員スーザン(ジェイン・アッシャー)に心惹かれる。まだ15歳になったばかりで童貞のマイクと違い、既に23歳のスーザンは男性経験豊富な娘だった。彼女には婚約者がいたが、一方で自分の元体育教師とも関係を保っている。体育教師はマイクのもと先生でもあり、彼とスーザンが働いている水泳プールにやって来て女子学生たちに水泳を指導していた。

 やがてマイクと親しくなったスーザンは、女性客の性的欲求を充たしてやれば小遣い稼ぎができると彼に助言する。しかしマイクの方は、スーザンと友人以上の関係になることだけを望んでおり、彼女の後をつけ回すようになる。そして、婚約者に連れられて成人映画館やナイトクラブを訪れるスーザンを追い、夜の街を徘徊する。

 ある日職場で、体育教師と浴室の1つにしけ込んだスーザンの姿を目にして嫉妬に駆られたマイクは、防火装置の非常ベルを叩き割って一騒動起こす。また彼は、ソーホーの売春宿の前で偶然見つけた、高級売春婦の等身大切り抜きヌード写真で作られた立看板を盗み出す。その売春婦はスーザンに酷似していた。立看板を抱えて地下鉄に乗ったマイクは、同じ車両に乗り合わせたスーザンに詰め寄り、写真のモデルは君かと問い質す。スーザンがそうだと答えるとマイクは怒り狂い、2人は他の乗客たちの注目の的となる、同じ夜、職場の水泳プールを1人訪れたマイクは、全裸になってプールに飛び込み、水中で立看板に抱きつく。

 雪の降るある日のこと、スーザンは愛人の体育教師に付き添い、彼が生徒たちによるマラソン競技に立ち会う様子を遠方から眺めていた。生徒たちが走り出した途端にマイクが姿を現わし、教師の制止を振り切って彼らに混じって走り出す。競技が終わると、マイクは体育教師の車のタイヤをパンクさせ、彼とスーザンが2人で立ち去るのを阻止しようとする。スーザンが車を走らせようとするとタイヤがパンクし、彼女はマイクの目論見に気づく。怒ってマイクをひっぱたいた彼女は、その際婚指輪のダイアモンドを雪の中に落としてしまう。マイクの提案で、2人はダイアモンドが落ちた周囲の雪をかき集め、干上がったプールの中に持ち込んで溶かし、宝石を見つけ出そうとする。試みは成功し、マイクはスーザンに褒美として自分と寝ることを暗に要求する。マイクにとっての初体験は、うまくいかなかった。しかしスーザンが自分とのセックスを何ら特別視しておらず、何食わぬ顔で立ち去ろうとしていることに気づいたマイクは、引き留めようとして彼女の頭にランプをぶつけ、殺害してしまう。

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c0144309_6413375.jpg 原題は「(プールの)深い方」の意だが、ここにはおそらく「自制を失う=われを忘れる」の意が暗に重ねられている。英国=旧西ドイツ合作映画で、撮影地は英国のロンドンと旧西ドイツのバイエルン州ミュンヘン。出演者は、ジョン・モルダー=ブラウン(マイク役)、ポップ・デュオ「ピーター&ゴードン」のピーター・アッシャーの妹で、5歳の頃から女優業を開始し、1960年代には「ザ・ビートルズ」のポール・マッカートニーの恋人としても知られたジェイン・アッシャー(スーザン役)、40年代後半からキャリアを開始した英国のセックス・シンボル女優ダイアナ・ドース(マイクを誘惑する公衆浴場のの客役)わ主要キャスト数人が英国人である以外は、ほぼすべてドイツ人およびオーストラリア人が占めている。

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c0144309_6394826.jpg スコリモフスキは70年1月に本作を着想した。そもそもの出発点には、「雪の中にあるダイアモンドをどうやって探し出すか」という奇妙なアイディアがあったという。雪を溶かせば良いのだと思いついたとき、スコリモフスキはその思いつきから映画のストーリーを作り上げることができると考えた。

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 冒頭、したたり落ちた一滴の血が自転車のフレームを伝って流れる。このときカメラは、舐めまわすようにしてゆっくりと自転車の車体を撮る。前年公開の米映画『イージー・ライダー』(デニス・ホッパー、69)の冒頭で、カメラがオートバイの車体を同じく愛撫し舐めるように撮った冒頭場面を(あるいは同場面の参照元となったと思われるケネス・アンガーの『スコーピオン・ライジング』(64)の一場面を)彷彿とさせる描写だが、性的なほのめかしを帯びたカメラのエロティックな動きは、それによってとらえられた流れ落ちる血の滴と自転車の赤いフレームの組み合わせが血管を連想させることで、生理的な痛々しさをも観る者に喚起する。

 動き続けるカメラは、やがて銀色のベルにぼんやり反映した少年(マイク)の顔と、その手前に掲げられる出血した指をとらえる。既にこの冒頭の場面でマイクが最後に引き起こす流血沙汰が予告されているように、本作では劇の構造と画面を彩る細部とが、、スコリモフスキ作品中最も緊密に結び合いながら、すべてがクライマックスに向かって有機的に組織されてゆく。

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c0144309_63913100.jpg 冒頭と最後を埋めていくのは、まずはスコリモフスキ特有の電球をめぐる符牒――元ガールフレンドのキャシーとの別れ際に、マイクが走りながらひとつひとつ叩いて揺らしてゆく廊下の天井に吊るされたランプの数々、地下鉄の中で激昂したマイクが立看板で叩き割る蛍光灯――である。加えて、『バリエラ』でヒロインが復活祭を催しの準備を手伝う場面から顕著になった、流れ落ちる液体の視覚的主題が、液体および色彩としての赤ペンキの存在を通じて繰り返される。映画の半ばで、嫉妬に駆られたマイクは非常火災警報装置を手で叩き割り、再び指から血を流すだろう。

 さらに、『不戦勝』以来幾度となく繰り返された、動き始める静止像の主題が姿を現わす。ここでは立看板の裸の女の等身大切り抜き写真が水を張ったプールに落とされ、続いて水中に飛び込んだマイクがそれを抱きしめた瞬間に、平面像であったはずの女の髪が水中で揺らめき始める。この等身大写真は、『バリエラ』以来のポスターや看板に描かれ印刷された人物像に連なるものでもあるだろう。
 映画は最後に至って、上記すべての要素を内に含みつつ、冒頭近くでマイク目にした電球と薬缶の関係を反復する。ここでは、雪の中に落ちて所在のわからなくなったダイアモンドを探し出すため、マイクとスーザンは雪の塊を干上がったプールに持ち込んで、プールの天井に設えられた巨大なランプを頭の真上に降ろし、そこから電源を取ることで電気薬缶の中に入れた雪を溶かしつつ、それをスーザンのストッキングで濾してダイアモンドを見つけ出そうとする。同じ結晶構造を備えていながら片や最も脆く、片や最も堅固な物体である雪とダイアモンドの対比から、クライマックスがその始まりを告げることにまず留意したい。

c0144309_6421952.jpg 雪を溶かしてダイアモンドを見つけ出したマイクは、干上がったプールの底に横たわってそれを舌の上に乗せることでスーザンを無言のうちに脅迫しつつ、彼女の肉体を要求する。マイクの策略に苛立ったスーザンが彼のまとっている白いスーツを引き剥がすと、マイクが全裸になっていることがわかる。ここで観客は、マイクとスーザンの振る舞いが『出発』の最後における男女の役割を裏返したものであることに気づくだろう。しかしスーザンは『出発』のマルクと違って、相手が知らぬ間に全裸になっていようが動揺することもない。したがって、マイクは思いを遂げる(しかし行為はどうやら失敗に終わる)が、この程度のことでスーザンがマイクをいつまでも構っているはずはないのである。

 2人の最後を準備するのは、彼らを照らすランプの強烈な光、雪から液体を経て気体へと至る事物の変容、ダイアモンドも薬缶も衣服もすべて飲み込んで突然プール内部を暴力的に満たし始める大量の水である。マイクが立ち去ろうとするスーザンを引き留めようとして、彼女の後頭部に向けて押し出すランプが、すべてのきっかけとなる。揺らめき続けるランプの光。揺れた反動でランプがプールの片隅に置かれたペンキ缶にぶつかったせいで、壁に飛散し垂れ落ちる血のような赤ペンキの滴。スーザンの後頭部から滲み出す血。これらすべてがプール内部に留まり続ける水と溶け合う。このときマイクは水中で、もはや等身大写真のように動かなくなった、しかし平面像ではない女=スーザンを抱きしめる。


(遠山純生編 『紀伊國屋映画叢書・1 イエジー・スコリモフスキ 』 P140 紀伊國屋書店)
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by JustAchild | 2010-09-06 01:38 | Wards

ネストール・アルメンドロス  自分はデイヴィッド・ホックニーに興味をひかれるようになっていった

――『クレイマー、クレイマー』についてですが、美学上あるいは撮影上のあなたのアプローチをお聞かせください。

アルメンドロス これは現代を描いた映画ですよね。舞台はアッパー・イーストサイドのアパート。中流の上の階級です。ニューヨークを眺望する高層ビル内のシーンもあるし、レストランや裁判所にもロケーションしている。どこにでもあるものを扱っているわけで、きわめてありきたりなわけです。そういった意味では、『家庭』とか『愛の昼下がり』に外見上は近い。どちらも私の手がけた現代ものです。『恋愛日記』にも少し似ていますかね。
 普通、現代の題材で映画を作る時は、視覚的な側面にはあまりこだわらずにやるべきだと考えられている。ですから、たいてい他の映画よりも雑に、てっとり早く作られてしまう。セット・デザイナーも衣装係もいなくて、そこにあるものをただ撮るだけという具合にね。しかし、この映画では幸いなことに時間的な余裕があったし、リサーチも行えた。ロバート・ベントンはピエロ・デラ・フランチェスカを念頭に置こうと言った。驚かされましたよ。現代ものを撮ろうとしている時にですからね。ともかく、デラ・フランチェスカが、この映画を作るにあたって私たちが研究した画家でした。たくさんのフレスコや画集に目を通しました。
 撮影が進むにつれて、映画の中の被写体がピエロ・デラ・フランチェスカとは何のかかわりもないと思えてきた。デラ・フランチェスカの色彩を壁とか衣服とかに用いようとしていたのですが……。ところが、徐々に、製作の途中から、自分はデイヴィッド・ホックニーに興味をひかれるようになっていった。そしたらつい先日、デイヴィッド・ホックニーがピエロ・デラ・フランチェスカの後継者を自任していたということを知りました。うれしかったですね。結局、全然的外れということはなかったわけです。最近デイヴィッド・ホックニーを調べています。椅子とかサボテンの鉢とかランプのかさとか窓とかいった現代の事物を使っている。『クレイマー、クレイマー』に出てくるものに似ているのばかりです。今では自分のインスピレーションの源泉なんです。


(デニス・シェファー、ラリー・サルヴァート 『マスターズ・オブ・ライト アメリカン・シネマの撮影監督たち』  訳:高間賢治 他 フィルムアート社 P39)
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by JustAChild | 2010-09-02 02:47 | Wards

リポト国際ジャズ祭

 ポーランドでジャズを初めて演奏する楽団が誕生したのは23年と記録されている。他のヨーロッパ諸国と同様、30年代前半にはちょっとしたジャズ・ブームが到来し、レストラン、ダンスホール、ナイトクラブ、劇場などでジャズ演奏が定番となったし、人気のあったジャズ・ミュージシャンたちは映画界でも活躍したが、39年に第二次世界大戦が開戦するとジャズの環境はすべて失われてしまった。大戦後ポーランドはスターリンが指導するソ連の社会主義体制に組み込まれていって、49年に共産党が政権を掌握してからは資本主義を批判するイデオロギーのもとジャズは禁止された。それはポーランドに限ったことではなく、中・東欧の旧社会主義諸国にもほぼ共通している。それでも演奏したい者、聴きたい者はアンダーグラウンドで秘密裏に楽しんだ。ポーランド・ジャズ史ではカタコンベ時代と称される時代である。53年、スターリン死去した後、ジャズに対する風当たりは少しずつ弱まっていったようで、ポーランドでは翌54年に政府公認でジャズ祭が開催されている。そしてソ連でスターリン批判がなされたという情報が世界に広がった56年、リポト国際ジャズ祭開催という経緯があった。


(遠山純生編 『イエジー・スコリモフスキ 紀伊國屋映画叢書・1 』 P117 岡島豊樹 紀伊國屋書店)
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by JustAChild | 2010-08-29 15:09 | Wards

グロリア・グレアムの3つ

● ところで、これはどんな映画ファンもほとんど同じ想いだったにちがいないのだが、1940―1950年代のモノクロ女優のなかで、だれの裸をいちばん見たかったといえば、それはイングリッド・バーグマンでもなく、ローレン・バコールでもなく、ラナ・ターナーでもなく、バーバラ・スタンウィックでもない――それはグロリア・グレアムだった。ニコラス・レイ監督の『孤独な場所で』(1950)は1950年代にはまだ日本では公開されていなかったが、『悪人と美女』(ヴィンセント・ミネリ監督、1952)や『摩天楼の影』(マックスウェル・シェイン監督、1952)や『復讐は俺に任せろ(ビッグ・ヒート 復讐は俺にまかせろ)』(フリッツ・ラング監督、1953)のグロリア・グレアム。
P62<女の犯罪、女の活劇――フィルム・ノワール断章>

● こんなときに、40年代の「フィルム・ノワール」の女たちは、いささかも淫らな態度を見せない。下着姿でも着乱れた感じはまったくない。男を誘惑することは、男に媚びることではなく、男を脅迫すること、あるいはむしろ精神的にも肉体的にも完全に支配することなのだ。おそらく唯一の例外がグロリア・グレアムだった。彼女はあたかも50年代の遅れてきたファム・ファタールといった感じだった。ニコラス・レイ監督の『孤独な場所で』(1950)やフリッツ・ラング監督の『復讐は俺に任せろ』(1953、新題名『ビッグ・ヒート 復讐は俺にまかせろ』)では、あの着乱れた黒のスリップ姿の眠たげな風情は心やさしさの表現だった。
P162<拳銃に魅せられた女、ペギー・カミンズ>

● 女をいためつけるというスクリーンのサディズムのひとつのパターンがあるけれども、1950年代までの映画史でのその最も残酷な例のひとつは、おそらくはフリッツ・ラング監督の『復讐は俺に任せろ(ビッグ・ヒート 復讐は俺にまかせろ)』(1953)でリー・マーヴィンがグロリア・グレアムの顔に煮えたぎる熱湯(だったか、コーヒーだったか)をぶっかけるシーンであった。それとて、いわば映画的に、顔の半面を繃帯でおおったグロリア・グレアムの鼻をふくめたもう半面の横顔の美しさをきわだたせるためでもあるかのようだった。
P266<暗黒街の女、シド・チャリシー>


(山田宏一 『新編 美女と犯罪』 ワイズ出版)
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by JustAChild | 2010-08-28 06:00 | Wards

山田宏一   シルヴィア・シドニーのまごころ


 シルヴィア・シドニーは一九三〇年代のハリウッドの「最も悲しみにみちた瞳」の女優だった。
いつも、小さなかわいらしい丸顔に大きな眼をして、そのつぶらな瞳――というよりは目玉という感じなのだが、ベティ・デイヴィスの憎々しい目玉とは対照的なせつないくらいの愛くるしさだ――に涙をいっぱいたたえ、こみあげてくる悲しみにくちびるをふるわせ、かろうじて嗚咽をこらえていた。顔の半分くらいはありそうな大きな額はまるで悪意というものを知らない無垢にかがやいているかのように白くきれいで(心配事があると、顔いっぱいにその白くきれいな額をくもらせる)、小柄なからだ全体がまるで凍えるようにうちふるえ、暗い、喜びなき人生を一生懸命に生きようと傷つき、もだえているかのようだった。
 D・W・グリフィス監督のサイレント映画のヒロイン、あの、「彼女に対してかくもきびしくつめたかったこの世に最後の微笑みを送って」死んでいった『散り行く花』(一九一九)の薄幸のヒロイン、リリアン・ギッシュにも比較された。ただ、くちびるだけは、リリアン・ギッシュのおちょぼ口とは似ても似つかぬ、大きくふくよかな口唇で、それだけに、美しいまごころそのものといった彼女の小さなまるぽちゃの顔に微笑みが浮かぶと、あっという間に歓びがひろがって、こんなに思いがけなくて、こんなにうれしくて、こんなに感動的で、こんなに心をなごませてくれるものがこの世にあるんだろうかと思わせるくらいだし、愛する夫や恋人に熱いくちづけをするとき(彼女は、夫を、恋人を、いつも、まるで二度と帰ってこないと思っていたひとが帰ってきたかのような歓びにふるえながら迎え入れて抱きすくめるのである)、彼女ほど熱のこもったキスをする女性がこの世にいるだろうかとすら思わされるのだ。


(山田宏一 『新編 美女と犯罪』 ワイズ出版 P125)
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by JustAChild | 2010-08-28 04:52 | Wards

山田宏一   ジーン・ティアニーのローラ


一九四〇年代のハリウッドのフィルム・ノワールを妖しく彩ったファム・ファタール(妖婦=運命の女あるいは魔性の女)のなかでも、『ローラ殺人事件』のジーン・ティアニーは最も魅惑的な謎の美女だ。

<中略>

 「ローラが死んだあの週末をわたしは忘れない」というクリフトン・ウェッブのナレーションと回想から映画は始まる。典型的なフィルム・ノワールの話法だ。ローラの「保護者」であったジャーナリストのクリフトン・ウェッブがダナ・アンドリュースの刑事に向かって回想形式で語る話のなかにジーン・ティアニーのローラが生きた姿で出てくるのだが、ダナ・アンドリュースはもちろんまだ彼女の死体と彼女の部屋に飾られた肖像画しか見ていない。そして、すでに恋をしているのだ。「死体に恋をする」倒錯性をずばりクリフトン・ウェッブに指摘されるのも当然なのである。それから十四年後に死んだ女のイメージにとり憑かれて破滅にに向かう『めまい』(アルフレッド・ヒッチコック監督、一九五八)のジェームズ・スチュアートの前身と言ってもいいかもしれない。それからさらに三十一年後には、デヴィッド・リンチ監督がテレビ・ドラマ・シリーズ『ツイン・ピークス』で死んだ女(ローラという名は偶然だろうか?)に魅せられたように捜査をつづけるFBI捜査官(カイル・マクラクラン)を登場させることになる。
 ダナ・アンドリュースは、殺人事件の捜査にかこつけて、ローラの香水が――女の香りが――まだただようアパートに単身入りこみ、泊まりがけで、彼女の遺品を調べ、その「思い出」にふれる。
 暖炉の上の壁に掛けられたほとんど等身大のローラの肖像画に魅せられたまま、彼は深い椅子に腰をおろして眠ってしまう。テーマ音楽のメロディーが静かに流れる(シンセサイザーで処理されたような不思議な、そして悲痛な音色のテーマ音楽がメランコリックなムードを高めた記憶があるのだが、ビデオで見た版は、デヴィッド・ラクシンのスコアの美しい旋律には聴き覚えがあるものの、ごくふつうのオーケストラ演奏だった。記憶のなかで伴奏音楽の音色がふくらんでしまったのかもしれない)。
 外はどしゃ降りの雨である。それだけいっそう、部屋のなかの静けさが伝わってくる。ものすごくいいムードだ。キャメラがゆるやかに眠る男に寄っていく――まるで夢のシーンに入っていくかのように。それからまた、ワンカットのままキャメラを引くと、壁のローラの肖像画がフレームに入ってくるあたりで、ドアのあく音がする。キャメラがふりむくようにドアのほうをとらえると、レインコート姿の若い女が部屋に入って、ドアをしめるところである。女は誰かがソファに眠っているのにきづき、暖炉のわきの灯をつける。男は目をさまし、おどろいて見つめる。そこには死んだはずのローラが、夢の女が、立っているのである。
 ヒッチコックの『めまい』で、淡いグリーンの光に彩られて、死者の中から、キム・ノヴァクが、ジャームズ・ステュアートの前に、よみがえってくるシーンを想起させる、あるいはむしろ予告する、すばらしさだ。
 「生きていたのか」と男は信じられないように女に向かって言う。壁に掛けられた絵からそのまま抜け出てきたような非現実的なイメージではないにもかかわらず、彼女の「出現」は悪夢のはじまりを告げるかのようだ。ジーン・ティアニーは幽霊のように出てきたかに見えるが、そのレインコート姿はリアルでエロチックですらある。
 ローラはレインコートに取り付けた柔らかいフードのような帽子をかぶっているのだが、額をあらわにだしたデザインはジーン・ティアニーの魅力をさりげなく強調するためにちがいない。



(山田宏一 『新編 美女と犯罪』 ワイズ出版 P100)
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by JustAChild | 2010-08-15 01:51 | Wards

カテゴリ:Wards( 76 )

ヴィルモス・スィグモンド  アンドリュー・ワイエスの本をアルトマンのところに持って行った

――やってみたいと思い、頭の中には思い浮かべられるのに、どうしても実現できないルックは今までありましたか?

スィグモンド 映画はそれぞれ独自の世界を持っていると思うし、私はその時手がけているその作品に合わせてルックを作るようにしている。シナリオを読み、セットを見て、はじめて私の頭は活動を開始する。それから作品世界の創造にかかるわけです。ルックが先にあって、それからそれを作り出す手段を追い求めるなんてことはない。そんなことはたいして重要なことじゃないと思いますね。
 いつもその映画独自のルックをとらえようとしないといけない。『愛のメモリー』はある普通とは異なるルックを必要とした。それでそういうルックでやってみようとした。新作にかかるたびに違うルックに挑戦します。『脱出』を見てごらんなさい。『ギャンブラー』や『愛のメモリー』とはまるで別のルックでしょう。実際のところ、それがキャメラマンの仕事なんです。ルックを映画に押し付けることは避けるべきなんです。

――どういうルックがその映画に合っているか他人に言い表す時、画家の作品を挙げることがあると聞いたことがありますが、そうなんですか?

スィグモンド 撮影が入る時で、自分たちの目指すルックを監督にどう説明してよいかわからない時、よくそういうことをします。写真集や画集が家にたくさんあるんですよ。『ギャンブラー』の時は、バンクーバーで買ったアンドリュー・ワイエスの本を持っていて、それをアルトマンのところに持って行って、「この淡く柔らかいパステル調の絵をどう思いますか?」と聞いてみた。気に入ってくれたので、今度はその本をもってラボに持って行って、映画に出したいのはこういうルックなんだと説明した。私たちがなぜフラッシングしようとしているのかすぐに飲み込んでくれた。こんな具合に役に立つわけです。百聞は一見にしかずですよ。絵を見て自分の抱いていた気持ちにハッと気付くことがある。『イメージ』の時、画集から選んだ絵が一枚あって、黒白のなかにカラーを入れたようなその絵が、『イメージ』にぴったりのルックだと思えたんです。この絵を見たアルトマンは、「完璧だ、これで行こう」と言った。この時点でもうセットの色塗りは終わっていたのだけれど、先ほどの絵に完全に心を奪われていたので、塗り替えを指示した。こういうように絵は力強い味方になることがあるあけです。映画を視覚芸術のひとつと考えるなら、絵画や写真と多くの共通項があることがわかるはずです。

――キャメラマンにとって視覚芸術の基礎知識は大切だと考えますか?

スィグモンド もちろんです。ハンガリーの映画アカデミーで美術をみっちり勉強させられたことが何よりも力になっていると思う。絵画の歴史を研究し、少なくとも毎週一回は美術館に足を運んだ。おかげで構図、光、色彩、その他すべてに対する感覚が身につきました。芸術的な環境で生活すれば、芸術家のような思考になっていく。ある種の絵描きになるのはキャメラマンにとって悪いことはありません。構図に関しては天性の勘があるようで、セットに入ってキャメラを据える、それでいいんです。どうしてそこなのか理屈では言えない。監督はよく別の構図をと探し回るけれど、結局私が指定した位置に戻ってくる。何なのか自分でもわからない。フィーリングとしか言いようがないですね。でもそのショットがシーン全体を表現しているんです。まさに的確であるように思えるんです。キャメラマンは何か言うべきこと、何か人に伝えるべきことを持っていないといけない。そうでないなら別の仕事を探したほうがいい。


(デニス・シェファー、ラリー・サルヴァート 『マスターズ・オブ・ライト アメリカン・シネマの撮影監督たち』  訳:高間賢治 他 フィルムアート社 P352)
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by JustAChild | 2010-09-10 03:46 | Wards

大漉 高行  “走りながら考える”をモットーに疲弊する、音専誌の孤児

一方で、AFTERHOURS がこの特集で取り上げるべき批評誌かと問われれば、返答に詰まりもする。編集長であり発行人の大漉が

「こういう音楽を扱う雑誌自体が少ないですから、どちらかと言えば“音楽批評”ではなく、“音楽紹介”という性格を持つ雑誌なんです。他にもウチみたいな雑誌があったら、“音楽批評”が入ってきてもいいんですけど」

と言う通りだ。それでもこうして原稿を書いているのは、AFTERHOURS がここ数回の発行の間に、明確な「ジャーナリズム」を感じさせる雑誌へと変化したからだ。その変化について大漉は、

「身近で下北沢の再開発問題があって、『地域コミュニティーってなんだろう?』とか色々と考えたんですよね。それがきっかけで、例えば『今アメリカで面白いことが起こっていますよ』ってただ単に紹介するんじゃなくて、社会的なバックグラウンドとか、その理由も込みで伝えたいと考えるようになりました」

と語っている。

<中略>

AFTERHOURS のブログには、次のようなエントリーが上がっている。

「事実ではなく真実を」と誰かが言ってた。
アフターアワーズが「紙ならではの表現」とか「ジャーナリズム」というものを意識し続けるなら、光明はそこの一点突破だ。
以前このブログで新聞というメディアの可能性について書いたけど、WEBニュースやTVニュースにない新聞報道の武器はその一点に尽きる。
「いつ、どこで、だれが、何をしたか」というタダで手に入る事実は何も語らない。
「どんな環境で、どんな人間が、何でそんなことをしなければならなかったか」という真実を、金を払っても俺は知りたい。

「じゃあ、音楽誌はどうなのよ」の答えが、うちの雑誌の特集にある(はず)。
大いに手前味噌で悪いが、新譜対応の提灯アーティスト・インタビューや、ねつ造した新ジャンルの特集、気取ったグラビア、業界向けのレビューには特段興味がなくなった。
今は地域コミュニティー、社会に関心があるのよね。
                        (AFTERHOURS ブログ 2007年10月5日付より)

                 

(『CINRA MAGAZINE VOLUME 17』[特集 たのしい批評:インディペンデントマガジンの逆襲 - AFTERHOURS 大漉 高行] CINRA http://cinra-magazine.net/vol.17/CONTENTS/index.php?id=22)
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by JustAChild | 2010-09-08 22:34 | Wards

セシル・テイラー

 セシル・テイラーの音楽は最初のレコードが出てから四十年以上になる現在でも、スウィングしているかいないかとか、ジャズの伝統を受けついでいるかいないかといった程度のことばで語られている。なかには「ヨーロッパのもの」だとして「クラシック」音楽扱いしようとするものもいるが、それはうまくいかない。「クラシック」であるとはどういうことか。たとえば、こういうことができる。テイラーの演奏は「フリー」であるようにきこえるし、即興されたものだが、それでいて楽句の流れにはバロックの特徴がある。楽句の密度はひじょうに高くて、はっきりした「クラシック」の音の線(ライン)ではなく音の織物(テクスチャー)のようにきこえる。しかもその楽句は互いに対立しあう場合が多いし、曲を性格づける発想、モティーフというよりも音の価値を重視したものだ。テイラーはまた楽句をたいへんな密度で重ねていくから、ともすると互いの区別がつかなくなる。ヨーロッパの伝統を受けつぐだれが、なにがこのアンサンブルに影響しているというのか。
 テイラーが実際にピアノですることと、その疑いなく独自の創造性を考えるとき、かなりのところクラシック音楽を演奏しているかのようだし、これに異論をすかさず唱えられるものもない。だからスウィングしているかいないかとか、ヨーロッパとアフリカの起源のものが互いに対立しているとか、とは関係なくきくほうがいいかもしれない。しかしひとつの伝統に縛られているとみる必要がないなら、テイラーにとってジャズはどんなものにも引けをとらない骨組みになる。とりわけジャズ演奏という観点からテイラーのこれまでの音楽活動をとらえるときにはそうだ。また、テイラーのピアノ表現にはジャズの伝統がかなり息づいているともいえるだろう。デューク・エリントンの1963年の吹きこみで、雷雨のようにたたみかけながらも自由なテンポの"サマータイム Summertime"。もたつきながらもいまにも爆発しそうなエロル・ガーナーのフレイジング。デイヴ・ブルーベックのきっちりとビートに乗ったオンザビート感覚。テイラーのよくある演奏手順を考えてみよう。短い音形をピアノが提示すると、すぐさま、ひとりなり2人のホーン奏者に引きつがれる。音形はつぎつぎに引きつがれることもある。ヨーロッパのクラシック音楽でいうカノン、模倣であり、ポリフォニーから派生した月並みな形式だ。しかしクラシックなニューオリンズバンドのホモフォニーとか「たるんだ(ルース)ユニゾン」としても、ききとることはたやすい。つまりはメシアンよりもの血筋にあたる、と。メシアンはフランスの現代クラシック作曲家で、テイラーがときどき比較される相手だ。
 セシル・テイラーはファンの一部に謎を残し、評論家に課題を残す運命の持ち主だ。しかし、わたしたちの時代を代表する演奏家、作曲家、即興者のひとりであり、その演奏に立ちあうことは人生観が変わるほどの体験になる。


(ジョン・F・スウェッド 『ジャズ・ヒストリー』 諸岡 敏行 訳 P245 青土社)
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by JustAchild | 2010-09-06 03:31 | Wards

出発 Le départ

 ブリュッセルで美容師見習いとして働いている19歳の少年マルク(ジャン・ピエール・レオー)は、レーサーになることを夢見ている。彼は二日後に予定されているラリーへの出場登録をしているが、肝心の車を持っていない。そこでマルクは、自らの登録車であるポルシェを手に入れるべくあらゆる手段を講じる。

 彼は当初、勤め先の美容院のボスが所有するポルシェをこっそり車庫から拝借してラリーに出場しようとしていたが、ラリー当日にボスがポルシェを使うことが判明する。そこで彼は、同僚の友人にインド王"マハラジャ"の扮装をさせて自分は彼の秘書のふりをし、自動車販売店で一芝居打つ。このときマルクは"マハラジャ"がポルシェを購入したがっており、自分を運転手にして試乗したがっていると販売員を言いくるめ、まんまと車を盗み出すことに成功する。

 そのままポルシェを使って美容院のかつら配達の仕事を始めたマルクは、配達先の一つで若い娘ミシェール(カトリーヌ=イザベル・デュポール)と出会い、仲良くなる。

 ミシェールと別れた後も、マルクは盗んだポルシェで路上を走り廻るが、やがて"マハラジャ"役の友人が彼の前に現れる。事情を知らずに協力させられた友人は、マルクのペテンに気づいて激怒している。彼は激しくマルクを責め立て、果ては取っ組み合いの喧嘩になる。その後、マルクは仕方なくポルシェを返却する。

 次いでマルクは、ポルシェを正式に借りるための保証金を手に入れようと画策し、ミシェールを誘って自動車ショウへと赴く。彼はそこでスペアの部品を盗んで売り払おうと目論んでいたのだが、この計画も失敗に終わる。

 その後マルクとミシェールは、自分たちの所持品で価値のありそうなものをすべて質入れしていまう。しかしそれでも目標額には足りない。思い余ったマルクはミシェールに協力させて路上に駐車してあったポルシェを盗み出すが、後部座席に所有者の飼い犬が乗っていることに気づき、結局返却してしまう。

 やがてマルクのボスが思いがけず戻って来て、問題は解決する。ラリーに出場するために、ボスの車を拝借すればいいのだから。しかしマルクとミシェールは、イベント開催前夜に仮眠をとるために入った会場近くのホテルで寝過ごしてしまい、ラリーに参加することができなくなる。

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c0144309_6594954.jpg 映画の冒頭、トックリのセーターから頭を出すマルクの姿があからさまな陰茎の隠喩に見える他、女性の髪を弄り回す美容師という職業(と中年の顧客女性の性的誘惑)、屋台のホットドッグ売りの存在(車の排気口にソーセージを入れる)、タイヤ用の空気入れが導き出す運動、そして何よりも主題としての車に、性的な匂いを嗅ぎ取ることはたやすい。

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 自己中心的な若者を覚醒させるのが身近な異性である点には、『バリエラ』からの主題の継承が見いだされるが、恋愛感情の萌芽に力点を置いていた『バリエラ』と違い、『出発』で描かれる男女関係では性的な色合いがより強まっているのである。もっとも、『バリエラ』の最後でヤン・ノヴィツキが取った愛する娘への求愛行動(走って来る娘が乗った路面電車を前にして、路線に身体を横たえる)を、本作のレオーも映画の中盤で繰り返す。

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 本作におけるマルク=レオーが、その静止像が動き出した途端に走り出し、以後敏捷かつ精力的、大仰かつ攻撃的に休むことなく動き続ける(エレベーターを待つ間でさえせわしなく階段を行ったり来たりし、門の開閉を待ちきれずにそれを飛び越える)のも、二つの静止像に挟まれた動く画としての「映画」を意識しての所作に思えてくる。同時にそれは、主題歌が唱える歌詞(『心ならずも/私たちの周囲は/いつも虚ろ』とうたわれる)に応じる形で、「虚ろ=無為」を狂騒で埋め合わせる行為にも見える

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c0144309_71149.jpg
 映画は形式的に、自ら作り上げた円環を閉じるようにして終わる。前述した通り、マルクが着ている途中のセーターから頭を出す瞬間の静止像が動き出し、次いで彼がポルシェめがけて走り出すことで始まる本作は、以下のような形で文字通り自らに終止符を打つからである。
 ラリー開催当日、窓外を何台もの車が走り抜けて行く騒音で目覚めたミシェールは、マルクがまだホテルの部屋に留まっているのに気づいて驚く。しかしマルクの態度は、それまでとは打って変わって落ち着いたものになっている。ここで彼が執着の対象であった車を諦め、ミシェールの方を選んだのだということがはっきりする。いつまでもベッドに横たわっているミシェールを起こそうとシーツを剥がしたマルクは、そこに全裸になって自分を待つ彼女の姿を認め、驚いていったん目をそむけた後で、もう一度ゆっくりと彼女の方に向き直る。その瞬間、マルクの顔が静止する。マルクの像が静止した直後、その静止像が炎と共に歪み、グロテスクに爛れ、焼け落ちて映画は終わる。

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 この最後の場面の少し前、ミシェールがマルクに、幼少時からごく最近までの自らの成長を記録したスライド写真を年代順に見せるくだりがある。ミシェールが途中で眠り込んでしまうために、成熟した娘の段階に至った彼女をとらえた写真がスライド機材の熱で焼け爛れてしまうのだが、このくだりは本作の最後の瞬間を予告しそれと対をなすことで、おそらく焼けた写真の段階でミシェールはマルクがこれから迎えようとする瞬間を経験済みなのだろうと想像させる。


(遠山純生編 『紀伊國屋映画叢書・1 イエジー・スコリモフスキ 』 P79 紀伊國屋書店)
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by JustAchild | 2010-09-06 02:25 | Wards

早春 Deep End

 学校を卒業したばかりの少年マイク(ジョン・モルダー=ブラウン)は、労働者階級一家の出身。彼はロンドンにある公衆浴場兼水泳プール場の接客係の職に就く。職場で彼は、自分よりもわずかに年上の先輩職員スーザン(ジェイン・アッシャー)に心惹かれる。まだ15歳になったばかりで童貞のマイクと違い、既に23歳のスーザンは男性経験豊富な娘だった。彼女には婚約者がいたが、一方で自分の元体育教師とも関係を保っている。体育教師はマイクのもと先生でもあり、彼とスーザンが働いている水泳プールにやって来て女子学生たちに水泳を指導していた。

 やがてマイクと親しくなったスーザンは、女性客の性的欲求を充たしてやれば小遣い稼ぎができると彼に助言する。しかしマイクの方は、スーザンと友人以上の関係になることだけを望んでおり、彼女の後をつけ回すようになる。そして、婚約者に連れられて成人映画館やナイトクラブを訪れるスーザンを追い、夜の街を徘徊する。

 ある日職場で、体育教師と浴室の1つにしけ込んだスーザンの姿を目にして嫉妬に駆られたマイクは、防火装置の非常ベルを叩き割って一騒動起こす。また彼は、ソーホーの売春宿の前で偶然見つけた、高級売春婦の等身大切り抜きヌード写真で作られた立看板を盗み出す。その売春婦はスーザンに酷似していた。立看板を抱えて地下鉄に乗ったマイクは、同じ車両に乗り合わせたスーザンに詰め寄り、写真のモデルは君かと問い質す。スーザンがそうだと答えるとマイクは怒り狂い、2人は他の乗客たちの注目の的となる、同じ夜、職場の水泳プールを1人訪れたマイクは、全裸になってプールに飛び込み、水中で立看板に抱きつく。

 雪の降るある日のこと、スーザンは愛人の体育教師に付き添い、彼が生徒たちによるマラソン競技に立ち会う様子を遠方から眺めていた。生徒たちが走り出した途端にマイクが姿を現わし、教師の制止を振り切って彼らに混じって走り出す。競技が終わると、マイクは体育教師の車のタイヤをパンクさせ、彼とスーザンが2人で立ち去るのを阻止しようとする。スーザンが車を走らせようとするとタイヤがパンクし、彼女はマイクの目論見に気づく。怒ってマイクをひっぱたいた彼女は、その際婚指輪のダイアモンドを雪の中に落としてしまう。マイクの提案で、2人はダイアモンドが落ちた周囲の雪をかき集め、干上がったプールの中に持ち込んで溶かし、宝石を見つけ出そうとする。試みは成功し、マイクはスーザンに褒美として自分と寝ることを暗に要求する。マイクにとっての初体験は、うまくいかなかった。しかしスーザンが自分とのセックスを何ら特別視しておらず、何食わぬ顔で立ち去ろうとしていることに気づいたマイクは、引き留めようとして彼女の頭にランプをぶつけ、殺害してしまう。

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c0144309_6413375.jpg 原題は「(プールの)深い方」の意だが、ここにはおそらく「自制を失う=われを忘れる」の意が暗に重ねられている。英国=旧西ドイツ合作映画で、撮影地は英国のロンドンと旧西ドイツのバイエルン州ミュンヘン。出演者は、ジョン・モルダー=ブラウン(マイク役)、ポップ・デュオ「ピーター&ゴードン」のピーター・アッシャーの妹で、5歳の頃から女優業を開始し、1960年代には「ザ・ビートルズ」のポール・マッカートニーの恋人としても知られたジェイン・アッシャー(スーザン役)、40年代後半からキャリアを開始した英国のセックス・シンボル女優ダイアナ・ドース(マイクを誘惑する公衆浴場のの客役)わ主要キャスト数人が英国人である以外は、ほぼすべてドイツ人およびオーストラリア人が占めている。

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c0144309_6394826.jpg スコリモフスキは70年1月に本作を着想した。そもそもの出発点には、「雪の中にあるダイアモンドをどうやって探し出すか」という奇妙なアイディアがあったという。雪を溶かせば良いのだと思いついたとき、スコリモフスキはその思いつきから映画のストーリーを作り上げることができると考えた。

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 冒頭、したたり落ちた一滴の血が自転車のフレームを伝って流れる。このときカメラは、舐めまわすようにしてゆっくりと自転車の車体を撮る。前年公開の米映画『イージー・ライダー』(デニス・ホッパー、69)の冒頭で、カメラがオートバイの車体を同じく愛撫し舐めるように撮った冒頭場面を(あるいは同場面の参照元となったと思われるケネス・アンガーの『スコーピオン・ライジング』(64)の一場面を)彷彿とさせる描写だが、性的なほのめかしを帯びたカメラのエロティックな動きは、それによってとらえられた流れ落ちる血の滴と自転車の赤いフレームの組み合わせが血管を連想させることで、生理的な痛々しさをも観る者に喚起する。

 動き続けるカメラは、やがて銀色のベルにぼんやり反映した少年(マイク)の顔と、その手前に掲げられる出血した指をとらえる。既にこの冒頭の場面でマイクが最後に引き起こす流血沙汰が予告されているように、本作では劇の構造と画面を彩る細部とが、、スコリモフスキ作品中最も緊密に結び合いながら、すべてがクライマックスに向かって有機的に組織されてゆく。

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c0144309_63913100.jpg 冒頭と最後を埋めていくのは、まずはスコリモフスキ特有の電球をめぐる符牒――元ガールフレンドのキャシーとの別れ際に、マイクが走りながらひとつひとつ叩いて揺らしてゆく廊下の天井に吊るされたランプの数々、地下鉄の中で激昂したマイクが立看板で叩き割る蛍光灯――である。加えて、『バリエラ』でヒロインが復活祭を催しの準備を手伝う場面から顕著になった、流れ落ちる液体の視覚的主題が、液体および色彩としての赤ペンキの存在を通じて繰り返される。映画の半ばで、嫉妬に駆られたマイクは非常火災警報装置を手で叩き割り、再び指から血を流すだろう。

 さらに、『不戦勝』以来幾度となく繰り返された、動き始める静止像の主題が姿を現わす。ここでは立看板の裸の女の等身大切り抜き写真が水を張ったプールに落とされ、続いて水中に飛び込んだマイクがそれを抱きしめた瞬間に、平面像であったはずの女の髪が水中で揺らめき始める。この等身大写真は、『バリエラ』以来のポスターや看板に描かれ印刷された人物像に連なるものでもあるだろう。
 映画は最後に至って、上記すべての要素を内に含みつつ、冒頭近くでマイク目にした電球と薬缶の関係を反復する。ここでは、雪の中に落ちて所在のわからなくなったダイアモンドを探し出すため、マイクとスーザンは雪の塊を干上がったプールに持ち込んで、プールの天井に設えられた巨大なランプを頭の真上に降ろし、そこから電源を取ることで電気薬缶の中に入れた雪を溶かしつつ、それをスーザンのストッキングで濾してダイアモンドを見つけ出そうとする。同じ結晶構造を備えていながら片や最も脆く、片や最も堅固な物体である雪とダイアモンドの対比から、クライマックスがその始まりを告げることにまず留意したい。

c0144309_6421952.jpg 雪を溶かしてダイアモンドを見つけ出したマイクは、干上がったプールの底に横たわってそれを舌の上に乗せることでスーザンを無言のうちに脅迫しつつ、彼女の肉体を要求する。マイクの策略に苛立ったスーザンが彼のまとっている白いスーツを引き剥がすと、マイクが全裸になっていることがわかる。ここで観客は、マイクとスーザンの振る舞いが『出発』の最後における男女の役割を裏返したものであることに気づくだろう。しかしスーザンは『出発』のマルクと違って、相手が知らぬ間に全裸になっていようが動揺することもない。したがって、マイクは思いを遂げる(しかし行為はどうやら失敗に終わる)が、この程度のことでスーザンがマイクをいつまでも構っているはずはないのである。

 2人の最後を準備するのは、彼らを照らすランプの強烈な光、雪から液体を経て気体へと至る事物の変容、ダイアモンドも薬缶も衣服もすべて飲み込んで突然プール内部を暴力的に満たし始める大量の水である。マイクが立ち去ろうとするスーザンを引き留めようとして、彼女の後頭部に向けて押し出すランプが、すべてのきっかけとなる。揺らめき続けるランプの光。揺れた反動でランプがプールの片隅に置かれたペンキ缶にぶつかったせいで、壁に飛散し垂れ落ちる血のような赤ペンキの滴。スーザンの後頭部から滲み出す血。これらすべてがプール内部に留まり続ける水と溶け合う。このときマイクは水中で、もはや等身大写真のように動かなくなった、しかし平面像ではない女=スーザンを抱きしめる。


(遠山純生編 『紀伊國屋映画叢書・1 イエジー・スコリモフスキ 』 P140 紀伊國屋書店)
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by JustAchild | 2010-09-06 01:38 | Wards

ネストール・アルメンドロス  自分はデイヴィッド・ホックニーに興味をひかれるようになっていった

――『クレイマー、クレイマー』についてですが、美学上あるいは撮影上のあなたのアプローチをお聞かせください。

アルメンドロス これは現代を描いた映画ですよね。舞台はアッパー・イーストサイドのアパート。中流の上の階級です。ニューヨークを眺望する高層ビル内のシーンもあるし、レストランや裁判所にもロケーションしている。どこにでもあるものを扱っているわけで、きわめてありきたりなわけです。そういった意味では、『家庭』とか『愛の昼下がり』に外見上は近い。どちらも私の手がけた現代ものです。『恋愛日記』にも少し似ていますかね。
 普通、現代の題材で映画を作る時は、視覚的な側面にはあまりこだわらずにやるべきだと考えられている。ですから、たいてい他の映画よりも雑に、てっとり早く作られてしまう。セット・デザイナーも衣装係もいなくて、そこにあるものをただ撮るだけという具合にね。しかし、この映画では幸いなことに時間的な余裕があったし、リサーチも行えた。ロバート・ベントンはピエロ・デラ・フランチェスカを念頭に置こうと言った。驚かされましたよ。現代ものを撮ろうとしている時にですからね。ともかく、デラ・フランチェスカが、この映画を作るにあたって私たちが研究した画家でした。たくさんのフレスコや画集に目を通しました。
 撮影が進むにつれて、映画の中の被写体がピエロ・デラ・フランチェスカとは何のかかわりもないと思えてきた。デラ・フランチェスカの色彩を壁とか衣服とかに用いようとしていたのですが……。ところが、徐々に、製作の途中から、自分はデイヴィッド・ホックニーに興味をひかれるようになっていった。そしたらつい先日、デイヴィッド・ホックニーがピエロ・デラ・フランチェスカの後継者を自任していたということを知りました。うれしかったですね。結局、全然的外れということはなかったわけです。最近デイヴィッド・ホックニーを調べています。椅子とかサボテンの鉢とかランプのかさとか窓とかいった現代の事物を使っている。『クレイマー、クレイマー』に出てくるものに似ているのばかりです。今では自分のインスピレーションの源泉なんです。


(デニス・シェファー、ラリー・サルヴァート 『マスターズ・オブ・ライト アメリカン・シネマの撮影監督たち』  訳:高間賢治 他 フィルムアート社 P39)
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by JustAChild | 2010-09-02 02:47 | Wards

リポト国際ジャズ祭

 ポーランドでジャズを初めて演奏する楽団が誕生したのは23年と記録されている。他のヨーロッパ諸国と同様、30年代前半にはちょっとしたジャズ・ブームが到来し、レストラン、ダンスホール、ナイトクラブ、劇場などでジャズ演奏が定番となったし、人気のあったジャズ・ミュージシャンたちは映画界でも活躍したが、39年に第二次世界大戦が開戦するとジャズの環境はすべて失われてしまった。大戦後ポーランドはスターリンが指導するソ連の社会主義体制に組み込まれていって、49年に共産党が政権を掌握してからは資本主義を批判するイデオロギーのもとジャズは禁止された。それはポーランドに限ったことではなく、中・東欧の旧社会主義諸国にもほぼ共通している。それでも演奏したい者、聴きたい者はアンダーグラウンドで秘密裏に楽しんだ。ポーランド・ジャズ史ではカタコンベ時代と称される時代である。53年、スターリン死去した後、ジャズに対する風当たりは少しずつ弱まっていったようで、ポーランドでは翌54年に政府公認でジャズ祭が開催されている。そしてソ連でスターリン批判がなされたという情報が世界に広がった56年、リポト国際ジャズ祭開催という経緯があった。


(遠山純生編 『イエジー・スコリモフスキ 紀伊國屋映画叢書・1 』 P117 岡島豊樹 紀伊國屋書店)
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by JustAChild | 2010-08-29 15:09 | Wards

グロリア・グレアムの3つ

● ところで、これはどんな映画ファンもほとんど同じ想いだったにちがいないのだが、1940―1950年代のモノクロ女優のなかで、だれの裸をいちばん見たかったといえば、それはイングリッド・バーグマンでもなく、ローレン・バコールでもなく、ラナ・ターナーでもなく、バーバラ・スタンウィックでもない――それはグロリア・グレアムだった。ニコラス・レイ監督の『孤独な場所で』(1950)は1950年代にはまだ日本では公開されていなかったが、『悪人と美女』(ヴィンセント・ミネリ監督、1952)や『摩天楼の影』(マックスウェル・シェイン監督、1952)や『復讐は俺に任せろ(ビッグ・ヒート 復讐は俺にまかせろ)』(フリッツ・ラング監督、1953)のグロリア・グレアム。
P62<女の犯罪、女の活劇――フィルム・ノワール断章>

● こんなときに、40年代の「フィルム・ノワール」の女たちは、いささかも淫らな態度を見せない。下着姿でも着乱れた感じはまったくない。男を誘惑することは、男に媚びることではなく、男を脅迫すること、あるいはむしろ精神的にも肉体的にも完全に支配することなのだ。おそらく唯一の例外がグロリア・グレアムだった。彼女はあたかも50年代の遅れてきたファム・ファタールといった感じだった。ニコラス・レイ監督の『孤独な場所で』(1950)やフリッツ・ラング監督の『復讐は俺に任せろ』(1953、新題名『ビッグ・ヒート 復讐は俺にまかせろ』)では、あの着乱れた黒のスリップ姿の眠たげな風情は心やさしさの表現だった。
P162<拳銃に魅せられた女、ペギー・カミンズ>

● 女をいためつけるというスクリーンのサディズムのひとつのパターンがあるけれども、1950年代までの映画史でのその最も残酷な例のひとつは、おそらくはフリッツ・ラング監督の『復讐は俺に任せろ(ビッグ・ヒート 復讐は俺にまかせろ)』(1953)でリー・マーヴィンがグロリア・グレアムの顔に煮えたぎる熱湯(だったか、コーヒーだったか)をぶっかけるシーンであった。それとて、いわば映画的に、顔の半面を繃帯でおおったグロリア・グレアムの鼻をふくめたもう半面の横顔の美しさをきわだたせるためでもあるかのようだった。
P266<暗黒街の女、シド・チャリシー>


(山田宏一 『新編 美女と犯罪』 ワイズ出版)
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by JustAChild | 2010-08-28 06:00 | Wards

山田宏一   シルヴィア・シドニーのまごころ


 シルヴィア・シドニーは一九三〇年代のハリウッドの「最も悲しみにみちた瞳」の女優だった。
いつも、小さなかわいらしい丸顔に大きな眼をして、そのつぶらな瞳――というよりは目玉という感じなのだが、ベティ・デイヴィスの憎々しい目玉とは対照的なせつないくらいの愛くるしさだ――に涙をいっぱいたたえ、こみあげてくる悲しみにくちびるをふるわせ、かろうじて嗚咽をこらえていた。顔の半分くらいはありそうな大きな額はまるで悪意というものを知らない無垢にかがやいているかのように白くきれいで(心配事があると、顔いっぱいにその白くきれいな額をくもらせる)、小柄なからだ全体がまるで凍えるようにうちふるえ、暗い、喜びなき人生を一生懸命に生きようと傷つき、もだえているかのようだった。
 D・W・グリフィス監督のサイレント映画のヒロイン、あの、「彼女に対してかくもきびしくつめたかったこの世に最後の微笑みを送って」死んでいった『散り行く花』(一九一九)の薄幸のヒロイン、リリアン・ギッシュにも比較された。ただ、くちびるだけは、リリアン・ギッシュのおちょぼ口とは似ても似つかぬ、大きくふくよかな口唇で、それだけに、美しいまごころそのものといった彼女の小さなまるぽちゃの顔に微笑みが浮かぶと、あっという間に歓びがひろがって、こんなに思いがけなくて、こんなにうれしくて、こんなに感動的で、こんなに心をなごませてくれるものがこの世にあるんだろうかと思わせるくらいだし、愛する夫や恋人に熱いくちづけをするとき(彼女は、夫を、恋人を、いつも、まるで二度と帰ってこないと思っていたひとが帰ってきたかのような歓びにふるえながら迎え入れて抱きすくめるのである)、彼女ほど熱のこもったキスをする女性がこの世にいるだろうかとすら思わされるのだ。


(山田宏一 『新編 美女と犯罪』 ワイズ出版 P125)
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by JustAChild | 2010-08-28 04:52 | Wards

山田宏一   ジーン・ティアニーのローラ


一九四〇年代のハリウッドのフィルム・ノワールを妖しく彩ったファム・ファタール(妖婦=運命の女あるいは魔性の女)のなかでも、『ローラ殺人事件』のジーン・ティアニーは最も魅惑的な謎の美女だ。

<中略>

 「ローラが死んだあの週末をわたしは忘れない」というクリフトン・ウェッブのナレーションと回想から映画は始まる。典型的なフィルム・ノワールの話法だ。ローラの「保護者」であったジャーナリストのクリフトン・ウェッブがダナ・アンドリュースの刑事に向かって回想形式で語る話のなかにジーン・ティアニーのローラが生きた姿で出てくるのだが、ダナ・アンドリュースはもちろんまだ彼女の死体と彼女の部屋に飾られた肖像画しか見ていない。そして、すでに恋をしているのだ。「死体に恋をする」倒錯性をずばりクリフトン・ウェッブに指摘されるのも当然なのである。それから十四年後に死んだ女のイメージにとり憑かれて破滅にに向かう『めまい』(アルフレッド・ヒッチコック監督、一九五八)のジェームズ・スチュアートの前身と言ってもいいかもしれない。それからさらに三十一年後には、デヴィッド・リンチ監督がテレビ・ドラマ・シリーズ『ツイン・ピークス』で死んだ女(ローラという名は偶然だろうか?)に魅せられたように捜査をつづけるFBI捜査官(カイル・マクラクラン)を登場させることになる。
 ダナ・アンドリュースは、殺人事件の捜査にかこつけて、ローラの香水が――女の香りが――まだただようアパートに単身入りこみ、泊まりがけで、彼女の遺品を調べ、その「思い出」にふれる。
 暖炉の上の壁に掛けられたほとんど等身大のローラの肖像画に魅せられたまま、彼は深い椅子に腰をおろして眠ってしまう。テーマ音楽のメロディーが静かに流れる(シンセサイザーで処理されたような不思議な、そして悲痛な音色のテーマ音楽がメランコリックなムードを高めた記憶があるのだが、ビデオで見た版は、デヴィッド・ラクシンのスコアの美しい旋律には聴き覚えがあるものの、ごくふつうのオーケストラ演奏だった。記憶のなかで伴奏音楽の音色がふくらんでしまったのかもしれない)。
 外はどしゃ降りの雨である。それだけいっそう、部屋のなかの静けさが伝わってくる。ものすごくいいムードだ。キャメラがゆるやかに眠る男に寄っていく――まるで夢のシーンに入っていくかのように。それからまた、ワンカットのままキャメラを引くと、壁のローラの肖像画がフレームに入ってくるあたりで、ドアのあく音がする。キャメラがふりむくようにドアのほうをとらえると、レインコート姿の若い女が部屋に入って、ドアをしめるところである。女は誰かがソファに眠っているのにきづき、暖炉のわきの灯をつける。男は目をさまし、おどろいて見つめる。そこには死んだはずのローラが、夢の女が、立っているのである。
 ヒッチコックの『めまい』で、淡いグリーンの光に彩られて、死者の中から、キム・ノヴァクが、ジャームズ・ステュアートの前に、よみがえってくるシーンを想起させる、あるいはむしろ予告する、すばらしさだ。
 「生きていたのか」と男は信じられないように女に向かって言う。壁に掛けられた絵からそのまま抜け出てきたような非現実的なイメージではないにもかかわらず、彼女の「出現」は悪夢のはじまりを告げるかのようだ。ジーン・ティアニーは幽霊のように出てきたかに見えるが、そのレインコート姿はリアルでエロチックですらある。
 ローラはレインコートに取り付けた柔らかいフードのような帽子をかぶっているのだが、額をあらわにだしたデザインはジーン・ティアニーの魅力をさりげなく強調するためにちがいない。



(山田宏一 『新編 美女と犯罪』 ワイズ出版 P100)
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by JustAChild | 2010-08-15 01:51 | Wards


ここや/そこ/あちこちで/わたしたちは/徹底的に/やる


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