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伊藤俊治   モンタージュが原理的に醸し出すパルス音みたいなもの

伊藤 エイゼンシュテインは『映画における第四次元』で、サイレントからトーキーへの移行を受けて、映像と音響を統合するモンタージュ理論を提示しました。スクリャービンらの高次倍音を利用した作曲になぞらえて、さらに音響を映画における下位倍音としてとらえることで音とイメージを統合しようとした。ここで『メキシコ万歳』においては、下位倍音というのはいったい何なのかということを、ちょっと考えてみたいですね。
 これは今年の前半の授業の中でさまざまに、菊地さん、大谷さんなりで討議されたことだと思うんですけど、僕は『映画における第四次元』の実践としての『メキシコ万歳』において、エイゼンシュテインが成し遂げようとした下位倍音のありようというのは、たぶん伝承の力ということだと思うんですね。「伝承の力」といってわかりにくいかもしれませんが、「四次元的な知覚の力」というふうに言い換えてもいいかもしれません。そういう二重構造の中で、多調・無調性が、調性と交わっているという状況が、『メキシコ万歳』のモンタージュの中にかいま見える。
 例えば新生児は映像と音、さらには触覚や味覚、匂いの入り混じった無数の波にもまれ続けているといわれます。だから赤ん坊は大人と同じ匂いをかいでいるのに、匂いを鼻だけで感じるのではなく、匂いを見たり、聞いたりもしている。そうした渾然一体化した世界を生きているわけです。でもだんだん感覚の印象を分類し、体系化し、まとめあげることを覚え、大人の認知や認識の方法を獲得していく。
 しかしまれに、大人になっても視覚や聴覚や触覚が渾然とすることがあります。レースのカーテンをなでると黄色を思い浮かべたりというような。感覚というのは感覚同士が織り合わされて、厚手の生地のようになったものだから、ずるずると引きずりだされるんですね。それは太古の人間がどのように感覚を働かせていたかという記憶でもあり、それが四次元的知覚とむすびつけられている。

<中略>

 さっきちょっとお話ししたように、『映画における第四次元』でエイゼンシュテインはサイレントからトーキーへの移行を受けて、映像と音響を統合するモンタージュ理論を提出した時、音楽理論を援用して、下位倍音という、近代和声学から捨てられた理論に注目し、映像と音響の統合が非常に原始的な、無意識的な律動を生成させていくという可能性を示そうとした。
 しかし、トーキー映画はその後、俳優とか物語とか演出といった十九世紀的な演劇モデルをそのまま使用してしまう。オペラハウスがそのままハリウッドまでつながってしまう。伝承の力に行かない。この『メキシコ万歳』という映画が僕にとっておもしろいのは、さっきお話ししたように下位倍音につながるような、ある種の伝承の力というか、神話的な力へ誘おうとしているというところがあると思うんですね。
 逆に、それ以後、一般化した大衆映画としてのトーキーというのは、そういう下位倍音を抑圧してきた、というふうに考えてもいいかもしれない。あるいは、逆にサイレントとかレコードのほうが感覚を遮断させているだけに、共感覚的に無意識的な律動を潜在させたというふうにもとらえ得るかもしれないと。
 ちょっとメディア論的な補足をしておきたいんですが、まず我々が今、密度の濃い電子メディア環境にいて、これは視覚的に構造化された言語世界とは異質な世界です。こうした事態が進行したのは二十世紀後半のことでした。それがある意味では音響的な傾向を持つ環境であり、視覚的世界が確立してきた枠組みや構造を切り崩し続けている。あるいは視覚的世界と聴覚的世界の間に宙吊りになっているといってもいいかもしれません。

<中略>

菊地 動静、動くということと止まるということが、視覚メディアの中では、今おっしゃったように非常に入れ子のようなものになっている。映画の元は写真で、その元がカメラ・オブスキュラの動画であるというように、止まっている情報と動いている情報が二重、三重に入り組んでいる。そこでエイゼイシュテインは、映像が動けばそこに下方倍音が発生するとしたんですが、彼は聴覚情報は静止しない、音は止まらないんだと言っています。ある時代、音楽の世界で、音が止まってもずうっと同じ、まったく動かない音が、要するに継続音がずうっと鳴り続けるものや、やたらと寸断が入って、ズバッ、ズバッという、スクラッチみたいな、音が止まって空白になって、また始まるショックみたいなものが、とてもショッキングで魅力的な状況としてもてはやされたというのがありました。
 これはつまり、「音が止まる」というのはどういうことなのかという、パッと考えるとあり得ない形を探す営みだと思うんですね。やたらと止まっている音楽、たとえば当時ザッピングと言われていたジョン・ゾーン*のポストモダニズムの音楽とかは、演奏しては止まって、その静止を聞くんだと言う。それはジョン・ケージ*的な意味でもなくて、継続したものが一回止まるという、音が止まっている状況を見せるというものでした。それと、ドローンという、ずうっと同じ音が動かず鳴りつづけるもの……この二つがポストモダン・ミュージックの二大潮流なわけですが。

伊藤 音楽にとって写真な状態はないんですよね。だから、写真は無音なんだと思うんだけど。

菊地 そうですよね。

伊藤 そして写真は、そういう人間の知覚、感覚上に唯一生じた裂け目なんですよね。だって、解釈できないんですよ、写真って。静止しているんだから。

菊地 そうですね。

伊藤 だから、ほんとにそういう意味で、写真は十九世紀に裂け目として出現して、そのあと、映画によって塗り込められたのかもしれない。

大谷 エイゼイシュテインはモンタージュという形で、静止画と静止画の間をつなげようとした……意味でつなぐというか。一枚一枚の絵を文脈というか物語のほうに回収してしまうわけですね。そうしたことから始まっているエイゼイシュテインが、『メキシコ万歳』で、そのモンタージュというやり方をまた違った方向に持っていったとすれば、それはどういった感じだったんでしょうか。

伊藤 さっき伝承の力なんてことを言いましたが、サイレントからトーキーに絡んでいうと、まずサイレントの時代の人々は映画の独自性を強く感じていたが、誰もそれを発見出来なかった。サイレントが提示したモンタージュの可能性はトーキーとシナリオに回収され、消えてしまった。人類が共有しえた唯一の言葉だったかもしれない、各々が母国語で参加できる唯一の共通言語だったかもしれないサイレント映画が消えてしまった。
 ゴダールが復活を遂げた『勝手に逃げろ』という1979年の映画があります。その映画をつくったときにゴダールは、サイレント映画について「モンタージュというのは心臓の鼓動だ。ショットとショットの間に関係を打ちたてて、それによって人々に見えないものを見せる何かだ」って言っていて、それが非常に印象に残っています。僕に言わせると、そこには伝承の力が脈づいていて、ものすごく高いエネルギーでリズムを刻んでいる。それは目に見ることはできないんですけど、サイレント時代の人たちが映画の独自性といったものに何を感じたのかというと、モンタージュが原理的に醸し出すパルス音みたいなものだったのではないでしょうか。サイレントは我々が使っている言語の初源へ連れ戻してくれる……。

大谷 パルスが剥き出しに見えるみたいな。それまでぜんぜん見えなかったものが、モンタージュということになると、あ、ここにはパルスがあったんだということがわかるということでしょうか。

伊藤 そうですね。だから、『勝手に逃げろ』で、ゴダールはスローモーションを多用しています。スローモーションというのもよくわからないんですけどね(笑)。スローモーションって何なんだろう。人間の深い記憶に絡んでいる。ある種の感覚とシンクロしているんだと思うんですけど。



( 「第四回 二〇〇八年十二月三日 伊藤俊治」 『アフロ・ディズニー2 MJ没後の世界』 菊地成孔 大谷能生 P141-160 文藝春秋)
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by JustAChild | 2011-07-10 03:50 | Wards


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