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ここや/そこ/あちこちで/わたしたちは/徹底的に

鴻鴻   ぼくの妹は都市

ぼくの妹は都市

彼女の手は勤勉に動く、でも頭は

まったく落度だらけ

彼女はコンビニのように熱心にサービスする

現金引出機のように性善説を選択する

郵便ポストのように口を開き、すべての欲望を飲み込みもする



彼女は自分に対してかくも不満で

いつも徹底的に改善したいと思っている

でも工事は時にこちらを立てればあちらが立たず

まるで違った顔を貼りあわせたみたい

夜になると彼女はとりわけ美しい

その時刻になると彼女はひどく悲しむから


妹は都市のように神秘

永遠に路地で見失われたいくつかの番地

故障したいくつかの信号

警官が、制服を着て窃盗をはたらき

鉄のパイプは酸性雨の中で錆び

記念碑が広場を占拠する


妹よ、きみの歴史を忘れなさい

今日から、ぼくはこの都市を好きになる

彼女の混乱する道路標識、融通のきかない路地を好きになり

彼女のわずかに残っただけの緑地と池を好きになり

清掃する人のない犬の糞を好きになって

ぼくたちは抱き合って眠る、そばで清掃車が勝手に歌っている


                                               二〇〇九 (三木直大訳)

( 鴻鴻 『ぼくの妹は都市』「現代詩手帖」2011年3月号 P72)
# by JustAChild | 2011-03-07 12:49 | Wards

林道郎   演劇的振る舞いを裏切るような細部を抽出する方法

 北島さんたちが意識的だったかどうかはわかりませんが、スーザン・ソンタグの「〈キャンプ〉についてのノート」(『反解釈』[高橋康也ほか訳、ちくま学芸文庫、1996年] 所収)という論文が1964年に書かれています。「キャンプ」というのはまさに「狂った資本主義」の問題であり、それは同時に、北島さんの「ニューヨーク」につながるのだと思います。暴走する資本主義的状況のなかで、表層的な振る舞いが人間のアイデンティティ形成にとってとても重要になっていく。つまり人間のアイデンティティが演劇的に構成されざるをえないような世界をわれわれは生きるようになった、ということですね。

<中略>

 もっとも60~70年代には、アウトサイダーたちもある意味でコード化されていたんですね。アウトサイダーになることが「自由への振る舞い」という、それ自体、社会に認知されたコードの世界で生きることになったからです。しかし、80年代はそうではない。一人ひとりが自分の世界をアグレッシブに演劇的に構築していかなきゃいけないという異常な状況になったのが80年代で、ことにニューヨークはそれが突出して出てきた。演劇化の病理がコンテクストからむき出しの「アイデンティティ」問題に直結し、臨界点に達する、とでも言うべきなのか、マドンナやプリンスが突発的な症例として出現するような社会、そういう状況に対して、北島さんのスナップショットはビビッドに反応しているのだろうなと思います。

北島 いまのお話はおそらくウィリアム・クラインの問題とちょっと絡んでくる気がするんですよ。ゴッフマンの本が1959年ということですがクラインの『ニューヨーク』はまさに50年代後半(1956年出版)。街中には広告の看板があふれかえり、人々は雑誌でファッションを研究したりして立ち振る舞っている。つまり、パフォーマンスせざるをえないことが常態化した、その爆発的な始まりをクラインは的確に捕らえていると思うんです。前からクラインの『ニューヨーク』はそういうふうに見るべきだって言っているんですけど、誰も聞いてくれない(笑)。それが結局、これまた滅茶苦茶なことを言うんですけど、シンディ・シャーマンに行き着くわけですよ。

 たしかにクラインは演劇的状況にビビッドに反応した写真家ですよね。いまの「クラインからシャーマンへ」という問題ですが、演劇性とアイデンティティの構築の絡まり合いに対して、写真がどう振る舞うかということについては、乱暴に言うと、ふたつの経路があるような気がします。ひとつは、ウォールやシャーマンのように、演劇性そのものを自己批判的に写真のなかに取り上げること。つまり、リアリティのある写真に見えるんだけれども、それ自体、演劇的に作りこまれている。見る側も「これはつくられたものだな」と分かりながら、「やっぱりこのリアリティはすごい」というような宙吊り感のなかで、演劇性そのものに自覚的にならざるをえない。そういった演劇による自己反省、自己批判みたいなやり方がある。もう一方には、バルトの「プンクトゥム」じゃないけれども、とりわけポートレートに起こることとして、人間の身体が演劇的に振る舞おうとしたときに必ず、意図していないものが見られてしまう。コードに則ってパフォーマンスするんだけれども、どうしたってコード化されない余剰みたいなものが肉体として露出する。その瞬間に焦点化する方向。
 このことに関して、ダイアン・アーバスは「自分はモデルの意図と効果の差異を撮りたいんだ」と言っています。フリードの大著でも繰り返し引用される言葉ですが、、こうした方向性について、フリードはもうひとり、リネケ・ダイクストラのポートレートを取り上げています。ダイクストラがなぜ思春期の少年少女ばかりを対象にするかというと、社会のなかでどう振る舞えばよいかを完全に身体化できていなくて、未整形だからだ、と。その「未整形さ」みたいなものが、写真の前に立ってポーズをとったときに、どうしてもある宙吊り感として出てきてしまう。そのおさまりの悪い細部を的確に捕らえられるのが写真だ、と言うわけです。そしてそのような、ポーズをとるという演劇的振る舞いを裏切るような細部を抽出する方法をフリードは「反演劇性」と見なすわけです。その是非は別として、北島さんのポートレートにも、一貫してそういう関心があるような気がします。「ニューヨーク」のスナップは、これみよがしに「こういうふうに私は生きているんだ」と演劇的に振る舞っている人たちを撮っているんだけれども、それが無残に、ある肉のリアリティのようなものに曝されてしまっていて、実は「演劇性の廃墟」みたいなものが捉えられていると言ってもいい。

倉石 ダイクストラの写真については、私もフリードと同様に一種の可能態として捉えたこともあります。ただ、一歩間違うとサリー・マンとどう違うんだ、というところがありますよね。思春期の少年少女はやっぱり好奇心の対象になるわけです。そこは彼女もわきまえていて、いろんな人種の人をさまざまな海岸に置いて撮る。一定の条件のもとで、モデルのアイデンティティが固定されず、ばらけるようにしている。しかし、そうしたことを詰めて、ポリティカル・コレクトネスを意識したアリバイ工作をすればするほど、人工的なものになっていくということはあると思います。



( 「倉石信乃+林道郎+北島敬三+前田恭二 写真のシアトカリティ――「北島敬三 1975-1991」展関連トーク」 『photographers' gallery press no. 9』 photographers' gallery P73-74)
# by JustAChild | 2011-02-13 15:57 | Wards

高峰秀子

 「浮雲」「二十四の瞳」など数々の名作映画に主演した俳優の高峰秀子(たかみね・ひでこ、本名・松山秀子)さんが28日、肺がんのため東京都内の病院で死去した。86歳だった。葬儀は近親者だけで行った。喪主は夫の映画監督松山善三さん(asahi.com)
# by JustAChild | 2011-01-01 22:32

田中純   近代都市は絶え間なく、写真へと変容することを欲望しつづけてきたのだ

 ウジェーヌ・アジェのパリからウィリアム・クラインのニューヨーク、荒木経惟の東京まで、あるいは無名の観光写真、絵はがき写真にいたるまで、都市は写真というメディアの特権的な主題でありつづけている。いや、むしろこう言うべきだろうか。近代の都市は絶え間なく、写真へと変容することを欲望しつづけてきたのだ、と。飯沢耕太郎が編著『東京写真』において、「写真の中には、映像として定着された東京の物理的な姿だけではなく、他の表現手段ではどうしても実体化できない部分――東京の無意識とでもいえるようなものが写りこんでいるはずだ」と述べているのは、恐らく正しい。伊藤俊治が的確に言い切ったように「写真は都市の視覚的無意識を浮上させる」。まさしく都市は写真という分身のうちに二重化されるとともに分裂し、写真のなかにおいてはじめて、その欲望のかたちを可視化するのではないだろうか。
 イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオーは、20世紀における写真を通じたメトロポリスの表象をめぐって、三つの異なる記号システムあるいは写真的感性の変遷を認めた。その三者とは、モダニズム建築の都市計画がプロパガンダを展開した1920-1930年代における都市表象としてのフォトモンタージュ、1955年の展覧会「ファミリー・オブ・マン」やマグナムの一連の写真に代表される50年代から60年代にかけての、無名の個人のイメージから生まれる都市物語への感受性、そして70年代以降の「テラン・ヴァーグ(terrain vague)」へのまなざしである。ソラ=モラレスが注目するこのテラン・ヴァーグとは、何らかの出来事が起こったのちの放棄された空虚な場所を意味するが、そこにはフランス語のvagueが語源とするゲルマン語やラテン語との関係から、波、空虚、開放、曖昧といったいくつかのニュアンスが重層している。ジョン・デイヴィス、デヴィッド・プローデン、ヤネス・リンデルといった写真家たちの作品に見出されるこのテラン・ヴァーグは、都市の日常的利用にとっては外在的でありながら、都市そのものには内在的な何ものかである、とソラ=モラレスは言う。

忘れさられたかのようなこのような場所においては、過去の記憶が現在よりも優勢であるように見える。都市の活動から完全に離反してしまっているにもかかわらず、ここにはほんのわずかに残された価値ばかりが生き残っている。こうした奇妙な場所は都市の効率的な回路や生産構造の外部に存在する。経済的観点からすれば、この工業地帯、鉄道駅、港、危険な住宅地区、そして汚染された場所はもはや都市ではないのだ。

 生産・消費活動やそのための管理を欠いた、都市内部の「島」であるテラン・ヴァーグは、都市システムに対して異質な、「都市の物理的内部における、精神的に外部的な、都市の否定的=陰画的イメージ」である。ジュリア・クリステヴァやオド・マルクヴァルトに依拠しながらソラ=モラレスはそこに「他者性」や「未知性」、あるいはフロイト的な「無気味なもの」といったテーマとの関連を指摘している。自己の内部の最奥の他者、未知なるものとしての無気味なこのテラン・ヴァーグとはまさに都市の無意識であり、われわれの言葉で言い換えれば「非都市」にほかならない。
 しかしながら、ソラ=モラレスはこの都市の無意識の発見という地点から、現実の都市の内部に実在するテラン・ヴァーグがもつ可能性と、その保存について語ることへと無造作に移行してしまう。あたかもそこでは写真というメディアがそれ自体としては厚みをもたずに透明で、現実の忠実な再現表象を提供しているかのように。だが、事実としての空き地とは所詮たかだか効率的に利用可能な空隙であって、テラン・ヴァーグという都市の無意識ではありえないだろう。テラン・ヴァーグの無気味さの根源は都市と都市写真との間のずれ、この両者の間にあってまなざしを屈折させる歪んだ空間の物質性にこそ求められなければならない。
 またこのテラン・ヴァーグを殊更に新しい写真的発見とするにはおよばない。どこにも人影のない街路を撮影したアジェの写真がすでに、パリという都市全体をテラン・ヴァーグと化していたのではなかったか。「どこも寂しい場所というのではない。気分というものが欠如しているのである。都市はこれらの写真の上では、まだ新しい借り手が見つからない住居のように、きれいにからっぽである」(ヴァルター・ベンヤミン)。この人影のなさこそ、アジェが「街路を犯行現場のように撮影した」と言われる所以であったのだ、とベンヤミンは書く。そして、都市のどんな一角もつねに「犯行現場」なのであり、都市のなかの通行人はみな「犯人」なのだ、と。


( 田中純 『都市表象分析Ⅰ』 INAX出版 P36)
# by JustAChild | 2010-12-27 23:28 | Wards

ニコライ・レミソフ Nicolai Remisoff

『オーシャンと十一人の仲間』 Ocean's Eleven (1960)
『勝利なき戦い』 Pork Chop Hill (1959)
『赤い河の逆襲』 Pawnee (1957)
『片目のシェリフ』 Black Patch (1957)
『荒野の追跡』 Trooper Hook (1957)
『激突のガンマン』 Johnny Concho (1956)
『アパッチ』 Apache (1954)
『月蒼くして』 The Moon Is Blue (1953)
『大いなる夜』 The Big Night (1951)
『赤い子馬』 The Red Pony (1949)
『誘拐魔』 Lured (1947)
『奇妙な女』 The Strange Woman (1946)
『美しき未亡人』 Young Widow (1946)
『女の戦い』 Paris Underground (1945)
『かわいい女』 My Life with Caroline (1941)
『嘆きの白薔薇』 The Men in Her Life (1941)
Broadway Limited (1941)
『彼女はゴースト』 Topper Returns (1941)
『海洋児』 Captain Caution (1940)
Turnabout (1940)
『廿日鼠と人間』 Of Mice and Men (1939)


この映画では、素晴らしいアート・ディレクターも使えましたよ。ロシア人のレミソフです。彼は熟練の技を披露してくれた。―― ダグラス・サーク

# by JustAChild | 2010-12-27 08:43 | N

鴻鴻   ぼくの妹は都市

ぼくの妹は都市

彼女の手は勤勉に動く、でも頭は

まったく落度だらけ

彼女はコンビニのように熱心にサービスする

現金引出機のように性善説を選択する

郵便ポストのように口を開き、すべての欲望を飲み込みもする



彼女は自分に対してかくも不満で

いつも徹底的に改善したいと思っている

でも工事は時にこちらを立てればあちらが立たず

まるで違った顔を貼りあわせたみたい

夜になると彼女はとりわけ美しい

その時刻になると彼女はひどく悲しむから


妹は都市のように神秘

永遠に路地で見失われたいくつかの番地

故障したいくつかの信号

警官が、制服を着て窃盗をはたらき

鉄のパイプは酸性雨の中で錆び

記念碑が広場を占拠する


妹よ、きみの歴史を忘れなさい

今日から、ぼくはこの都市を好きになる

彼女の混乱する道路標識、融通のきかない路地を好きになり

彼女のわずかに残っただけの緑地と池を好きになり

清掃する人のない犬の糞を好きになって

ぼくたちは抱き合って眠る、そばで清掃車が勝手に歌っている


                                               二〇〇九 (三木直大訳)

( 鴻鴻 『ぼくの妹は都市』「現代詩手帖」2011年3月号 P72)
# by JustAChild | 2011-03-07 12:49 | Wards

林道郎   演劇的振る舞いを裏切るような細部を抽出する方法

 北島さんたちが意識的だったかどうかはわかりませんが、スーザン・ソンタグの「〈キャンプ〉についてのノート」(『反解釈』[高橋康也ほか訳、ちくま学芸文庫、1996年] 所収)という論文が1964年に書かれています。「キャンプ」というのはまさに「狂った資本主義」の問題であり、それは同時に、北島さんの「ニューヨーク」につながるのだと思います。暴走する資本主義的状況のなかで、表層的な振る舞いが人間のアイデンティティ形成にとってとても重要になっていく。つまり人間のアイデンティティが演劇的に構成されざるをえないような世界をわれわれは生きるようになった、ということですね。

<中略>

 もっとも60~70年代には、アウトサイダーたちもある意味でコード化されていたんですね。アウトサイダーになることが「自由への振る舞い」という、それ自体、社会に認知されたコードの世界で生きることになったからです。しかし、80年代はそうではない。一人ひとりが自分の世界をアグレッシブに演劇的に構築していかなきゃいけないという異常な状況になったのが80年代で、ことにニューヨークはそれが突出して出てきた。演劇化の病理がコンテクストからむき出しの「アイデンティティ」問題に直結し、臨界点に達する、とでも言うべきなのか、マドンナやプリンスが突発的な症例として出現するような社会、そういう状況に対して、北島さんのスナップショットはビビッドに反応しているのだろうなと思います。

北島 いまのお話はおそらくウィリアム・クラインの問題とちょっと絡んでくる気がするんですよ。ゴッフマンの本が1959年ということですがクラインの『ニューヨーク』はまさに50年代後半(1956年出版)。街中には広告の看板があふれかえり、人々は雑誌でファッションを研究したりして立ち振る舞っている。つまり、パフォーマンスせざるをえないことが常態化した、その爆発的な始まりをクラインは的確に捕らえていると思うんです。前からクラインの『ニューヨーク』はそういうふうに見るべきだって言っているんですけど、誰も聞いてくれない(笑)。それが結局、これまた滅茶苦茶なことを言うんですけど、シンディ・シャーマンに行き着くわけですよ。

 たしかにクラインは演劇的状況にビビッドに反応した写真家ですよね。いまの「クラインからシャーマンへ」という問題ですが、演劇性とアイデンティティの構築の絡まり合いに対して、写真がどう振る舞うかということについては、乱暴に言うと、ふたつの経路があるような気がします。ひとつは、ウォールやシャーマンのように、演劇性そのものを自己批判的に写真のなかに取り上げること。つまり、リアリティのある写真に見えるんだけれども、それ自体、演劇的に作りこまれている。見る側も「これはつくられたものだな」と分かりながら、「やっぱりこのリアリティはすごい」というような宙吊り感のなかで、演劇性そのものに自覚的にならざるをえない。そういった演劇による自己反省、自己批判みたいなやり方がある。もう一方には、バルトの「プンクトゥム」じゃないけれども、とりわけポートレートに起こることとして、人間の身体が演劇的に振る舞おうとしたときに必ず、意図していないものが見られてしまう。コードに則ってパフォーマンスするんだけれども、どうしたってコード化されない余剰みたいなものが肉体として露出する。その瞬間に焦点化する方向。
 このことに関して、ダイアン・アーバスは「自分はモデルの意図と効果の差異を撮りたいんだ」と言っています。フリードの大著でも繰り返し引用される言葉ですが、、こうした方向性について、フリードはもうひとり、リネケ・ダイクストラのポートレートを取り上げています。ダイクストラがなぜ思春期の少年少女ばかりを対象にするかというと、社会のなかでどう振る舞えばよいかを完全に身体化できていなくて、未整形だからだ、と。その「未整形さ」みたいなものが、写真の前に立ってポーズをとったときに、どうしてもある宙吊り感として出てきてしまう。そのおさまりの悪い細部を的確に捕らえられるのが写真だ、と言うわけです。そしてそのような、ポーズをとるという演劇的振る舞いを裏切るような細部を抽出する方法をフリードは「反演劇性」と見なすわけです。その是非は別として、北島さんのポートレートにも、一貫してそういう関心があるような気がします。「ニューヨーク」のスナップは、これみよがしに「こういうふうに私は生きているんだ」と演劇的に振る舞っている人たちを撮っているんだけれども、それが無残に、ある肉のリアリティのようなものに曝されてしまっていて、実は「演劇性の廃墟」みたいなものが捉えられていると言ってもいい。

倉石 ダイクストラの写真については、私もフリードと同様に一種の可能態として捉えたこともあります。ただ、一歩間違うとサリー・マンとどう違うんだ、というところがありますよね。思春期の少年少女はやっぱり好奇心の対象になるわけです。そこは彼女もわきまえていて、いろんな人種の人をさまざまな海岸に置いて撮る。一定の条件のもとで、モデルのアイデンティティが固定されず、ばらけるようにしている。しかし、そうしたことを詰めて、ポリティカル・コレクトネスを意識したアリバイ工作をすればするほど、人工的なものになっていくということはあると思います。



( 「倉石信乃+林道郎+北島敬三+前田恭二 写真のシアトカリティ――「北島敬三 1975-1991」展関連トーク」 『photographers' gallery press no. 9』 photographers' gallery P73-74)
# by JustAChild | 2011-02-13 15:57 | Wards

高峰秀子

 「浮雲」「二十四の瞳」など数々の名作映画に主演した俳優の高峰秀子(たかみね・ひでこ、本名・松山秀子)さんが28日、肺がんのため東京都内の病院で死去した。86歳だった。葬儀は近親者だけで行った。喪主は夫の映画監督松山善三さん(asahi.com)
# by JustAChild | 2011-01-01 22:32

田中純   近代都市は絶え間なく、写真へと変容することを欲望しつづけてきたのだ

 ウジェーヌ・アジェのパリからウィリアム・クラインのニューヨーク、荒木経惟の東京まで、あるいは無名の観光写真、絵はがき写真にいたるまで、都市は写真というメディアの特権的な主題でありつづけている。いや、むしろこう言うべきだろうか。近代の都市は絶え間なく、写真へと変容することを欲望しつづけてきたのだ、と。飯沢耕太郎が編著『東京写真』において、「写真の中には、映像として定着された東京の物理的な姿だけではなく、他の表現手段ではどうしても実体化できない部分――東京の無意識とでもいえるようなものが写りこんでいるはずだ」と述べているのは、恐らく正しい。伊藤俊治が的確に言い切ったように「写真は都市の視覚的無意識を浮上させる」。まさしく都市は写真という分身のうちに二重化されるとともに分裂し、写真のなかにおいてはじめて、その欲望のかたちを可視化するのではないだろうか。
 イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオーは、20世紀における写真を通じたメトロポリスの表象をめぐって、三つの異なる記号システムあるいは写真的感性の変遷を認めた。その三者とは、モダニズム建築の都市計画がプロパガンダを展開した1920-1930年代における都市表象としてのフォトモンタージュ、1955年の展覧会「ファミリー・オブ・マン」やマグナムの一連の写真に代表される50年代から60年代にかけての、無名の個人のイメージから生まれる都市物語への感受性、そして70年代以降の「テラン・ヴァーグ(terrain vague)」へのまなざしである。ソラ=モラレスが注目するこのテラン・ヴァーグとは、何らかの出来事が起こったのちの放棄された空虚な場所を意味するが、そこにはフランス語のvagueが語源とするゲルマン語やラテン語との関係から、波、空虚、開放、曖昧といったいくつかのニュアンスが重層している。ジョン・デイヴィス、デヴィッド・プローデン、ヤネス・リンデルといった写真家たちの作品に見出されるこのテラン・ヴァーグは、都市の日常的利用にとっては外在的でありながら、都市そのものには内在的な何ものかである、とソラ=モラレスは言う。

忘れさられたかのようなこのような場所においては、過去の記憶が現在よりも優勢であるように見える。都市の活動から完全に離反してしまっているにもかかわらず、ここにはほんのわずかに残された価値ばかりが生き残っている。こうした奇妙な場所は都市の効率的な回路や生産構造の外部に存在する。経済的観点からすれば、この工業地帯、鉄道駅、港、危険な住宅地区、そして汚染された場所はもはや都市ではないのだ。

 生産・消費活動やそのための管理を欠いた、都市内部の「島」であるテラン・ヴァーグは、都市システムに対して異質な、「都市の物理的内部における、精神的に外部的な、都市の否定的=陰画的イメージ」である。ジュリア・クリステヴァやオド・マルクヴァルトに依拠しながらソラ=モラレスはそこに「他者性」や「未知性」、あるいはフロイト的な「無気味なもの」といったテーマとの関連を指摘している。自己の内部の最奥の他者、未知なるものとしての無気味なこのテラン・ヴァーグとはまさに都市の無意識であり、われわれの言葉で言い換えれば「非都市」にほかならない。
 しかしながら、ソラ=モラレスはこの都市の無意識の発見という地点から、現実の都市の内部に実在するテラン・ヴァーグがもつ可能性と、その保存について語ることへと無造作に移行してしまう。あたかもそこでは写真というメディアがそれ自体としては厚みをもたずに透明で、現実の忠実な再現表象を提供しているかのように。だが、事実としての空き地とは所詮たかだか効率的に利用可能な空隙であって、テラン・ヴァーグという都市の無意識ではありえないだろう。テラン・ヴァーグの無気味さの根源は都市と都市写真との間のずれ、この両者の間にあってまなざしを屈折させる歪んだ空間の物質性にこそ求められなければならない。
 またこのテラン・ヴァーグを殊更に新しい写真的発見とするにはおよばない。どこにも人影のない街路を撮影したアジェの写真がすでに、パリという都市全体をテラン・ヴァーグと化していたのではなかったか。「どこも寂しい場所というのではない。気分というものが欠如しているのである。都市はこれらの写真の上では、まだ新しい借り手が見つからない住居のように、きれいにからっぽである」(ヴァルター・ベンヤミン)。この人影のなさこそ、アジェが「街路を犯行現場のように撮影した」と言われる所以であったのだ、とベンヤミンは書く。そして、都市のどんな一角もつねに「犯行現場」なのであり、都市のなかの通行人はみな「犯人」なのだ、と。


( 田中純 『都市表象分析Ⅰ』 INAX出版 P36)
# by JustAChild | 2010-12-27 23:28 | Wards

ニコライ・レミソフ Nicolai Remisoff

『オーシャンと十一人の仲間』 Ocean's Eleven (1960)
『勝利なき戦い』 Pork Chop Hill (1959)
『赤い河の逆襲』 Pawnee (1957)
『片目のシェリフ』 Black Patch (1957)
『荒野の追跡』 Trooper Hook (1957)
『激突のガンマン』 Johnny Concho (1956)
『アパッチ』 Apache (1954)
『月蒼くして』 The Moon Is Blue (1953)
『大いなる夜』 The Big Night (1951)
『赤い子馬』 The Red Pony (1949)
『誘拐魔』 Lured (1947)
『奇妙な女』 The Strange Woman (1946)
『美しき未亡人』 Young Widow (1946)
『女の戦い』 Paris Underground (1945)
『かわいい女』 My Life with Caroline (1941)
『嘆きの白薔薇』 The Men in Her Life (1941)
Broadway Limited (1941)
『彼女はゴースト』 Topper Returns (1941)
『海洋児』 Captain Caution (1940)
Turnabout (1940)
『廿日鼠と人間』 Of Mice and Men (1939)


この映画では、素晴らしいアート・ディレクターも使えましたよ。ロシア人のレミソフです。彼は熟練の技を披露してくれた。―― ダグラス・サーク

# by JustAChild | 2010-12-27 08:43 | N


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