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ここや/そこ/あちこちで/わたしたちは/徹底的に/やる

黒沢清   映画のある部分だけを取り出してどうこう批評することは不可能だ

 さて、みなさんもご存知のように映画は様々な表現形式の入り混じった芸術です。商品と言ったほうがいいかもしれませんが。いずれにせよ、脚本、俳優、撮影、美術、衣装などなど、いろんな分野の専門家がよってたかって一本の映画を作り上げます。
 そして、完成した作品を見る観客は、それらの集合した全体を見て、面白かったとか美しかったとか作者の主張に我を得たとか言うわけです。もちろん僕もそうです。それが普通でしょう。たまには、あの俳優がよかったとか撮影が素晴らしかったとか言う場合もありますが、まあそれは映画全体がとにかく面白かったのだということを、ちょっと別の言い方で言ってみただけにすぎません。厳密には、完成した一本の映画のある部分だけを取り出してどうこう批評することは不可能だと思われますし、作った側もそんなことをされたらたまったものではありません。


( 黒沢清 『黒沢清、21世紀の映画を語る』 [編]:月永理絵 樋口泰人 boid P31 )
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# by JustAChild | 2010-10-13 23:25 | Wards

ジャン‐クリストフ アグニュー   『市場と劇場 ― 資本主義・文化・表象の危機』

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# by JustAChild | 2010-10-13 23:06 | Wards

久保田早紀 ― 異邦人

子供たちが
空に向かい
両手をひろげ
鳥や雲や
夢までも
つかもうとしている
その姿は
きのうまでの
なにもしらない私
あなたに
この指が
届くと信じていた

空と大地が
ふれ合う彼方
過去からの旅人を
呼んでる道

あなたにとって私
ただの通りすがり
ちょっと
ふり向いて
みただけの異邦人


市場へ行く
人の波に
身体を預け
石だたみの
街角を
ゆらゆらとさまよう
祈りの声
ひづめの音
歌うようなざわめき
私を
置きざりに
過ぎてゆく白い朝

時間旅行が
心の傷を
なぜかしら埋めてゆく
不思議な道

サヨナラだけの手紙
迷い続けて書き
あとは
悲しみを
もて余す異邦人
あとは
悲しみを
もて余す異邦人

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# by JustAChild | 2010-10-13 22:57 | Wards

Sonic Youth   Bull in The Heather

10, 20, 30, 40
Tell me that you wanna hold me
Tell me that you wanna bore me
Tell me that you gotta show me
Tell me that you need to slowly
Tell me that yr burning for me
Tell me that you can't afford me
Time to tell yr dirty story
Time f'r turning over and over
Time f'r turning four leaf clover

Betting on the bull in the heather

10, 20, 30, 40
Tell me that you wanna scold me
Tell me that you a-dore me
Tell me that you're famous for me
Tell me that yr gonna score me
Tell me that you gotta show me
Tell me that you need to sorely
Time to tell yr love story
Time f'r turning over and over
Time f'r turning four leaf clover
Betting on the bull in the heather
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# by JustAChild | 2010-10-13 22:38 | Wards

Sonic Youth   Skink

Here, there
Here, there
Down to the bottom and 'round on the bottom we go
Here, there
Here, there
Down to the bottom and oh what a bottom it is

You had soul
Uh-oh
Let it go

Here, there
Here, there
Down to the bottom and 'round on the bottom we go
Here, there
Here, there
Down to the bottom and oh what a bottom it is


Uh-oh
You got a soul
Let me go

Kiss beyond, kiss beyond the lips
Kiss beyond, kiss beyond my lips

Ooh, I love you
Ooh, baby baby
Kinda crazy
Kinda hazy
Kinda messy too

Here, there
Here, there
Down to the bottom and oh what a bottom it is
Here, there
Here, there
Down to the bottom and 'round on the bottom we go


Yeah baby
Oh oh
You know
I love you so
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# by JustAChild | 2010-10-13 22:31 | Wards

林道郎   サイ・トゥオンブリ――バルトの言う「動作(ジェスト)」、「怠惰」

「ジェスト」という言葉があります。フランス語で、身振りとか動作というふうに訳されることの多い言葉ですが、それを行為を意味する「アクト」と対比させて彼は考えます。印象的な一文を引用してみましょう。

動作とは何か。行為(アクト)のおまけのような何かである。行為は他動的である。単に対象を、結果を出現させようとする。動作は、行為を大気圏(天文学で用いる意味で)で取り囲む動機、欲動、怠惰の、無限定で、汲み尽くすことのできない総和である。※1

 これはもう、本当にバルト的な、実に繊細な説明だと思うのですが、「行為(アクト)」というものは他動的であって、動作(ジェスト)は、それを取り囲んでいる微小なものの総和だと言う。他動的であるとは、どういうことかというと、何か目的をもって行う行為である。「テロス」に結びついている。前の議論につなげて考えると、行為(アクト)とは要するにロゴス的な性格をもつもので、ある目的=結果を達成するために組織された動きであり、つねに何かに働きかけているがゆえに「他動的」なんですね。しかし「動作(ジェスト)」はそうではない。その原因から結果へとつながる因果論的連鎖の中には捉えられない何か。盲目的なもの、おまけみたいなもの。おまけと言うか余剰というか、ためらいというか、震えというか……。実体論的に分別できるものではなくて、行為が営まれるのに寄生しながら、つねに発生している微少な事件。それをバルトは、日本の禅と結びつけたりしています。それはちょっとどうかなと思うところですけれども、面白いのは、トゥオンブリがある動作を「意味がなくなるまでくり返す」ことにバルトが注目し、それを「因果論的論理の突然の〔時には、きわめて小さな〕切断」であり、禅の文脈における「悟り」のようなものと見ていることです。それが禅における「悟り」に当たることかどうかは大いに疑問ですが、意味がなくなるまでくり返すという方法が、動作事件の発生をうながす契機として使われていることにバルトは注目しているわけです。さらに言えば、そのくり返しは、求心的にテロスに向かって集中してくるものではなくて、遠心的に散漫化されるものであり、バルトの言葉を使えば、「怠惰」の戦略だということになります。

TWの《怠惰》[ここで私がいうのは、結果であって、気質ではない] は、しかし、戦術的(タクティック)である。怠惰のおかげで、彼は字のコードの平板さを避けることができ、しかも、破壊の順応主義に身を委ねずにすんでいる。これこそ、あらゆる意味で、タクト[手ざわり、触覚、気配] である。※2

 注目すべきは、バルトの言う「怠惰」が、因果論的論理を「破壊」するものではないということです。彼がしばしば使う「第三の意味」という概念とも呼応するのですが、ロゴス―破壊 の二極対立的な平板さ――すなわち字のコードの平板さ――をすりぬける何かを起動させるものとして、この「怠惰」ということが言われているわけです。記号論的に言い換えれば、シニフィアンがシニフィエに対して透明な関係を結ぶロゴス的な状態も、その関係がまったく破壊されてシニフィアンが物質的なフェティッシュとして鈍化するのも、「平板」さの圏域を出ないのですが、トゥオンブリの《怠惰》は、そのどちらでもない圏域、その平板さの周囲に広がる「大気圏」を彷彿させるということです。


※1 ロラン・バルト「サイ・トゥオンブリ または量より質」『美術論集』87頁
※2 ロラン・バルト「サイ・トゥオンブリ または量より質」『美術論集』106―107頁



( 林道郎 『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない Art Seminar Series 2002 - 2003 ① Cy Twonbly P27 』
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# by JustAChild | 2010-10-08 08:06 | Wards

ウィリアム・アイリッシュ 気持がすっとするわね――ずっと恐れつづけていたことを、いよいよやるときって

彼女は長いあいだ沈黙していた。つづいて、のろのろと頭が垂れた。
「いいわ」と、ようやく彼女は言った。「そうするわ。いまでは、進んでそうしたくなったわ。この何ヶ月、あたしは盲目だったのね。ありのままに物事を見ることができなかったんだわ。どういうわけか、これまでは、あの男のひとのことをあまり考えなかったの。あれのおかげで、どんな酷い目をみたか、なんて、自分のことで頭がいっぱいだったのね。」
 女はまた顔をあげて、彼のほうを見た。
「だから、せめて一度でも、立派なことをしてみたくなったわ――ほんの気分転換のためにね」
「いまから、それをやってもらうことになる」と、彼はきびしく約束した。「あの晩、きみが酒場で彼と会ったのは、何時だった?」
「六時十分、前の壁掛時計でみたのよ」
「きみ、それを話してくれるかね?すすんで誓言してくれるかね?」
「ええ」と、彼女は疲れきった声をだした。「それを話すわ、よろこんで証言するわ」
それにたいして、彼の返事はこうだった。
「神様、この女が彼にたいして犯した罪業を、ゆるしてやってください!」
 つづいて、変化が訪れた。彼女の内部で凍っていたものが溶けて、崩れはじめたとでもいうようだった。でなければ、彼もずっと前から気づいていたもの――彼女の表面に張りつめられ、しだいに彼女を窒息させて死に追いやろうとしていた、あの固い殻が剥がれだしたのかもしれなかった。両手がぱっと上にあがって、すでにうつ向いていた顔をおおい、そのままじっと動かなかった。物音もほとんど立てなかった。かれはそんなにはげしく震えている人間を見たことがなかった。からだの内部がばらばらにほぐれてしまうような感じだった。そのまま震えがとまらないのじゃないかと思えるほどだった。
 彼は女に話しかけなかった。バック・ミラーに映っているのは見えたが、直接、彼女のほうへは向かなかった。
 まもなく発作がおさまったのが、彼にもわかった。彼女は両手をまた下におろした。そして彼にというより、自分に話しかけている声が聞えた。
「気持がすっとするわね――ずっと恐れつづけていたことを、いよいよやるときって」


(ウィリアム・アイリッシュ 『幻の女』 [訳]:稲葉明雄 早川書房 [ハヤカワ・ミステリ文庫] P382 )
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# by JustAChild | 2010-10-08 06:13 | Wards

ロベルト・ボラーニョ 人には詩を読むべきときと、拳を振り回すべきときがある

一瞬、大学で何か起きたのかもしれないと思った。キャンパス内で僕の知らない発砲事件があったとか、突然のストライキがあったとか、学部長が殺されたとか、哲学科の教授が誘拐されたとか。でも、そんな事件はひとつも起きていなかったのだから、実際のところはぴりぴりする理由などなかった。少なくとも客観的には、誰もぴりぴりする必要なんてなかった。でも、詩(本物の詩)とはそういうものだ。予感させ、空気の中に存在感を示すもの。ある種の動物(蛇とか毛虫とかネズミとかある種の鳥たち)は地震を予知すると言われているが、とりわけその種の能力に長けた動物が予知する地震みたいなものだ。それに続いて起こったことは、あっという間ではあったけれど、あえて気取った言い方をするなら驚異的とでも呼べそうな何かを帯びていた。はらわたリアリストの詩人が二人やってきて、アラモは不承不承、彼らを僕たちに紹介した。アラモは一方としか面識がなく、もう一人については、噂に聞いていたか名前を知っていただけか、誰かに話を聞いただけだったけれど、彼のことも紹介してくれた。

 二人が何を求めてそこに来たかは分からない。明らかに戦略的な訪問のように見えたけれど、宣伝や勧誘活動の雰囲気もなくはなかった。最初のうち、はらわたリアリストたちは黙っていた。というか、おとなしくしていた。アラモのほうは、ちょっと皮肉まじりの外交的な態度を決め込んで成り行きを見守っていたが、よそ者がおとなしくしているのを見てだんだん強気になり、三十分も経つと普段のゼミに戻っていた。そのとき争いが始まった。はらわたリアリストたちはアラモが操る批評の体系に疑義を唱え、一方のアラモは、はらわたリアリストたちを三流のシュルレアリスト、似非マルクス主義者呼ばわりし、五人のゼミ生が奴の加勢に回った。すなわち、いつもルイス・キャロルの本を持ち歩いていてほとんど発言しない痩せぎすの男の子と僕以外の全員が、アラモの側についたのだ。僕は彼らの態度に正直驚いた。なにしろアラモを熱く支持したのは、それまで奴の容赦ない批判にじっと耐えていた当の連中で、それが今じゃ(驚いたことに)奴のもっとも熱心な信奉者みたいな顔をしているのだから。その瞬間、僕も一石投じることに決め、リスペットの意味ひとつ知らないじゃないかとアラモを非難してやった。はらわたリアリストたちはそんなことは俺たちも知らんと公然と認めたが、それでも僕の意見はもっともなものに思えたらしく、実際彼らはそう言った。それから一人が、君は歳はいくつだと訊くので、僕は十七歳だと答えて、もう一度リスペットの意味を説明しようとした。アラモの顔が怒りで真っ赤になっていた。ゼミ生たちは僕のことを訳知り顔な野郎だと責め(学者気取りだと言う奴もいた)、はらわたリアリストたちは僕をかばった。もはや歯止めのきかなくなった僕は、アラモとゼミ生の全員に向かって、では少なくともニカルケオとテトラスティコは覚えているでしょうね、と訊ねてやった。すると誰も答えられなかった。

 期待に反して、議論が全員入り乱れての殴り合いに変わることはついになかった。白状すると、そうなればいいなと思ったのだけど。ゼミ生の一人がウリセス・リマに、いつか顔をボコボコにしてやると凄んでいたというのに、結局は何も起こらず、つまり暴力沙汰にはならず、僕はその脅しの文句(繰り返すけど僕に向けられたものじゃない)に応じて、脅迫してきた相手に、キャンパス内のどこでもいい、いつでも好きなときにかかってこいと言ってやった。

 その夜の集まりは思いがけない終わり方をした。アラモがウリセス・リマに、自作の詩を一つ読んでみろ、と挑発したのだ。ウリセスは待ってましたとばかりに、上着のポケットから汚いくしゃくしゃの紙切れを取り出した。なんてこった、と僕は思った。こいつは自分から罠に飛び込んでいきやがった。僕は彼が恥をかくところを想像して目を閉じたと思う。人には詩を読むべきときと、拳を振り回すべきときがある。僕にとってこの瞬間は後者だった。今言ったように僕は目を閉じて、リマの咳払いを聞き、彼の周りにいささか気まずい沈黙ができていくのを聞いていた(沈黙が聞こえるならの話。まさかね)。そして沈黙の果てに彼の声が聞こえてきたかと思うと、その声は、それまで聞いたこともない素晴らしい詩を読み上げた。その後、アルトゥーロ・ベラーノが立ち上がり、はらわたリアリストが出そうとしている雑誌に寄稿してくれる詩人を募集していると言った。本来なら誰もが手を挙げたところだろうけど、なにしろ口論のあとだけあってやや気後れしたのか、誰も口を開かなかった。(いつもより遅い時間に)ゼミが終わると、僕は二人と一緒にバス停に向かった。もう遅すぎた。路線バスは一台もなかったので、乗合バスで一緒にレフォルマ大通りまで行くことにし、そこからは歩いてブカレリ通りの酒場へ行き、そこで遅くまでずっと詩について語り合った。

 はっきりしない話ばかりだった。グループの名前はある意味冗談でもあり、またある意味いたって真面目でもあった。何年も前にはらわたリアリストを名乗るメキシコのアヴァンギャルド集団があったと思うけれど、彼らが作家だったのか、画家だったのか、ジャーナリストだったのか、革命家だったのかは知らない。彼らの活動時期は、これもあまりはっきりしないが、二〇年代から三〇年代にかけてのことだった。もちろん僕はそんな集団の話など一度も聞いたことがなかったが、それは僕が文学に関して知らないことが多すぎるせいだ(世界中の本が僕に読んでもらうのを待っている)。アルトゥーロ・ベラーノによると、はらわたリアリストたちはソノラ砂漠で消息を絶ったという。そのあと二人は、セサレア・ティナヘーロだかティナーハだか、よく覚えていないけれど、そんな名前の人物を引き合いに出し、そのとき僕は店員にビールを持ってきてくれと叫んでいたと思う。それから二人はロートレアモン伯爵の『ポエジー』について、その『ポエジー』の中の、ティナヘーロとかいう女と関係のある何かについて話、そのあとでリマが謎めいた主張をした。彼によると、現代のはらわたリアリストは後ろ向きに歩いているという。後ろ向きにって、どうやって?と僕は尋ねた。

「振り向いて、ある一点を見つめて、だがそこから遠ざかっていくんだ、未知なるものへ向かってまっすぐに」

 そんなふうに歩くのは素晴らしいと思う、と僕は言ったけれど、実はさっぱり分からなかった。よく考えてみたら最悪の歩き方だ。

 もっと遅い時間に、数人の詩人がやってきた。はらわたリアリストもいればそうでない人もいて、とてつもない大騒ぎになった。僕は一瞬、ベラーノとリマはテーブルに群がってくる変てこな連中誰も彼もを相手にするのに忙しくて、僕のことなんかすっかり忘れてしまったんじゃないかと思ったけれど、夜が明けようとするころ、二人から仲間に加わらないかと声をかけられた。彼らが「グループ」とか「運動」とか言わずに、仲間と言ったのが気に入った。もちろんそうすると答えた。なんともあっさりしたものだった・二人のうちの一方、というのはベラーノだが、彼が僕の手を握り、これで君も仲間だと言い、それからみんなでランチェーラ〔メキシコの伝統的民衆歌の一つ〕を一曲歌った。それで終わり。その歌は、北部の失われた村々と一人の女の瞳について歌っていた。店の外に出てゲロを吐く前に、その瞳というのはセサレア・ティナヘーロの瞳のことかと尋ねた。ベラーノとリマは僕を見つめ、君ももうすっかりはらわたリアリストだな、一緒にラテンアメリカの詩を変革しよう、と言った。朝の六時、今度は一人で別の乗合バスに乗って、リンダビスタ地区まで帰った。僕はそこに住んでいる。今日は授業に行かなかった。一日中、部屋にこもって詩を書いていた。


(ロベルト・ボラーニョ 『野性の探偵たち』 [訳]:柳原孝敦 松本健二 白水社 P19 )
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# by JustAChild | 2010-10-08 05:17 | Wards

柴崎友香 全然知らない場所の知らない人たちなのに、胸の奥のあたりがざわめいてずっと見ていたくなる。


「すごい」
 わたしは急いでそれだけ返信した。情報番組のなかの特集コーナーのようだったけれど、もしかしてもう昔の映像は終わりのなのかなと、チャンネルを変える前に流れた分のことを残念に思った。インタビューに答えている男性は、古い映像をお年寄りに見せて元気になってもらうという活動をしているらしかった。
「おもろいな」
 良太郎の返事も短かった。お年寄りを集めての上映会の映像になり、そこで映されるフィルムに画面が切り替わった。町内会の運動会の様子で、パン食い競走で走る男の人たちやお弁当を食べる家族が映った。撮った人の娘なのか、下ぶくれで目が細い十歳ぐらいの子がカメラに向かってなにか言っている。全然知らない場所の知らない人たちなのに、胸の奥のあたりがざわめいてずっと見ていたくなる。映画やドラマとなにが違うんやろう、と思った。古い時代を舞台にした映画やドラマもよく見るけれど、それでこんな気持ちになったりはしない。実際の写真や映像を資料にして同じような景色を再現し同じような服装をしているのに、それを見て驚いたりなにかを実感することはほとんどない。作り物だから、ということもあるかもしれないけれど、だけどそうやって作られた映画も、時代を経たものを見ればたとえばそれが時代劇でも、江戸時代ではなくてやっぱりそれが作られたそのときを感じる。そのときの場所に存在した、なにかを。
 それからテレビは、放送局が所蔵している大阪の映像を流し始めた。白黒で、戦前や戦争のときの、坊主頭で裸足に着物の子どもたちが遊んでいる姿で、前にも見たことあると思っていたら、画面がカラーになった。終戦直後の焼け跡を、人々が荷物を載せたリヤカーを引いてぞろぞろと歩いていた。
 突然、わたしはその光景が実際にあったものだと強く感じた。その映像の中に映っていることが存在して、そのあと何十年かの時間が流れて、わたしが今いるここになっているのだと、思った。こんなに古いカラー映像を見たのは初めてだった。色は鮮明というか、最近撮られたものよりもかえって濃いくらいの色調で、瓦礫に覆われた街の上に広がる空が、とても深い青だった。
「すごいな」
 良太郎からメールが来た。
「うん、すごいわ」
 わたしは返信した。それから映像は、白黒にもどって大阪駅前の闇市や大きな台風で浸水した街の様子が映し出された。古い木造家屋に住んでいた友だちの家に遊びに行ったとき、ジェーン台風だったか第二室戸台風だったかの浸水の跡だと、玄関の壁にうっすらと残る水平の線のようなものを見せてもらったのを思い出した。
 そのあと、カラーだったりモノクロだったりしながら、心斎橋の繁華街を歩く女の子たちや高度成長期のビルや道路の建設ラッシュや、夏祭りの映像が続いた。自分しかいない四角い部屋で、ぺったりと座り込んでわたしはその映像をただじっと見ていた。わたしがまだいない時間の、この街の風景。知っている建物だけが、そことわたしを繋ぐ。メールが来た音が鳴った。
「こういう映像を見てるとどこぞで同じ時間を父母が生きとるんや、とか思う。自分の死後を見ているかのような気分にもなる」
 しばらく、どんな言葉を返せばいいのかなにも思いつかなかった。喉元が詰まったような感じがして、泣きそうなのかな、と思った。映像が終わり、スタジオに並ぶアナウンサーやゲストのタレントが思い出話を始めた。一つ息をつくと、体に力が入っていたのがわかった。
「うん、そうやね」
 わたしは、それだけ文字を並べて送信した。それから、やっぱり足りないと思って、ありがとう、と送った。良太郎からはすぐに、いえいえどういたしまして、と返事が来た。少し涼しくなってきたので、わたしは立ち上がって掃き出し窓を閉めた。自動車の音が、すうっと消えた。ガラスの向こうには、大阪の街がさっきと変わらず瞬いていた。この街を、自分で選んで住んだのではないし、姉も引っ越したし両親ももうすぐ出ていってしまうけれど、わたしはずっとここにいる気がした。良太郎と話したかったけれど、電話はしなかった。昼間にもらったレコードを、プレイヤーがないので自分の部屋の棚の上に立て掛けてみた。


(柴崎友香 『その街の今は』 新潮文庫 P115 )
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# by JUSTAchild | 2010-10-07 02:46 | Wards

ダグラス・サーク  リューディア・ブリンケンとクラウス・デトレフ

 1925年、本名をハンス・デトレフ・ジールクというサークと、妻の俳優リューディア・ブリンケンとのあいだに息子が生まれ、この子はクラウス・デトレフと名づけられた。数年後、リューディア・ブリンケンとデトレフ・ジールクは離婚。リューディア・ブリンケンはナチ信奉者となり、ヒトラーが政権の座につくと、元夫が自分の息子に会うのを禁止する法廷命令を取りつける。サークの新しい妻ヒルデ・ヤーリがユダヤ系だったからだ。リューディア・ブリンケンはクラウス・デトレフをヒトラーユーゲントに入れ、さらに子役として売り出す。クラウス・デトレフは映画俳優となり、ナチ・ドイツの代表的な子役スターにのしあがったが、サークは自分の息子に二度と会ったり話をすることができなくなってしまった。息子の姿を見るためには、この子が出演している映画を観るしかなくなったし、映画ではサークの息子がナチ少年を演じることもあった。
 ヒトラーが政権の座についた1933年、サークはナチ体制が長続きするとは考えていなかった。サークは一度ヒトラーに会ったことがあり、ヒトラーなんか大したことはないと思っていたせいでもある。まもなくサークはゲシュタポに呼ばれ、パスポートを没収されてしまう。サークをユダヤ人の妻と離婚させるために圧力をかけようとしたことも一因となっていると思われる。サーク夫人は1936年にドイツを離れるが、彼自身は残っていた。この時点では、どうにか息子を連れ出せるかもしれないと望みを抱いていたのである。1937年、サークはもう国を去らなければならないと感じたが、そのときでさえドイツを離れるのは辛いことだった。ドイツは自分の国だし、ドイツ語は自分の言葉だとサークは語る。ある日、国を去るか、それともそのまま残るかというモラルの問題について話し合っていたとき、突然サークはわたしに「ベトナム戦争中にハリウッドで活動すべきじゃなかった、とひとが言うようになりますかね?」と言った。
 サークの脳裏からは、1944年春ロシア戦線で戦死した息子のことが離れなかった。サークは、エーリヒ・マリーア・レマルクの小説にもとづく自作『愛する時と死する時』を、息子の人生最後の数週間の想像上の物語にし、それを苦悩と(希望と)絶望を持って描いた。戦争直後、彼はヨーロッパに復帰しようと試みたが、うまくいかなかった。彼は一年間の滞在の大半を、息子の消息を探ることに費やし、なにか情報があれば追いかけ、消息告知板を見て回った(これは『愛する時と死する時』の戦争中のドイツのシーンとして出てくる)。
 マイケル・スターンがサークの研究に先鞭をつけたその著で指摘しているように、サークの人生には不明な点が多い。サークは、自分は「20世紀の申し子」で1900年の生まれだとわたしには語っていたが、パスポートによると、じつは1897年生まれである。これはほかの談を解く鍵ともなった。サークは、第一次世界大戦中、ドイツの海軍将校として一年近くトルコで過ごしたと言っていたが、そうなると戦争が終わった1918年に、まだ十八歳だったことになってしまうからだ。1919年にミュンヘンで樹立されたバイエルン・レーテ共和国時代の知己関係も、これで説明がつく。
 ヴァイマル時代、サークはドイツの代表的な演劇演出家のひとりにのしあがった。彼が、いつも自分の映画の中心に据えようとした、色合いのはっきりしない引き裂かれた人物の描き方を磨いていったのも、演劇演出家としてである。色合いのはっきりしない人間への彼の関心は、親しくしていた友人や同僚がたくさんナチスになってしまったことでも強められていったのではないかと、わたしは思う。人間を信じることの難しさ、たとえば他人の正体や強い圧力のもとで彼らのとる行動を知ることの難しさが、サークの人生で大きな意味を持つようになった。
 サークは1940年アメリカに渡った。文化の違い、たとえばアイロニーの欠如にもかかわらず、彼はアメリカを愛した。エージェントの勧めにより、彼はその名をデトレフ・ジールクからダグラス・サークに変えたが、晩年、重病になって入院していたとき、考えが混乱してしまうことがあり(それでも精神自体は非常に自由だった)、突然、「ダグラス・サークはふたりいる。名前を変えたときにこの問題がはじまったんだ」と言い出したことがある。

<中略>

 1960年代の終わり、わたしがサークに関する本を画策しはじめたころ、彼の名はわずかに知られるだけで、ほとんど目につかない存在だった。サーク自身も十年以上も映画を撮っていなかった。批評家たちは一般にサークのことを無視していたし、なかには彼の映画を小馬鹿にする者さえいた。映画人の回想録にサークの名が出てくることも稀で、彼のことが思い出されるとしても、孤独な人間としてであった。ダグラス・サークという名を聞いて訝しく思う者もいて、「カーク・ダグラスのことじゃないんですか?」という反応も決して珍しいことではなかった。彼は死んだという噂も流れた。サークの映画、とくに『悲しみは空の彼方に』や『風と共に散る』を覚えている者はたくさんいたが、彼を監督としてまともに評価しているひとはほとんど皆無に近かった。

<中略>

 映画作家としてのサーク、人間としてのサークの再発見は刺激的なものだったし、非常に報われることでもあった。サークは愛嬌のある人間として自分の人生を振り返っただけではない。熟達した職人芸で作られ、音楽や声や光が巧妙に投入されたその映画は、アメリカや故国ドイツ、英国やフランスの映画作家たちに高く評価され、影響を与えた。彼はカルト的存在と化し、尊敬されるようになり、盛んにその名があげられるようになった。
 サークにとってこの遅ればせながらの評価は、歓迎すべきものではあったが、決定的なものというわけではなかった。彼にとってもっと重要だったのは、わたしの思うところ、次のふたつの点である。まず(これが一番重要なことなのだが)、ナチ・ドイツ時代に失ってしまった人間への信頼感を取り戻したこと。サークは英国やスイスやそのほかの国々で親しい大切な友人を得たし、こうした親交は彼の残りの人生を通じて続いた。ドイツに対する彼の幻滅感さえ、しだいに薄らいでいき、自分がヴァイマル時代のドイツと戦後ドイツの架け橋になっているという気持ちと、ナチスに破壊されてしまった愛すべきドイツ文化の全般的復興に、内心大きな満足を感じていた。もうひとつの重要な点は、ほかの知識人と意見を交換できるようになったことである。サークは演劇人であり、文学人であり、鋭い思考家であった。彼は、文学について話のできる人や、自分の思考を刺激してくれる人と話ができるようになって、ほんとうにうれしかったのである。彼の映画が再発見されたことで、逆説的にサークは映画以外の分野で知的刺激を楽しめるようになったが、これは彼にとって、長いあいだ望みながらも欠けていたものであった。


(ジョン・ハリデイ 『サーク・オン・サーク』 訳:明石政紀 INFASパブリケーションズ [INFAS BOOKS―STUDIO VOICE‐boid Library (Vol.1)] P10 )
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# by JustAChild | 2010-10-06 00:10 | Wards

黒沢清   映画のある部分だけを取り出してどうこう批評することは不可能だ

 さて、みなさんもご存知のように映画は様々な表現形式の入り混じった芸術です。商品と言ったほうがいいかもしれませんが。いずれにせよ、脚本、俳優、撮影、美術、衣装などなど、いろんな分野の専門家がよってたかって一本の映画を作り上げます。
 そして、完成した作品を見る観客は、それらの集合した全体を見て、面白かったとか美しかったとか作者の主張に我を得たとか言うわけです。もちろん僕もそうです。それが普通でしょう。たまには、あの俳優がよかったとか撮影が素晴らしかったとか言う場合もありますが、まあそれは映画全体がとにかく面白かったのだということを、ちょっと別の言い方で言ってみただけにすぎません。厳密には、完成した一本の映画のある部分だけを取り出してどうこう批評することは不可能だと思われますし、作った側もそんなことをされたらたまったものではありません。


( 黒沢清 『黒沢清、21世紀の映画を語る』 [編]:月永理絵 樋口泰人 boid P31 )
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# by JustAChild | 2010-10-13 23:25 | Wards

ジャン‐クリストフ アグニュー   『市場と劇場 ― 資本主義・文化・表象の危機』

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# by JustAChild | 2010-10-13 23:06 | Wards

久保田早紀 ― 異邦人

子供たちが
空に向かい
両手をひろげ
鳥や雲や
夢までも
つかもうとしている
その姿は
きのうまでの
なにもしらない私
あなたに
この指が
届くと信じていた

空と大地が
ふれ合う彼方
過去からの旅人を
呼んでる道

あなたにとって私
ただの通りすがり
ちょっと
ふり向いて
みただけの異邦人


市場へ行く
人の波に
身体を預け
石だたみの
街角を
ゆらゆらとさまよう
祈りの声
ひづめの音
歌うようなざわめき
私を
置きざりに
過ぎてゆく白い朝

時間旅行が
心の傷を
なぜかしら埋めてゆく
不思議な道

サヨナラだけの手紙
迷い続けて書き
あとは
悲しみを
もて余す異邦人
あとは
悲しみを
もて余す異邦人

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# by JustAChild | 2010-10-13 22:57 | Wards

Sonic Youth   Bull in The Heather

10, 20, 30, 40
Tell me that you wanna hold me
Tell me that you wanna bore me
Tell me that you gotta show me
Tell me that you need to slowly
Tell me that yr burning for me
Tell me that you can't afford me
Time to tell yr dirty story
Time f'r turning over and over
Time f'r turning four leaf clover

Betting on the bull in the heather

10, 20, 30, 40
Tell me that you wanna scold me
Tell me that you a-dore me
Tell me that you're famous for me
Tell me that yr gonna score me
Tell me that you gotta show me
Tell me that you need to sorely
Time to tell yr love story
Time f'r turning over and over
Time f'r turning four leaf clover
Betting on the bull in the heather
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# by JustAChild | 2010-10-13 22:38 | Wards

Sonic Youth   Skink

Here, there
Here, there
Down to the bottom and 'round on the bottom we go
Here, there
Here, there
Down to the bottom and oh what a bottom it is

You had soul
Uh-oh
Let it go

Here, there
Here, there
Down to the bottom and 'round on the bottom we go
Here, there
Here, there
Down to the bottom and oh what a bottom it is


Uh-oh
You got a soul
Let me go

Kiss beyond, kiss beyond the lips
Kiss beyond, kiss beyond my lips

Ooh, I love you
Ooh, baby baby
Kinda crazy
Kinda hazy
Kinda messy too

Here, there
Here, there
Down to the bottom and oh what a bottom it is
Here, there
Here, there
Down to the bottom and 'round on the bottom we go


Yeah baby
Oh oh
You know
I love you so
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# by JustAChild | 2010-10-13 22:31 | Wards

林道郎   サイ・トゥオンブリ――バルトの言う「動作(ジェスト)」、「怠惰」

「ジェスト」という言葉があります。フランス語で、身振りとか動作というふうに訳されることの多い言葉ですが、それを行為を意味する「アクト」と対比させて彼は考えます。印象的な一文を引用してみましょう。

動作とは何か。行為(アクト)のおまけのような何かである。行為は他動的である。単に対象を、結果を出現させようとする。動作は、行為を大気圏(天文学で用いる意味で)で取り囲む動機、欲動、怠惰の、無限定で、汲み尽くすことのできない総和である。※1

 これはもう、本当にバルト的な、実に繊細な説明だと思うのですが、「行為(アクト)」というものは他動的であって、動作(ジェスト)は、それを取り囲んでいる微小なものの総和だと言う。他動的であるとは、どういうことかというと、何か目的をもって行う行為である。「テロス」に結びついている。前の議論につなげて考えると、行為(アクト)とは要するにロゴス的な性格をもつもので、ある目的=結果を達成するために組織された動きであり、つねに何かに働きかけているがゆえに「他動的」なんですね。しかし「動作(ジェスト)」はそうではない。その原因から結果へとつながる因果論的連鎖の中には捉えられない何か。盲目的なもの、おまけみたいなもの。おまけと言うか余剰というか、ためらいというか、震えというか……。実体論的に分別できるものではなくて、行為が営まれるのに寄生しながら、つねに発生している微少な事件。それをバルトは、日本の禅と結びつけたりしています。それはちょっとどうかなと思うところですけれども、面白いのは、トゥオンブリがある動作を「意味がなくなるまでくり返す」ことにバルトが注目し、それを「因果論的論理の突然の〔時には、きわめて小さな〕切断」であり、禅の文脈における「悟り」のようなものと見ていることです。それが禅における「悟り」に当たることかどうかは大いに疑問ですが、意味がなくなるまでくり返すという方法が、動作事件の発生をうながす契機として使われていることにバルトは注目しているわけです。さらに言えば、そのくり返しは、求心的にテロスに向かって集中してくるものではなくて、遠心的に散漫化されるものであり、バルトの言葉を使えば、「怠惰」の戦略だということになります。

TWの《怠惰》[ここで私がいうのは、結果であって、気質ではない] は、しかし、戦術的(タクティック)である。怠惰のおかげで、彼は字のコードの平板さを避けることができ、しかも、破壊の順応主義に身を委ねずにすんでいる。これこそ、あらゆる意味で、タクト[手ざわり、触覚、気配] である。※2

 注目すべきは、バルトの言う「怠惰」が、因果論的論理を「破壊」するものではないということです。彼がしばしば使う「第三の意味」という概念とも呼応するのですが、ロゴス―破壊 の二極対立的な平板さ――すなわち字のコードの平板さ――をすりぬける何かを起動させるものとして、この「怠惰」ということが言われているわけです。記号論的に言い換えれば、シニフィアンがシニフィエに対して透明な関係を結ぶロゴス的な状態も、その関係がまったく破壊されてシニフィアンが物質的なフェティッシュとして鈍化するのも、「平板」さの圏域を出ないのですが、トゥオンブリの《怠惰》は、そのどちらでもない圏域、その平板さの周囲に広がる「大気圏」を彷彿させるということです。


※1 ロラン・バルト「サイ・トゥオンブリ または量より質」『美術論集』87頁
※2 ロラン・バルト「サイ・トゥオンブリ または量より質」『美術論集』106―107頁



( 林道郎 『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない Art Seminar Series 2002 - 2003 ① Cy Twonbly P27 』
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# by JustAChild | 2010-10-08 08:06 | Wards

ウィリアム・アイリッシュ 気持がすっとするわね――ずっと恐れつづけていたことを、いよいよやるときって

彼女は長いあいだ沈黙していた。つづいて、のろのろと頭が垂れた。
「いいわ」と、ようやく彼女は言った。「そうするわ。いまでは、進んでそうしたくなったわ。この何ヶ月、あたしは盲目だったのね。ありのままに物事を見ることができなかったんだわ。どういうわけか、これまでは、あの男のひとのことをあまり考えなかったの。あれのおかげで、どんな酷い目をみたか、なんて、自分のことで頭がいっぱいだったのね。」
 女はまた顔をあげて、彼のほうを見た。
「だから、せめて一度でも、立派なことをしてみたくなったわ――ほんの気分転換のためにね」
「いまから、それをやってもらうことになる」と、彼はきびしく約束した。「あの晩、きみが酒場で彼と会ったのは、何時だった?」
「六時十分、前の壁掛時計でみたのよ」
「きみ、それを話してくれるかね?すすんで誓言してくれるかね?」
「ええ」と、彼女は疲れきった声をだした。「それを話すわ、よろこんで証言するわ」
それにたいして、彼の返事はこうだった。
「神様、この女が彼にたいして犯した罪業を、ゆるしてやってください!」
 つづいて、変化が訪れた。彼女の内部で凍っていたものが溶けて、崩れはじめたとでもいうようだった。でなければ、彼もずっと前から気づいていたもの――彼女の表面に張りつめられ、しだいに彼女を窒息させて死に追いやろうとしていた、あの固い殻が剥がれだしたのかもしれなかった。両手がぱっと上にあがって、すでにうつ向いていた顔をおおい、そのままじっと動かなかった。物音もほとんど立てなかった。かれはそんなにはげしく震えている人間を見たことがなかった。からだの内部がばらばらにほぐれてしまうような感じだった。そのまま震えがとまらないのじゃないかと思えるほどだった。
 彼は女に話しかけなかった。バック・ミラーに映っているのは見えたが、直接、彼女のほうへは向かなかった。
 まもなく発作がおさまったのが、彼にもわかった。彼女は両手をまた下におろした。そして彼にというより、自分に話しかけている声が聞えた。
「気持がすっとするわね――ずっと恐れつづけていたことを、いよいよやるときって」


(ウィリアム・アイリッシュ 『幻の女』 [訳]:稲葉明雄 早川書房 [ハヤカワ・ミステリ文庫] P382 )
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# by JustAChild | 2010-10-08 06:13 | Wards

ロベルト・ボラーニョ 人には詩を読むべきときと、拳を振り回すべきときがある

一瞬、大学で何か起きたのかもしれないと思った。キャンパス内で僕の知らない発砲事件があったとか、突然のストライキがあったとか、学部長が殺されたとか、哲学科の教授が誘拐されたとか。でも、そんな事件はひとつも起きていなかったのだから、実際のところはぴりぴりする理由などなかった。少なくとも客観的には、誰もぴりぴりする必要なんてなかった。でも、詩(本物の詩)とはそういうものだ。予感させ、空気の中に存在感を示すもの。ある種の動物(蛇とか毛虫とかネズミとかある種の鳥たち)は地震を予知すると言われているが、とりわけその種の能力に長けた動物が予知する地震みたいなものだ。それに続いて起こったことは、あっという間ではあったけれど、あえて気取った言い方をするなら驚異的とでも呼べそうな何かを帯びていた。はらわたリアリストの詩人が二人やってきて、アラモは不承不承、彼らを僕たちに紹介した。アラモは一方としか面識がなく、もう一人については、噂に聞いていたか名前を知っていただけか、誰かに話を聞いただけだったけれど、彼のことも紹介してくれた。

 二人が何を求めてそこに来たかは分からない。明らかに戦略的な訪問のように見えたけれど、宣伝や勧誘活動の雰囲気もなくはなかった。最初のうち、はらわたリアリストたちは黙っていた。というか、おとなしくしていた。アラモのほうは、ちょっと皮肉まじりの外交的な態度を決め込んで成り行きを見守っていたが、よそ者がおとなしくしているのを見てだんだん強気になり、三十分も経つと普段のゼミに戻っていた。そのとき争いが始まった。はらわたリアリストたちはアラモが操る批評の体系に疑義を唱え、一方のアラモは、はらわたリアリストたちを三流のシュルレアリスト、似非マルクス主義者呼ばわりし、五人のゼミ生が奴の加勢に回った。すなわち、いつもルイス・キャロルの本を持ち歩いていてほとんど発言しない痩せぎすの男の子と僕以外の全員が、アラモの側についたのだ。僕は彼らの態度に正直驚いた。なにしろアラモを熱く支持したのは、それまで奴の容赦ない批判にじっと耐えていた当の連中で、それが今じゃ(驚いたことに)奴のもっとも熱心な信奉者みたいな顔をしているのだから。その瞬間、僕も一石投じることに決め、リスペットの意味ひとつ知らないじゃないかとアラモを非難してやった。はらわたリアリストたちはそんなことは俺たちも知らんと公然と認めたが、それでも僕の意見はもっともなものに思えたらしく、実際彼らはそう言った。それから一人が、君は歳はいくつだと訊くので、僕は十七歳だと答えて、もう一度リスペットの意味を説明しようとした。アラモの顔が怒りで真っ赤になっていた。ゼミ生たちは僕のことを訳知り顔な野郎だと責め(学者気取りだと言う奴もいた)、はらわたリアリストたちは僕をかばった。もはや歯止めのきかなくなった僕は、アラモとゼミ生の全員に向かって、では少なくともニカルケオとテトラスティコは覚えているでしょうね、と訊ねてやった。すると誰も答えられなかった。

 期待に反して、議論が全員入り乱れての殴り合いに変わることはついになかった。白状すると、そうなればいいなと思ったのだけど。ゼミ生の一人がウリセス・リマに、いつか顔をボコボコにしてやると凄んでいたというのに、結局は何も起こらず、つまり暴力沙汰にはならず、僕はその脅しの文句(繰り返すけど僕に向けられたものじゃない)に応じて、脅迫してきた相手に、キャンパス内のどこでもいい、いつでも好きなときにかかってこいと言ってやった。

 その夜の集まりは思いがけない終わり方をした。アラモがウリセス・リマに、自作の詩を一つ読んでみろ、と挑発したのだ。ウリセスは待ってましたとばかりに、上着のポケットから汚いくしゃくしゃの紙切れを取り出した。なんてこった、と僕は思った。こいつは自分から罠に飛び込んでいきやがった。僕は彼が恥をかくところを想像して目を閉じたと思う。人には詩を読むべきときと、拳を振り回すべきときがある。僕にとってこの瞬間は後者だった。今言ったように僕は目を閉じて、リマの咳払いを聞き、彼の周りにいささか気まずい沈黙ができていくのを聞いていた(沈黙が聞こえるならの話。まさかね)。そして沈黙の果てに彼の声が聞こえてきたかと思うと、その声は、それまで聞いたこともない素晴らしい詩を読み上げた。その後、アルトゥーロ・ベラーノが立ち上がり、はらわたリアリストが出そうとしている雑誌に寄稿してくれる詩人を募集していると言った。本来なら誰もが手を挙げたところだろうけど、なにしろ口論のあとだけあってやや気後れしたのか、誰も口を開かなかった。(いつもより遅い時間に)ゼミが終わると、僕は二人と一緒にバス停に向かった。もう遅すぎた。路線バスは一台もなかったので、乗合バスで一緒にレフォルマ大通りまで行くことにし、そこからは歩いてブカレリ通りの酒場へ行き、そこで遅くまでずっと詩について語り合った。

 はっきりしない話ばかりだった。グループの名前はある意味冗談でもあり、またある意味いたって真面目でもあった。何年も前にはらわたリアリストを名乗るメキシコのアヴァンギャルド集団があったと思うけれど、彼らが作家だったのか、画家だったのか、ジャーナリストだったのか、革命家だったのかは知らない。彼らの活動時期は、これもあまりはっきりしないが、二〇年代から三〇年代にかけてのことだった。もちろん僕はそんな集団の話など一度も聞いたことがなかったが、それは僕が文学に関して知らないことが多すぎるせいだ(世界中の本が僕に読んでもらうのを待っている)。アルトゥーロ・ベラーノによると、はらわたリアリストたちはソノラ砂漠で消息を絶ったという。そのあと二人は、セサレア・ティナヘーロだかティナーハだか、よく覚えていないけれど、そんな名前の人物を引き合いに出し、そのとき僕は店員にビールを持ってきてくれと叫んでいたと思う。それから二人はロートレアモン伯爵の『ポエジー』について、その『ポエジー』の中の、ティナヘーロとかいう女と関係のある何かについて話、そのあとでリマが謎めいた主張をした。彼によると、現代のはらわたリアリストは後ろ向きに歩いているという。後ろ向きにって、どうやって?と僕は尋ねた。

「振り向いて、ある一点を見つめて、だがそこから遠ざかっていくんだ、未知なるものへ向かってまっすぐに」

 そんなふうに歩くのは素晴らしいと思う、と僕は言ったけれど、実はさっぱり分からなかった。よく考えてみたら最悪の歩き方だ。

 もっと遅い時間に、数人の詩人がやってきた。はらわたリアリストもいればそうでない人もいて、とてつもない大騒ぎになった。僕は一瞬、ベラーノとリマはテーブルに群がってくる変てこな連中誰も彼もを相手にするのに忙しくて、僕のことなんかすっかり忘れてしまったんじゃないかと思ったけれど、夜が明けようとするころ、二人から仲間に加わらないかと声をかけられた。彼らが「グループ」とか「運動」とか言わずに、仲間と言ったのが気に入った。もちろんそうすると答えた。なんともあっさりしたものだった・二人のうちの一方、というのはベラーノだが、彼が僕の手を握り、これで君も仲間だと言い、それからみんなでランチェーラ〔メキシコの伝統的民衆歌の一つ〕を一曲歌った。それで終わり。その歌は、北部の失われた村々と一人の女の瞳について歌っていた。店の外に出てゲロを吐く前に、その瞳というのはセサレア・ティナヘーロの瞳のことかと尋ねた。ベラーノとリマは僕を見つめ、君ももうすっかりはらわたリアリストだな、一緒にラテンアメリカの詩を変革しよう、と言った。朝の六時、今度は一人で別の乗合バスに乗って、リンダビスタ地区まで帰った。僕はそこに住んでいる。今日は授業に行かなかった。一日中、部屋にこもって詩を書いていた。


(ロベルト・ボラーニョ 『野性の探偵たち』 [訳]:柳原孝敦 松本健二 白水社 P19 )
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# by JustAChild | 2010-10-08 05:17 | Wards

柴崎友香 全然知らない場所の知らない人たちなのに、胸の奥のあたりがざわめいてずっと見ていたくなる。


「すごい」
 わたしは急いでそれだけ返信した。情報番組のなかの特集コーナーのようだったけれど、もしかしてもう昔の映像は終わりのなのかなと、チャンネルを変える前に流れた分のことを残念に思った。インタビューに答えている男性は、古い映像をお年寄りに見せて元気になってもらうという活動をしているらしかった。
「おもろいな」
 良太郎の返事も短かった。お年寄りを集めての上映会の映像になり、そこで映されるフィルムに画面が切り替わった。町内会の運動会の様子で、パン食い競走で走る男の人たちやお弁当を食べる家族が映った。撮った人の娘なのか、下ぶくれで目が細い十歳ぐらいの子がカメラに向かってなにか言っている。全然知らない場所の知らない人たちなのに、胸の奥のあたりがざわめいてずっと見ていたくなる。映画やドラマとなにが違うんやろう、と思った。古い時代を舞台にした映画やドラマもよく見るけれど、それでこんな気持ちになったりはしない。実際の写真や映像を資料にして同じような景色を再現し同じような服装をしているのに、それを見て驚いたりなにかを実感することはほとんどない。作り物だから、ということもあるかもしれないけれど、だけどそうやって作られた映画も、時代を経たものを見ればたとえばそれが時代劇でも、江戸時代ではなくてやっぱりそれが作られたそのときを感じる。そのときの場所に存在した、なにかを。
 それからテレビは、放送局が所蔵している大阪の映像を流し始めた。白黒で、戦前や戦争のときの、坊主頭で裸足に着物の子どもたちが遊んでいる姿で、前にも見たことあると思っていたら、画面がカラーになった。終戦直後の焼け跡を、人々が荷物を載せたリヤカーを引いてぞろぞろと歩いていた。
 突然、わたしはその光景が実際にあったものだと強く感じた。その映像の中に映っていることが存在して、そのあと何十年かの時間が流れて、わたしが今いるここになっているのだと、思った。こんなに古いカラー映像を見たのは初めてだった。色は鮮明というか、最近撮られたものよりもかえって濃いくらいの色調で、瓦礫に覆われた街の上に広がる空が、とても深い青だった。
「すごいな」
 良太郎からメールが来た。
「うん、すごいわ」
 わたしは返信した。それから映像は、白黒にもどって大阪駅前の闇市や大きな台風で浸水した街の様子が映し出された。古い木造家屋に住んでいた友だちの家に遊びに行ったとき、ジェーン台風だったか第二室戸台風だったかの浸水の跡だと、玄関の壁にうっすらと残る水平の線のようなものを見せてもらったのを思い出した。
 そのあと、カラーだったりモノクロだったりしながら、心斎橋の繁華街を歩く女の子たちや高度成長期のビルや道路の建設ラッシュや、夏祭りの映像が続いた。自分しかいない四角い部屋で、ぺったりと座り込んでわたしはその映像をただじっと見ていた。わたしがまだいない時間の、この街の風景。知っている建物だけが、そことわたしを繋ぐ。メールが来た音が鳴った。
「こういう映像を見てるとどこぞで同じ時間を父母が生きとるんや、とか思う。自分の死後を見ているかのような気分にもなる」
 しばらく、どんな言葉を返せばいいのかなにも思いつかなかった。喉元が詰まったような感じがして、泣きそうなのかな、と思った。映像が終わり、スタジオに並ぶアナウンサーやゲストのタレントが思い出話を始めた。一つ息をつくと、体に力が入っていたのがわかった。
「うん、そうやね」
 わたしは、それだけ文字を並べて送信した。それから、やっぱり足りないと思って、ありがとう、と送った。良太郎からはすぐに、いえいえどういたしまして、と返事が来た。少し涼しくなってきたので、わたしは立ち上がって掃き出し窓を閉めた。自動車の音が、すうっと消えた。ガラスの向こうには、大阪の街がさっきと変わらず瞬いていた。この街を、自分で選んで住んだのではないし、姉も引っ越したし両親ももうすぐ出ていってしまうけれど、わたしはずっとここにいる気がした。良太郎と話したかったけれど、電話はしなかった。昼間にもらったレコードを、プレイヤーがないので自分の部屋の棚の上に立て掛けてみた。


(柴崎友香 『その街の今は』 新潮文庫 P115 )
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# by JUSTAchild | 2010-10-07 02:46 | Wards

ダグラス・サーク  リューディア・ブリンケンとクラウス・デトレフ

 1925年、本名をハンス・デトレフ・ジールクというサークと、妻の俳優リューディア・ブリンケンとのあいだに息子が生まれ、この子はクラウス・デトレフと名づけられた。数年後、リューディア・ブリンケンとデトレフ・ジールクは離婚。リューディア・ブリンケンはナチ信奉者となり、ヒトラーが政権の座につくと、元夫が自分の息子に会うのを禁止する法廷命令を取りつける。サークの新しい妻ヒルデ・ヤーリがユダヤ系だったからだ。リューディア・ブリンケンはクラウス・デトレフをヒトラーユーゲントに入れ、さらに子役として売り出す。クラウス・デトレフは映画俳優となり、ナチ・ドイツの代表的な子役スターにのしあがったが、サークは自分の息子に二度と会ったり話をすることができなくなってしまった。息子の姿を見るためには、この子が出演している映画を観るしかなくなったし、映画ではサークの息子がナチ少年を演じることもあった。
 ヒトラーが政権の座についた1933年、サークはナチ体制が長続きするとは考えていなかった。サークは一度ヒトラーに会ったことがあり、ヒトラーなんか大したことはないと思っていたせいでもある。まもなくサークはゲシュタポに呼ばれ、パスポートを没収されてしまう。サークをユダヤ人の妻と離婚させるために圧力をかけようとしたことも一因となっていると思われる。サーク夫人は1936年にドイツを離れるが、彼自身は残っていた。この時点では、どうにか息子を連れ出せるかもしれないと望みを抱いていたのである。1937年、サークはもう国を去らなければならないと感じたが、そのときでさえドイツを離れるのは辛いことだった。ドイツは自分の国だし、ドイツ語は自分の言葉だとサークは語る。ある日、国を去るか、それともそのまま残るかというモラルの問題について話し合っていたとき、突然サークはわたしに「ベトナム戦争中にハリウッドで活動すべきじゃなかった、とひとが言うようになりますかね?」と言った。
 サークの脳裏からは、1944年春ロシア戦線で戦死した息子のことが離れなかった。サークは、エーリヒ・マリーア・レマルクの小説にもとづく自作『愛する時と死する時』を、息子の人生最後の数週間の想像上の物語にし、それを苦悩と(希望と)絶望を持って描いた。戦争直後、彼はヨーロッパに復帰しようと試みたが、うまくいかなかった。彼は一年間の滞在の大半を、息子の消息を探ることに費やし、なにか情報があれば追いかけ、消息告知板を見て回った(これは『愛する時と死する時』の戦争中のドイツのシーンとして出てくる)。
 マイケル・スターンがサークの研究に先鞭をつけたその著で指摘しているように、サークの人生には不明な点が多い。サークは、自分は「20世紀の申し子」で1900年の生まれだとわたしには語っていたが、パスポートによると、じつは1897年生まれである。これはほかの談を解く鍵ともなった。サークは、第一次世界大戦中、ドイツの海軍将校として一年近くトルコで過ごしたと言っていたが、そうなると戦争が終わった1918年に、まだ十八歳だったことになってしまうからだ。1919年にミュンヘンで樹立されたバイエルン・レーテ共和国時代の知己関係も、これで説明がつく。
 ヴァイマル時代、サークはドイツの代表的な演劇演出家のひとりにのしあがった。彼が、いつも自分の映画の中心に据えようとした、色合いのはっきりしない引き裂かれた人物の描き方を磨いていったのも、演劇演出家としてである。色合いのはっきりしない人間への彼の関心は、親しくしていた友人や同僚がたくさんナチスになってしまったことでも強められていったのではないかと、わたしは思う。人間を信じることの難しさ、たとえば他人の正体や強い圧力のもとで彼らのとる行動を知ることの難しさが、サークの人生で大きな意味を持つようになった。
 サークは1940年アメリカに渡った。文化の違い、たとえばアイロニーの欠如にもかかわらず、彼はアメリカを愛した。エージェントの勧めにより、彼はその名をデトレフ・ジールクからダグラス・サークに変えたが、晩年、重病になって入院していたとき、考えが混乱してしまうことがあり(それでも精神自体は非常に自由だった)、突然、「ダグラス・サークはふたりいる。名前を変えたときにこの問題がはじまったんだ」と言い出したことがある。

<中略>

 1960年代の終わり、わたしがサークに関する本を画策しはじめたころ、彼の名はわずかに知られるだけで、ほとんど目につかない存在だった。サーク自身も十年以上も映画を撮っていなかった。批評家たちは一般にサークのことを無視していたし、なかには彼の映画を小馬鹿にする者さえいた。映画人の回想録にサークの名が出てくることも稀で、彼のことが思い出されるとしても、孤独な人間としてであった。ダグラス・サークという名を聞いて訝しく思う者もいて、「カーク・ダグラスのことじゃないんですか?」という反応も決して珍しいことではなかった。彼は死んだという噂も流れた。サークの映画、とくに『悲しみは空の彼方に』や『風と共に散る』を覚えている者はたくさんいたが、彼を監督としてまともに評価しているひとはほとんど皆無に近かった。

<中略>

 映画作家としてのサーク、人間としてのサークの再発見は刺激的なものだったし、非常に報われることでもあった。サークは愛嬌のある人間として自分の人生を振り返っただけではない。熟達した職人芸で作られ、音楽や声や光が巧妙に投入されたその映画は、アメリカや故国ドイツ、英国やフランスの映画作家たちに高く評価され、影響を与えた。彼はカルト的存在と化し、尊敬されるようになり、盛んにその名があげられるようになった。
 サークにとってこの遅ればせながらの評価は、歓迎すべきものではあったが、決定的なものというわけではなかった。彼にとってもっと重要だったのは、わたしの思うところ、次のふたつの点である。まず(これが一番重要なことなのだが)、ナチ・ドイツ時代に失ってしまった人間への信頼感を取り戻したこと。サークは英国やスイスやそのほかの国々で親しい大切な友人を得たし、こうした親交は彼の残りの人生を通じて続いた。ドイツに対する彼の幻滅感さえ、しだいに薄らいでいき、自分がヴァイマル時代のドイツと戦後ドイツの架け橋になっているという気持ちと、ナチスに破壊されてしまった愛すべきドイツ文化の全般的復興に、内心大きな満足を感じていた。もうひとつの重要な点は、ほかの知識人と意見を交換できるようになったことである。サークは演劇人であり、文学人であり、鋭い思考家であった。彼は、文学について話のできる人や、自分の思考を刺激してくれる人と話ができるようになって、ほんとうにうれしかったのである。彼の映画が再発見されたことで、逆説的にサークは映画以外の分野で知的刺激を楽しめるようになったが、これは彼にとって、長いあいだ望みながらも欠けていたものであった。


(ジョン・ハリデイ 『サーク・オン・サーク』 訳:明石政紀 INFASパブリケーションズ [INFAS BOOKS―STUDIO VOICE‐boid Library (Vol.1)] P10 )
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# by JustAChild | 2010-10-06 00:10 | Wards


ここや/そこ/あちこちで/わたしたちは/徹底的に/やる


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