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蓮實重彦   『百年恋歌』の第三話こそが真に素晴らしい

 ここで一つ、ゲームをしてみたいと思います。侯孝賢監督のもっとも素晴らしい映画は何か、ただし『非情城市』だけは挙げないという条件をゲームの規則と考えてください。そういうと、皆、妙に興奮し始めるわけです。『恋恋風塵』などの自伝三部作がもっていたどこか叙情的な感性は素晴らしいと思います。しかし、私はここで『憂鬱な楽園』と『フラワーズ・オブ・シャンハイ』と『ミレニアム・マンボ』の三作を挙げます。実は『フラワーズ・オブ・シャンハイ』がどのように優れているかということは、まだ世界的にも充分いわれていません。『憂鬱な楽園』も、好きな人はかなりいる。『ミレニアム・マンボ』もこれを無視してはいけないという人は多くいる。しかし、どこがどうよいのかはまだ語られていないのが実情です。今後、彼の映画について語る場合、このあたりが注目すべきところではないかという気がしています。

<中略>

 侯孝賢は"侠"の人で、決して素人さんには悪いことをしない人です。しかし彼が本当のところで何を考えているかというのは誰にもわかりません。彼はいまフランスで新作を撮っていますが、この映画作家がいったいどこへいくのかという興味はつきません。しかし、その前に10月12日から始まる『百年恋歌』をぜひご覧ください。この映画の最初の数ショットを見ただけで、またとない緊張感と至福感で、背中がぞくぞくするほどです。
 これは三つのエピソードからなっており、1910年代と、60年代と現代の恋物語です。三つのエピソードの男女は、いずれも同じ役者によって演じられていますが、そのいずれもが素晴らしい。にもかかわらず、もっとも侯孝賢らしさがよく出ているのは現代篇だとはっきり申し上げておきます。1966年のパートに惹かれる人がいるのは、それはまあ素人さんとしてしょうがない。それから、1911年、これは無声映画のかたちで素晴らしいに違いないのですが、しかし、侯孝賢が真に描きたかったもの、もっとも大きな野心をこめて描きたかったのは、最後の現代篇のエピソードだといえます。おそらく『憂鬱な楽園』が人々を興奮させなかったように、最後の現代のエピソードは素直に人を興奮させないかもしれません。しかし実は、「侯孝賢の新作は最後がいちばんいい」といい聞かせつつ、ここはひとつ私の騙しに乗っていただきたい。第一話はとにかくいい。ぞくぞくします。しかし、そんなことは、侯孝賢にとっては朝飯前の話なのです。『フラワーズ・オブ・シャンハイ』を思わせる第二話にもぞくぞくとした感覚がまるで夢のように拡がっていく。だが、第三話は、そのような意味では背筋に震えが走り抜けません。逆に、ああ、どうしたらいいだろう、彼はこれをどう処理するだろうという戸惑いが、見る者を強く映画へさし向けることなる。ここには、侯孝賢的な"侠"の世界が、まがまがしく拡がりだしているのです。
 あまり丁寧に見られることのなかった『憂鬱な楽園』、『フラワーズ・オブ・シャンハイ』、『ミレニアム・マンボ』などを改めて評価するために、これらの作品にこめられた潜在的な力を受け止めるにふさわしく、侯孝賢の新作『百年恋歌』を見ていただきたい。この『百年恋歌』の第三話こそが真に素晴らしいのだという私の興奮が、この中においでの100分の1の方にでも伝われば、こんな素晴らしいことはありません。


( 蓮實重彦 『映画論講義』 東京大学出版会 P253)
# by JustAChild | 2010-10-26 06:33 | Wards

蓮實重彦   世の東西を問わず、『恋恋風塵』とは世界で最も美しい題名である

 初期三作品を撮りあげた1983年ごろから、侯孝賢は、新しい仲間たちと映画をつくり始めます。名高い女流作家の朱天文が脚本を書くようになり、侯孝賢自身が、彼女と一緒に仕事をするまでは映画をつくるということに関してまったく無意識であったといっています。それから、台湾映画のニューウェイヴを支えた、中央電影公司という映画会社があります。楊徳昌といった同世代の監督たちもそこから巣立ちました。たしかに、それ以前の侯孝賢はごく普通の70年代台湾映画の流れの中にいた人であるといえます。具体的には、スクリーンサイズがシネマスコープである。また、技法としては、嬉しそうにズームをしたり、パンをしたりしている。そして、背後に流れているのは、ケニー・ビーやフォン・フェイフェイといういわゆる人気歌手の歌であり、歌謡映画といっていいと思います。『ステキな彼女』が当たったので、その直後にまったく同じキャストで『風が踊る』という歌謡映画を撮っています。この歌謡映画の成り立ちそのものは、ある意味いいかげんで、人と人がどう出会うか、昔会った人とどう再会するかというと、いつもばったり偶然なんですね。自在といえば、自在、いいかげんといえば、いいかげん。しかしキャメラを向けていくうちに、そこから次々と映画的なある抵抗力が生まれてくる。例えば『風が踊る』には、ふとドキュメンタリー的なタッチが出てきます。ある盲学校でドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読むシーンがあって、これは物語とはほとんど関係のないはずなのに、実に生き生きとした画面で、まさに撮っていることが嬉しくなって、撮っていることを自分自身の力によってさらに高めようとする感じが見えてきます。
 そして私は傑作の一つだと思っていますが、三作目の『川の流れに草は青々』は、台湾の地方都市の、文字通り川が流れていて草が青々としげっている田園地帯が舞台ですが、実はこの"青々"というところがポイントです。原題でも"青"という字が二つ重なっていますが(《在那河畔青草青》)、これが侯孝賢映画の一つの特徴で、漢字独特の喚起力を、反復によって高めているのです。世の東西を問わず、世界で最も美しい題名である『恋恋風塵』(1987)の恋恋を旧字で"戀戀"と書かれると、恋というものの深さや奥行きが二倍以上になったような気持になる。"青草青"というのも、反復によって緑をより色濃くしていく。『憂鬱な楽園』すなわち《南國再見、南國》の"南國"もsouthにあたる南という意味ももちろんありますが、侯孝賢が「南というのは、台湾の南部のことでもあるが、多くアジアにおいて、台湾そのものが南とされていた」といっていたように、"南國"という言葉自体が台湾という意味も含んでいる。そこへ、《南國再見、南國》、「さよならだけども、もう一度会おう」というタイトルをつけたのです。また、『好男好女』(1995)でも"好"という字が繰り返されています。
 彼の映画の題名には、あるくり返しによってもたらさられ漢字の喚起力を、スクリーンの上までおしひろげて行こうという意識が見られます。日本映画の題名も最近は非常にカタカナが多くなりましたが、あのように"草は青々"とか"恋恋風塵"とか、ある言葉をくり返すことによって、見事な喚起力を題名に与え、それに見合った力強い、それでいて押し付けがましいところのない画面を見せてくれる人は、侯孝賢をのぞいて誰もいません。


( 蓮實重彦 『映画論講義』 東京大学出版会 P247)
# by JustAChild | 2010-10-26 05:34 | Wards

Aloe Blacc   You Make Me Smile

Oooh
Mmm, you make me smile
Oooh,
Hey, you make me smile

I think it's safe to say
Things just haven't been going my way
No work coming in so my money is thin
And I still got bills to pay

But all in all you've been right here with me
When I'm sinking low you come through and lift me
It's nothing more than the love that you give me
That keeps me from drowning in tears

(You make me smile)
Oh, you make me smile
(you make me smile)
You come through and save the day
(you make me smile)
You make me smile
(you make me smile)
In a very special way

Everywhere I go people seem to ask me
Where'd I get my joy, why am I so happy
In these trying times when a frown is the fashion
I am beaming like the sun now how can that be
See the answer to the query is very simple
I'm always grinning from dimple to dimple
Because you love me unconditionally
My happiness is heart-shaped can't you see

Can't you see when you're gone girl
(When you're gone away from me)
I just don't know what to do
(Don't know what to do)
Because everything about you girl
(Because everything, everything, everything)
Everything revolves around you
(Revolves around you)
And want to thank you for making me smile

(You make me smile)
For making me smile
(you make me smile)
Came through and save the day
(you make me smile)
You make me smile
(you make me smile)
Oh in a very special way

(You make me smile)
You make me smile
(you make me smile)
Love the way you make me hold my head up high
(you make me smile)
Feel like I can walk in the sky
(you make me smile)
When nothing is going my way what else can I say
(you make me smile)
When I can't see the light here you come shining bright
(you make me smile)
When everything's bad and I'm feeling real sad
(you make me smile)
When I don't have the answers you always give me a chance to smile,
smile,
smile


ああ
君は僕を微笑ませてくれるんだ
ああ
ヘイ、思わずニッコリしてしまうんだ
ここのところあまりいい調子とは言えないな
仕事もこなけりゃ財布も軽い
だけど支払いは待っちゃくれない
なのに君はずっと僕と一緒にいてくれる
落ち込んでいたら僕を励ましてくれる
君の愛以上のものなんてない
だから僕は涙に溺れずにいられるんだ

(思わずニッコリしてしまう)
ああ、君といると微笑がこぼれるんだ
君が現れて一日がうまくいった
君が僕を微笑ませてくれるんだ
とっても特別な方法でね

どこに行っても聞かれるんだ
あまりに僕がハッピーだから、どこでそんな喜びを手に入れるのかって
この厳しいご時世、不機嫌にしてる方が普通なのに
僕は太陽のように顔を輝かせているけど、なんでなんだろうってね
答えは実に簡単なこと
僕はいつもえくぼを称えてニッコリ笑ってる
君が僕を無条件に愛してくれるから
僕の幸福はハート型なんだ、見えないかな

君がいない時の僕なんてさ
(君が近くにいないときは)
もうどうしていいか分からないんだ
(分からないんだ)
だって君のすべてが
(すべてが、すべてが、すべてがね)
すべてが君を中心に回ってるのさ
(君を中心に回ってる)
僕に微笑をくれて、ありがとう

(思わずニッコリしてしまう)
君は僕に微笑をくれるんだ
君が現れて一日がうまくいった
君が僕を微笑ませてくれるんだ
とっても特別な方法でね

君といると微笑がこぼれるんだ
君のおかげで僕は胸を張っていられるんだよ
空の上さえ歩ける気分さ
何もかもうまくいかないときでさえ
暗闇の中で光が見えないとき、君が光をかざしてくれる
すべてが最悪で悲しくて仕方がないと
答えが見つからないとき、君はいつも微笑む、微笑む、微笑むチャンスをくれるんだ


( Aloe Blacc 『Good Things』Tr-10「 You Make Me Smile」 Stones Throw Records 2010 )
# by JustAChild | 2010-10-25 03:02 | Wards

フレデリック・ワイズマン   私は確かにマルクス主義者ではある―もちろんグルーチョの方だが

ドキュメンタリーといいますと、しばしば、何か社会的な不正を正そうとするような映画作家のイメージをわれわれはつい想像してしまいますし、事実そのようにして優れた作品を撮った小川紳介のような人が日本にもいるわけですが、フレデリック・ワイズマンの場合は、社会的な不安を正そうとか、あるいは社会的なメッセージを世間に向かって投げかけようというような映画づくりはしておらず、まさに目の前に起こっていることを、彼は、事実はこのように推移しているのだということを、キャメラによって、あるいは録音テープによって確かめつつ、それをわれわれに見せてくれるということなのです。
 といってもこれはある一つの事態を、彼は、作品を通してといいますか、初めから終わりまで構成なしにだらだらと迫っているわけではなくて、構成をつけております。その構成は、例えば私がここでお話しているようなケースがあったとすると、私を撮り、同時にまた私を見ておられる皆さん方を撮り、それを編集によって仕立て上げていく、というかたちになっているわけですが、そのときに、彼は何をいわんとしたのか、ということを非常によく訊かれるのです。彼と一緒にこのような場を東京で持ったことがあるのですが、そこでも「あなたの作品のメッセージは何か?」と訊かれるわけです。すると、彼は、「『メッセージが問題であるなら』と、あるアメリカの偉大な哲学者はいった」―というので皆さんはノートをし始める。そして、「その偉大な哲学者とはサミュエル・ゴールドウィンという名前である。そのサミュエル・ゴールドウィンはこういった。『もしもメッセージが問題であるならば、ユニオン・パシフィックに行け』」と(場内静か)
 ……本当ならここらへんで爆笑が起こらないといけないんですけれども、「アメリカの偉大なる哲学者」といったのは、アメリカでもっとも馬鹿といわれているサミュエル・ゴールドウィンという1930年代から40年代にかけて活躍したプロデューサーの名前です。そのころ、映画を撮っているときに「メッセージなんかいらん」と彼はいって、ユニオン・パシフィックというのは、最後には鉄道会社になりましたけれども、一種の飛脚のような、馬を使って東海岸から西海岸まで往復していた通信会社のことで、それを指して「メッセージが問題であるならばユニオン・パシフィックへ行け。俺には聞くな」といったということで有名なのです。「アメリカのある有名な哲学者であるところのサミュエル・ゴールドウィンは」といったときに、私はつい笑ってしまった。そしたら彼が「しぃっ」というわけです。
 ところが、その翌日の『ジャパン・タイムス』という英語の新聞に、その通りの記事が出てしまった。それを書いているのはアメリカ人の記者です。そのアメリカ人の記者が、いまならネットで「サミュエル・ゴールドウィン」とひけば、「馬鹿なプロデューサー」って出てくるはずなのに、それをそのまま「哲学者」と書いてしまったんで大笑い、ということがあったんですが、とにかく、彼はメッセージということは考えていない。「仮にメッセージということが伝えられるのであれば、私は映画など撮らない。私が映画を撮るのは、現実がこのように機能しているんだということを、皆と一緒に考えるためだ」、というのが彼の基本的な姿勢です。「とするならば、社会的な不正についてあなたはどう考えるか」。これがまた非常によく訊かれる質問です。それに対して彼は、「私は確かにマルクス主義者ではある」という。またすごいことをいうなと驚いていますと、「もちろんそれはグルーチョの方だが」というふうに彼はいい直す。この男、真面目なようでいて酷い、相手が馬鹿だと、とことん相手を馬鹿にするようなことを平気いう、かなり酷い人であります。


( 蓮實重彦 『映画論講義』 東京大学出版会 P201)
# by JustAChild | 2010-10-25 00:25 | Wards

東浩紀   なぜ秋葉原なのか、なぜ携帯掲示板なのか、なぜ無差別なのか

 僕が昔から思っているのは、ネットとかも悪いものではなくて、ネットとかサブカルチャーとかもコミュニティとして、バッファとして効くわけですね。僕はだから、サブカルチャーとかに端的し、まったく社会とかの問題とかに関心をもたない人間ていうのは、むしろ安全だと思っているわけですよ、一貫して。なんでかというと、この国で社会についてとか、政治について本気で考えようとすると絶望しかないんですよね。選挙にもいかないでずっとゲームとかやっている奴のほうがむしろ包摂されているわけですよ、そういう意味では。

 ところが、こういう事件が起きると必ずそれがなぜか逆転して捉えられてしまって、「ゲームとかやっている奴は社会性がないから事件を起こすんだ」と。いや、それはまったく違うと。ゲームとかやってコミュニティを持っている奴はね、例えば今回でも、不幸なことに亡くなった十九歳の二人組み ― あれは四人で歩いていたわけですよね ― がいたと。で、彼らこそ実は加藤容疑者よりもおそらくディープなオタクであって、ネットとかで彼らがその直前にどんな映画を観ていたかっていうのがもうわかるんですけど、かなりちゃんとしたオタクたちですよ。彼らは四人で仲良く歩いていて、そのあとの文章は、友達の亡くなったときの悲しみとかね、全部すごく人間的なものですよ。だからサブカルチャーとかネットとかの問題では、そういう意味ではない。むしろ加藤容疑者が、こう鬱屈してしまったのはサブカルチャーとかネットとかが用意するコミュニティーすら剥奪されて、本当にナマのまま労働環境とか現実に向かい合ってしまったから起きたっていう感じが僕はします。


なぜ秋葉原なのか、なぜ携帯掲示板なのか、なぜ無差別なのか
# by JustAChild | 2010-10-14 00:14 | Wards

蓮實重彦   『百年恋歌』の第三話こそが真に素晴らしい

 ここで一つ、ゲームをしてみたいと思います。侯孝賢監督のもっとも素晴らしい映画は何か、ただし『非情城市』だけは挙げないという条件をゲームの規則と考えてください。そういうと、皆、妙に興奮し始めるわけです。『恋恋風塵』などの自伝三部作がもっていたどこか叙情的な感性は素晴らしいと思います。しかし、私はここで『憂鬱な楽園』と『フラワーズ・オブ・シャンハイ』と『ミレニアム・マンボ』の三作を挙げます。実は『フラワーズ・オブ・シャンハイ』がどのように優れているかということは、まだ世界的にも充分いわれていません。『憂鬱な楽園』も、好きな人はかなりいる。『ミレニアム・マンボ』もこれを無視してはいけないという人は多くいる。しかし、どこがどうよいのかはまだ語られていないのが実情です。今後、彼の映画について語る場合、このあたりが注目すべきところではないかという気がしています。

<中略>

 侯孝賢は"侠"の人で、決して素人さんには悪いことをしない人です。しかし彼が本当のところで何を考えているかというのは誰にもわかりません。彼はいまフランスで新作を撮っていますが、この映画作家がいったいどこへいくのかという興味はつきません。しかし、その前に10月12日から始まる『百年恋歌』をぜひご覧ください。この映画の最初の数ショットを見ただけで、またとない緊張感と至福感で、背中がぞくぞくするほどです。
 これは三つのエピソードからなっており、1910年代と、60年代と現代の恋物語です。三つのエピソードの男女は、いずれも同じ役者によって演じられていますが、そのいずれもが素晴らしい。にもかかわらず、もっとも侯孝賢らしさがよく出ているのは現代篇だとはっきり申し上げておきます。1966年のパートに惹かれる人がいるのは、それはまあ素人さんとしてしょうがない。それから、1911年、これは無声映画のかたちで素晴らしいに違いないのですが、しかし、侯孝賢が真に描きたかったもの、もっとも大きな野心をこめて描きたかったのは、最後の現代篇のエピソードだといえます。おそらく『憂鬱な楽園』が人々を興奮させなかったように、最後の現代のエピソードは素直に人を興奮させないかもしれません。しかし実は、「侯孝賢の新作は最後がいちばんいい」といい聞かせつつ、ここはひとつ私の騙しに乗っていただきたい。第一話はとにかくいい。ぞくぞくします。しかし、そんなことは、侯孝賢にとっては朝飯前の話なのです。『フラワーズ・オブ・シャンハイ』を思わせる第二話にもぞくぞくとした感覚がまるで夢のように拡がっていく。だが、第三話は、そのような意味では背筋に震えが走り抜けません。逆に、ああ、どうしたらいいだろう、彼はこれをどう処理するだろうという戸惑いが、見る者を強く映画へさし向けることなる。ここには、侯孝賢的な"侠"の世界が、まがまがしく拡がりだしているのです。
 あまり丁寧に見られることのなかった『憂鬱な楽園』、『フラワーズ・オブ・シャンハイ』、『ミレニアム・マンボ』などを改めて評価するために、これらの作品にこめられた潜在的な力を受け止めるにふさわしく、侯孝賢の新作『百年恋歌』を見ていただきたい。この『百年恋歌』の第三話こそが真に素晴らしいのだという私の興奮が、この中においでの100分の1の方にでも伝われば、こんな素晴らしいことはありません。


( 蓮實重彦 『映画論講義』 東京大学出版会 P253)
# by JustAChild | 2010-10-26 06:33 | Wards

蓮實重彦   世の東西を問わず、『恋恋風塵』とは世界で最も美しい題名である

 初期三作品を撮りあげた1983年ごろから、侯孝賢は、新しい仲間たちと映画をつくり始めます。名高い女流作家の朱天文が脚本を書くようになり、侯孝賢自身が、彼女と一緒に仕事をするまでは映画をつくるということに関してまったく無意識であったといっています。それから、台湾映画のニューウェイヴを支えた、中央電影公司という映画会社があります。楊徳昌といった同世代の監督たちもそこから巣立ちました。たしかに、それ以前の侯孝賢はごく普通の70年代台湾映画の流れの中にいた人であるといえます。具体的には、スクリーンサイズがシネマスコープである。また、技法としては、嬉しそうにズームをしたり、パンをしたりしている。そして、背後に流れているのは、ケニー・ビーやフォン・フェイフェイといういわゆる人気歌手の歌であり、歌謡映画といっていいと思います。『ステキな彼女』が当たったので、その直後にまったく同じキャストで『風が踊る』という歌謡映画を撮っています。この歌謡映画の成り立ちそのものは、ある意味いいかげんで、人と人がどう出会うか、昔会った人とどう再会するかというと、いつもばったり偶然なんですね。自在といえば、自在、いいかげんといえば、いいかげん。しかしキャメラを向けていくうちに、そこから次々と映画的なある抵抗力が生まれてくる。例えば『風が踊る』には、ふとドキュメンタリー的なタッチが出てきます。ある盲学校でドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読むシーンがあって、これは物語とはほとんど関係のないはずなのに、実に生き生きとした画面で、まさに撮っていることが嬉しくなって、撮っていることを自分自身の力によってさらに高めようとする感じが見えてきます。
 そして私は傑作の一つだと思っていますが、三作目の『川の流れに草は青々』は、台湾の地方都市の、文字通り川が流れていて草が青々としげっている田園地帯が舞台ですが、実はこの"青々"というところがポイントです。原題でも"青"という字が二つ重なっていますが(《在那河畔青草青》)、これが侯孝賢映画の一つの特徴で、漢字独特の喚起力を、反復によって高めているのです。世の東西を問わず、世界で最も美しい題名である『恋恋風塵』(1987)の恋恋を旧字で"戀戀"と書かれると、恋というものの深さや奥行きが二倍以上になったような気持になる。"青草青"というのも、反復によって緑をより色濃くしていく。『憂鬱な楽園』すなわち《南國再見、南國》の"南國"もsouthにあたる南という意味ももちろんありますが、侯孝賢が「南というのは、台湾の南部のことでもあるが、多くアジアにおいて、台湾そのものが南とされていた」といっていたように、"南國"という言葉自体が台湾という意味も含んでいる。そこへ、《南國再見、南國》、「さよならだけども、もう一度会おう」というタイトルをつけたのです。また、『好男好女』(1995)でも"好"という字が繰り返されています。
 彼の映画の題名には、あるくり返しによってもたらさられ漢字の喚起力を、スクリーンの上までおしひろげて行こうという意識が見られます。日本映画の題名も最近は非常にカタカナが多くなりましたが、あのように"草は青々"とか"恋恋風塵"とか、ある言葉をくり返すことによって、見事な喚起力を題名に与え、それに見合った力強い、それでいて押し付けがましいところのない画面を見せてくれる人は、侯孝賢をのぞいて誰もいません。


( 蓮實重彦 『映画論講義』 東京大学出版会 P247)
# by JustAChild | 2010-10-26 05:34 | Wards

Aloe Blacc   You Make Me Smile

Oooh
Mmm, you make me smile
Oooh,
Hey, you make me smile

I think it's safe to say
Things just haven't been going my way
No work coming in so my money is thin
And I still got bills to pay

But all in all you've been right here with me
When I'm sinking low you come through and lift me
It's nothing more than the love that you give me
That keeps me from drowning in tears

(You make me smile)
Oh, you make me smile
(you make me smile)
You come through and save the day
(you make me smile)
You make me smile
(you make me smile)
In a very special way

Everywhere I go people seem to ask me
Where'd I get my joy, why am I so happy
In these trying times when a frown is the fashion
I am beaming like the sun now how can that be
See the answer to the query is very simple
I'm always grinning from dimple to dimple
Because you love me unconditionally
My happiness is heart-shaped can't you see

Can't you see when you're gone girl
(When you're gone away from me)
I just don't know what to do
(Don't know what to do)
Because everything about you girl
(Because everything, everything, everything)
Everything revolves around you
(Revolves around you)
And want to thank you for making me smile

(You make me smile)
For making me smile
(you make me smile)
Came through and save the day
(you make me smile)
You make me smile
(you make me smile)
Oh in a very special way

(You make me smile)
You make me smile
(you make me smile)
Love the way you make me hold my head up high
(you make me smile)
Feel like I can walk in the sky
(you make me smile)
When nothing is going my way what else can I say
(you make me smile)
When I can't see the light here you come shining bright
(you make me smile)
When everything's bad and I'm feeling real sad
(you make me smile)
When I don't have the answers you always give me a chance to smile,
smile,
smile


ああ
君は僕を微笑ませてくれるんだ
ああ
ヘイ、思わずニッコリしてしまうんだ
ここのところあまりいい調子とは言えないな
仕事もこなけりゃ財布も軽い
だけど支払いは待っちゃくれない
なのに君はずっと僕と一緒にいてくれる
落ち込んでいたら僕を励ましてくれる
君の愛以上のものなんてない
だから僕は涙に溺れずにいられるんだ

(思わずニッコリしてしまう)
ああ、君といると微笑がこぼれるんだ
君が現れて一日がうまくいった
君が僕を微笑ませてくれるんだ
とっても特別な方法でね

どこに行っても聞かれるんだ
あまりに僕がハッピーだから、どこでそんな喜びを手に入れるのかって
この厳しいご時世、不機嫌にしてる方が普通なのに
僕は太陽のように顔を輝かせているけど、なんでなんだろうってね
答えは実に簡単なこと
僕はいつもえくぼを称えてニッコリ笑ってる
君が僕を無条件に愛してくれるから
僕の幸福はハート型なんだ、見えないかな

君がいない時の僕なんてさ
(君が近くにいないときは)
もうどうしていいか分からないんだ
(分からないんだ)
だって君のすべてが
(すべてが、すべてが、すべてがね)
すべてが君を中心に回ってるのさ
(君を中心に回ってる)
僕に微笑をくれて、ありがとう

(思わずニッコリしてしまう)
君は僕に微笑をくれるんだ
君が現れて一日がうまくいった
君が僕を微笑ませてくれるんだ
とっても特別な方法でね

君といると微笑がこぼれるんだ
君のおかげで僕は胸を張っていられるんだよ
空の上さえ歩ける気分さ
何もかもうまくいかないときでさえ
暗闇の中で光が見えないとき、君が光をかざしてくれる
すべてが最悪で悲しくて仕方がないと
答えが見つからないとき、君はいつも微笑む、微笑む、微笑むチャンスをくれるんだ


( Aloe Blacc 『Good Things』Tr-10「 You Make Me Smile」 Stones Throw Records 2010 )
# by JustAChild | 2010-10-25 03:02 | Wards

フレデリック・ワイズマン   私は確かにマルクス主義者ではある―もちろんグルーチョの方だが

ドキュメンタリーといいますと、しばしば、何か社会的な不正を正そうとするような映画作家のイメージをわれわれはつい想像してしまいますし、事実そのようにして優れた作品を撮った小川紳介のような人が日本にもいるわけですが、フレデリック・ワイズマンの場合は、社会的な不安を正そうとか、あるいは社会的なメッセージを世間に向かって投げかけようというような映画づくりはしておらず、まさに目の前に起こっていることを、彼は、事実はこのように推移しているのだということを、キャメラによって、あるいは録音テープによって確かめつつ、それをわれわれに見せてくれるということなのです。
 といってもこれはある一つの事態を、彼は、作品を通してといいますか、初めから終わりまで構成なしにだらだらと迫っているわけではなくて、構成をつけております。その構成は、例えば私がここでお話しているようなケースがあったとすると、私を撮り、同時にまた私を見ておられる皆さん方を撮り、それを編集によって仕立て上げていく、というかたちになっているわけですが、そのときに、彼は何をいわんとしたのか、ということを非常によく訊かれるのです。彼と一緒にこのような場を東京で持ったことがあるのですが、そこでも「あなたの作品のメッセージは何か?」と訊かれるわけです。すると、彼は、「『メッセージが問題であるなら』と、あるアメリカの偉大な哲学者はいった」―というので皆さんはノートをし始める。そして、「その偉大な哲学者とはサミュエル・ゴールドウィンという名前である。そのサミュエル・ゴールドウィンはこういった。『もしもメッセージが問題であるならば、ユニオン・パシフィックに行け』」と(場内静か)
 ……本当ならここらへんで爆笑が起こらないといけないんですけれども、「アメリカの偉大なる哲学者」といったのは、アメリカでもっとも馬鹿といわれているサミュエル・ゴールドウィンという1930年代から40年代にかけて活躍したプロデューサーの名前です。そのころ、映画を撮っているときに「メッセージなんかいらん」と彼はいって、ユニオン・パシフィックというのは、最後には鉄道会社になりましたけれども、一種の飛脚のような、馬を使って東海岸から西海岸まで往復していた通信会社のことで、それを指して「メッセージが問題であるならばユニオン・パシフィックへ行け。俺には聞くな」といったということで有名なのです。「アメリカのある有名な哲学者であるところのサミュエル・ゴールドウィンは」といったときに、私はつい笑ってしまった。そしたら彼が「しぃっ」というわけです。
 ところが、その翌日の『ジャパン・タイムス』という英語の新聞に、その通りの記事が出てしまった。それを書いているのはアメリカ人の記者です。そのアメリカ人の記者が、いまならネットで「サミュエル・ゴールドウィン」とひけば、「馬鹿なプロデューサー」って出てくるはずなのに、それをそのまま「哲学者」と書いてしまったんで大笑い、ということがあったんですが、とにかく、彼はメッセージということは考えていない。「仮にメッセージということが伝えられるのであれば、私は映画など撮らない。私が映画を撮るのは、現実がこのように機能しているんだということを、皆と一緒に考えるためだ」、というのが彼の基本的な姿勢です。「とするならば、社会的な不正についてあなたはどう考えるか」。これがまた非常によく訊かれる質問です。それに対して彼は、「私は確かにマルクス主義者ではある」という。またすごいことをいうなと驚いていますと、「もちろんそれはグルーチョの方だが」というふうに彼はいい直す。この男、真面目なようでいて酷い、相手が馬鹿だと、とことん相手を馬鹿にするようなことを平気いう、かなり酷い人であります。


( 蓮實重彦 『映画論講義』 東京大学出版会 P201)
# by JustAChild | 2010-10-25 00:25 | Wards

東浩紀   なぜ秋葉原なのか、なぜ携帯掲示板なのか、なぜ無差別なのか

 僕が昔から思っているのは、ネットとかも悪いものではなくて、ネットとかサブカルチャーとかもコミュニティとして、バッファとして効くわけですね。僕はだから、サブカルチャーとかに端的し、まったく社会とかの問題とかに関心をもたない人間ていうのは、むしろ安全だと思っているわけですよ、一貫して。なんでかというと、この国で社会についてとか、政治について本気で考えようとすると絶望しかないんですよね。選挙にもいかないでずっとゲームとかやっている奴のほうがむしろ包摂されているわけですよ、そういう意味では。

 ところが、こういう事件が起きると必ずそれがなぜか逆転して捉えられてしまって、「ゲームとかやっている奴は社会性がないから事件を起こすんだ」と。いや、それはまったく違うと。ゲームとかやってコミュニティを持っている奴はね、例えば今回でも、不幸なことに亡くなった十九歳の二人組み ― あれは四人で歩いていたわけですよね ― がいたと。で、彼らこそ実は加藤容疑者よりもおそらくディープなオタクであって、ネットとかで彼らがその直前にどんな映画を観ていたかっていうのがもうわかるんですけど、かなりちゃんとしたオタクたちですよ。彼らは四人で仲良く歩いていて、そのあとの文章は、友達の亡くなったときの悲しみとかね、全部すごく人間的なものですよ。だからサブカルチャーとかネットとかの問題では、そういう意味ではない。むしろ加藤容疑者が、こう鬱屈してしまったのはサブカルチャーとかネットとかが用意するコミュニティーすら剥奪されて、本当にナマのまま労働環境とか現実に向かい合ってしまったから起きたっていう感じが僕はします。


なぜ秋葉原なのか、なぜ携帯掲示板なのか、なぜ無差別なのか
# by JustAChild | 2010-10-14 00:14 | Wards


ここや/そこ/あちこちで/わたしたちは/徹底的に


by JUSTAchild

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