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ウィリアム・アイリッシュ 気持がすっとするわね――ずっと恐れつづけていたことを、いよいよやるときって

彼女は長いあいだ沈黙していた。つづいて、のろのろと頭が垂れた。
「いいわ」と、ようやく彼女は言った。「そうするわ。いまでは、進んでそうしたくなったわ。この何ヶ月、あたしは盲目だったのね。ありのままに物事を見ることができなかったんだわ。どういうわけか、これまでは、あの男のひとのことをあまり考えなかったの。あれのおかげで、どんな酷い目をみたか、なんて、自分のことで頭がいっぱいだったのね。」
 女はまた顔をあげて、彼のほうを見た。
「だから、せめて一度でも、立派なことをしてみたくなったわ――ほんの気分転換のためにね」
「いまから、それをやってもらうことになる」と、彼はきびしく約束した。「あの晩、きみが酒場で彼と会ったのは、何時だった?」
「六時十分、前の壁掛時計でみたのよ」
「きみ、それを話してくれるかね?すすんで誓言してくれるかね?」
「ええ」と、彼女は疲れきった声をだした。「それを話すわ、よろこんで証言するわ」
それにたいして、彼の返事はこうだった。
「神様、この女が彼にたいして犯した罪業を、ゆるしてやってください!」
 つづいて、変化が訪れた。彼女の内部で凍っていたものが溶けて、崩れはじめたとでもいうようだった。でなければ、彼もずっと前から気づいていたもの――彼女の表面に張りつめられ、しだいに彼女を窒息させて死に追いやろうとしていた、あの固い殻が剥がれだしたのかもしれなかった。両手がぱっと上にあがって、すでにうつ向いていた顔をおおい、そのままじっと動かなかった。物音もほとんど立てなかった。かれはそんなにはげしく震えている人間を見たことがなかった。からだの内部がばらばらにほぐれてしまうような感じだった。そのまま震えがとまらないのじゃないかと思えるほどだった。
 彼は女に話しかけなかった。バック・ミラーに映っているのは見えたが、直接、彼女のほうへは向かなかった。
 まもなく発作がおさまったのが、彼にもわかった。彼女は両手をまた下におろした。そして彼にというより、自分に話しかけている声が聞えた。
「気持がすっとするわね――ずっと恐れつづけていたことを、いよいよやるときって」


(ウィリアム・アイリッシュ 『幻の女』 [訳]:稲葉明雄 早川書房 [ハヤカワ・ミステリ文庫] P382 )
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by JustAChild | 2010-10-08 06:13 | Wards

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ウィリアム・アイリッシュ 気持がすっとするわね――ずっと恐れつづけていたことを、いよいよやるときって

彼女は長いあいだ沈黙していた。つづいて、のろのろと頭が垂れた。
「いいわ」と、ようやく彼女は言った。「そうするわ。いまでは、進んでそうしたくなったわ。この何ヶ月、あたしは盲目だったのね。ありのままに物事を見ることができなかったんだわ。どういうわけか、これまでは、あの男のひとのことをあまり考えなかったの。あれのおかげで、どんな酷い目をみたか、なんて、自分のことで頭がいっぱいだったのね。」
 女はまた顔をあげて、彼のほうを見た。
「だから、せめて一度でも、立派なことをしてみたくなったわ――ほんの気分転換のためにね」
「いまから、それをやってもらうことになる」と、彼はきびしく約束した。「あの晩、きみが酒場で彼と会ったのは、何時だった?」
「六時十分、前の壁掛時計でみたのよ」
「きみ、それを話してくれるかね?すすんで誓言してくれるかね?」
「ええ」と、彼女は疲れきった声をだした。「それを話すわ、よろこんで証言するわ」
それにたいして、彼の返事はこうだった。
「神様、この女が彼にたいして犯した罪業を、ゆるしてやってください!」
 つづいて、変化が訪れた。彼女の内部で凍っていたものが溶けて、崩れはじめたとでもいうようだった。でなければ、彼もずっと前から気づいていたもの――彼女の表面に張りつめられ、しだいに彼女を窒息させて死に追いやろうとしていた、あの固い殻が剥がれだしたのかもしれなかった。両手がぱっと上にあがって、すでにうつ向いていた顔をおおい、そのままじっと動かなかった。物音もほとんど立てなかった。かれはそんなにはげしく震えている人間を見たことがなかった。からだの内部がばらばらにほぐれてしまうような感じだった。そのまま震えがとまらないのじゃないかと思えるほどだった。
 彼は女に話しかけなかった。バック・ミラーに映っているのは見えたが、直接、彼女のほうへは向かなかった。
 まもなく発作がおさまったのが、彼にもわかった。彼女は両手をまた下におろした。そして彼にというより、自分に話しかけている声が聞えた。
「気持がすっとするわね――ずっと恐れつづけていたことを、いよいよやるときって」


(ウィリアム・アイリッシュ 『幻の女』 [訳]:稲葉明雄 早川書房 [ハヤカワ・ミステリ文庫] P382 )
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by JustAChild | 2010-10-08 06:13 | Wards


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