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ダグラス・サーク  リューディア・ブリンケンとクラウス・デトレフ

 1925年、本名をハンス・デトレフ・ジールクというサークと、妻の俳優リューディア・ブリンケンとのあいだに息子が生まれ、この子はクラウス・デトレフと名づけられた。数年後、リューディア・ブリンケンとデトレフ・ジールクは離婚。リューディア・ブリンケンはナチ信奉者となり、ヒトラーが政権の座につくと、元夫が自分の息子に会うのを禁止する法廷命令を取りつける。サークの新しい妻ヒルデ・ヤーリがユダヤ系だったからだ。リューディア・ブリンケンはクラウス・デトレフをヒトラーユーゲントに入れ、さらに子役として売り出す。クラウス・デトレフは映画俳優となり、ナチ・ドイツの代表的な子役スターにのしあがったが、サークは自分の息子に二度と会ったり話をすることができなくなってしまった。息子の姿を見るためには、この子が出演している映画を観るしかなくなったし、映画ではサークの息子がナチ少年を演じることもあった。
 ヒトラーが政権の座についた1933年、サークはナチ体制が長続きするとは考えていなかった。サークは一度ヒトラーに会ったことがあり、ヒトラーなんか大したことはないと思っていたせいでもある。まもなくサークはゲシュタポに呼ばれ、パスポートを没収されてしまう。サークをユダヤ人の妻と離婚させるために圧力をかけようとしたことも一因となっていると思われる。サーク夫人は1936年にドイツを離れるが、彼自身は残っていた。この時点では、どうにか息子を連れ出せるかもしれないと望みを抱いていたのである。1937年、サークはもう国を去らなければならないと感じたが、そのときでさえドイツを離れるのは辛いことだった。ドイツは自分の国だし、ドイツ語は自分の言葉だとサークは語る。ある日、国を去るか、それともそのまま残るかというモラルの問題について話し合っていたとき、突然サークはわたしに「ベトナム戦争中にハリウッドで活動すべきじゃなかった、とひとが言うようになりますかね?」と言った。
 サークの脳裏からは、1944年春ロシア戦線で戦死した息子のことが離れなかった。サークは、エーリヒ・マリーア・レマルクの小説にもとづく自作『愛する時と死する時』を、息子の人生最後の数週間の想像上の物語にし、それを苦悩と(希望と)絶望を持って描いた。戦争直後、彼はヨーロッパに復帰しようと試みたが、うまくいかなかった。彼は一年間の滞在の大半を、息子の消息を探ることに費やし、なにか情報があれば追いかけ、消息告知板を見て回った(これは『愛する時と死する時』の戦争中のドイツのシーンとして出てくる)。
 マイケル・スターンがサークの研究に先鞭をつけたその著で指摘しているように、サークの人生には不明な点が多い。サークは、自分は「20世紀の申し子」で1900年の生まれだとわたしには語っていたが、パスポートによると、じつは1897年生まれである。これはほかの談を解く鍵ともなった。サークは、第一次世界大戦中、ドイツの海軍将校として一年近くトルコで過ごしたと言っていたが、そうなると戦争が終わった1918年に、まだ十八歳だったことになってしまうからだ。1919年にミュンヘンで樹立されたバイエルン・レーテ共和国時代の知己関係も、これで説明がつく。
 ヴァイマル時代、サークはドイツの代表的な演劇演出家のひとりにのしあがった。彼が、いつも自分の映画の中心に据えようとした、色合いのはっきりしない引き裂かれた人物の描き方を磨いていったのも、演劇演出家としてである。色合いのはっきりしない人間への彼の関心は、親しくしていた友人や同僚がたくさんナチスになってしまったことでも強められていったのではないかと、わたしは思う。人間を信じることの難しさ、たとえば他人の正体や強い圧力のもとで彼らのとる行動を知ることの難しさが、サークの人生で大きな意味を持つようになった。
 サークは1940年アメリカに渡った。文化の違い、たとえばアイロニーの欠如にもかかわらず、彼はアメリカを愛した。エージェントの勧めにより、彼はその名をデトレフ・ジールクからダグラス・サークに変えたが、晩年、重病になって入院していたとき、考えが混乱してしまうことがあり(それでも精神自体は非常に自由だった)、突然、「ダグラス・サークはふたりいる。名前を変えたときにこの問題がはじまったんだ」と言い出したことがある。

<中略>

 1960年代の終わり、わたしがサークに関する本を画策しはじめたころ、彼の名はわずかに知られるだけで、ほとんど目につかない存在だった。サーク自身も十年以上も映画を撮っていなかった。批評家たちは一般にサークのことを無視していたし、なかには彼の映画を小馬鹿にする者さえいた。映画人の回想録にサークの名が出てくることも稀で、彼のことが思い出されるとしても、孤独な人間としてであった。ダグラス・サークという名を聞いて訝しく思う者もいて、「カーク・ダグラスのことじゃないんですか?」という反応も決して珍しいことではなかった。彼は死んだという噂も流れた。サークの映画、とくに『悲しみは空の彼方に』や『風と共に散る』を覚えている者はたくさんいたが、彼を監督としてまともに評価しているひとはほとんど皆無に近かった。

<中略>

 映画作家としてのサーク、人間としてのサークの再発見は刺激的なものだったし、非常に報われることでもあった。サークは愛嬌のある人間として自分の人生を振り返っただけではない。熟達した職人芸で作られ、音楽や声や光が巧妙に投入されたその映画は、アメリカや故国ドイツ、英国やフランスの映画作家たちに高く評価され、影響を与えた。彼はカルト的存在と化し、尊敬されるようになり、盛んにその名があげられるようになった。
 サークにとってこの遅ればせながらの評価は、歓迎すべきものではあったが、決定的なものというわけではなかった。彼にとってもっと重要だったのは、わたしの思うところ、次のふたつの点である。まず(これが一番重要なことなのだが)、ナチ・ドイツ時代に失ってしまった人間への信頼感を取り戻したこと。サークは英国やスイスやそのほかの国々で親しい大切な友人を得たし、こうした親交は彼の残りの人生を通じて続いた。ドイツに対する彼の幻滅感さえ、しだいに薄らいでいき、自分がヴァイマル時代のドイツと戦後ドイツの架け橋になっているという気持ちと、ナチスに破壊されてしまった愛すべきドイツ文化の全般的復興に、内心大きな満足を感じていた。もうひとつの重要な点は、ほかの知識人と意見を交換できるようになったことである。サークは演劇人であり、文学人であり、鋭い思考家であった。彼は、文学について話のできる人や、自分の思考を刺激してくれる人と話ができるようになって、ほんとうにうれしかったのである。彼の映画が再発見されたことで、逆説的にサークは映画以外の分野で知的刺激を楽しめるようになったが、これは彼にとって、長いあいだ望みながらも欠けていたものであった。


(ジョン・ハリデイ 『サーク・オン・サーク』 訳:明石政紀 INFASパブリケーションズ [INFAS BOOKS―STUDIO VOICE‐boid Library (Vol.1)] P10 )
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by JustAChild | 2010-10-06 00:10 | Wards

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ダグラス・サーク  リューディア・ブリンケンとクラウス・デトレフ

 1925年、本名をハンス・デトレフ・ジールクというサークと、妻の俳優リューディア・ブリンケンとのあいだに息子が生まれ、この子はクラウス・デトレフと名づけられた。数年後、リューディア・ブリンケンとデトレフ・ジールクは離婚。リューディア・ブリンケンはナチ信奉者となり、ヒトラーが政権の座につくと、元夫が自分の息子に会うのを禁止する法廷命令を取りつける。サークの新しい妻ヒルデ・ヤーリがユダヤ系だったからだ。リューディア・ブリンケンはクラウス・デトレフをヒトラーユーゲントに入れ、さらに子役として売り出す。クラウス・デトレフは映画俳優となり、ナチ・ドイツの代表的な子役スターにのしあがったが、サークは自分の息子に二度と会ったり話をすることができなくなってしまった。息子の姿を見るためには、この子が出演している映画を観るしかなくなったし、映画ではサークの息子がナチ少年を演じることもあった。
 ヒトラーが政権の座についた1933年、サークはナチ体制が長続きするとは考えていなかった。サークは一度ヒトラーに会ったことがあり、ヒトラーなんか大したことはないと思っていたせいでもある。まもなくサークはゲシュタポに呼ばれ、パスポートを没収されてしまう。サークをユダヤ人の妻と離婚させるために圧力をかけようとしたことも一因となっていると思われる。サーク夫人は1936年にドイツを離れるが、彼自身は残っていた。この時点では、どうにか息子を連れ出せるかもしれないと望みを抱いていたのである。1937年、サークはもう国を去らなければならないと感じたが、そのときでさえドイツを離れるのは辛いことだった。ドイツは自分の国だし、ドイツ語は自分の言葉だとサークは語る。ある日、国を去るか、それともそのまま残るかというモラルの問題について話し合っていたとき、突然サークはわたしに「ベトナム戦争中にハリウッドで活動すべきじゃなかった、とひとが言うようになりますかね?」と言った。
 サークの脳裏からは、1944年春ロシア戦線で戦死した息子のことが離れなかった。サークは、エーリヒ・マリーア・レマルクの小説にもとづく自作『愛する時と死する時』を、息子の人生最後の数週間の想像上の物語にし、それを苦悩と(希望と)絶望を持って描いた。戦争直後、彼はヨーロッパに復帰しようと試みたが、うまくいかなかった。彼は一年間の滞在の大半を、息子の消息を探ることに費やし、なにか情報があれば追いかけ、消息告知板を見て回った(これは『愛する時と死する時』の戦争中のドイツのシーンとして出てくる)。
 マイケル・スターンがサークの研究に先鞭をつけたその著で指摘しているように、サークの人生には不明な点が多い。サークは、自分は「20世紀の申し子」で1900年の生まれだとわたしには語っていたが、パスポートによると、じつは1897年生まれである。これはほかの談を解く鍵ともなった。サークは、第一次世界大戦中、ドイツの海軍将校として一年近くトルコで過ごしたと言っていたが、そうなると戦争が終わった1918年に、まだ十八歳だったことになってしまうからだ。1919年にミュンヘンで樹立されたバイエルン・レーテ共和国時代の知己関係も、これで説明がつく。
 ヴァイマル時代、サークはドイツの代表的な演劇演出家のひとりにのしあがった。彼が、いつも自分の映画の中心に据えようとした、色合いのはっきりしない引き裂かれた人物の描き方を磨いていったのも、演劇演出家としてである。色合いのはっきりしない人間への彼の関心は、親しくしていた友人や同僚がたくさんナチスになってしまったことでも強められていったのではないかと、わたしは思う。人間を信じることの難しさ、たとえば他人の正体や強い圧力のもとで彼らのとる行動を知ることの難しさが、サークの人生で大きな意味を持つようになった。
 サークは1940年アメリカに渡った。文化の違い、たとえばアイロニーの欠如にもかかわらず、彼はアメリカを愛した。エージェントの勧めにより、彼はその名をデトレフ・ジールクからダグラス・サークに変えたが、晩年、重病になって入院していたとき、考えが混乱してしまうことがあり(それでも精神自体は非常に自由だった)、突然、「ダグラス・サークはふたりいる。名前を変えたときにこの問題がはじまったんだ」と言い出したことがある。

<中略>

 1960年代の終わり、わたしがサークに関する本を画策しはじめたころ、彼の名はわずかに知られるだけで、ほとんど目につかない存在だった。サーク自身も十年以上も映画を撮っていなかった。批評家たちは一般にサークのことを無視していたし、なかには彼の映画を小馬鹿にする者さえいた。映画人の回想録にサークの名が出てくることも稀で、彼のことが思い出されるとしても、孤独な人間としてであった。ダグラス・サークという名を聞いて訝しく思う者もいて、「カーク・ダグラスのことじゃないんですか?」という反応も決して珍しいことではなかった。彼は死んだという噂も流れた。サークの映画、とくに『悲しみは空の彼方に』や『風と共に散る』を覚えている者はたくさんいたが、彼を監督としてまともに評価しているひとはほとんど皆無に近かった。

<中略>

 映画作家としてのサーク、人間としてのサークの再発見は刺激的なものだったし、非常に報われることでもあった。サークは愛嬌のある人間として自分の人生を振り返っただけではない。熟達した職人芸で作られ、音楽や声や光が巧妙に投入されたその映画は、アメリカや故国ドイツ、英国やフランスの映画作家たちに高く評価され、影響を与えた。彼はカルト的存在と化し、尊敬されるようになり、盛んにその名があげられるようになった。
 サークにとってこの遅ればせながらの評価は、歓迎すべきものではあったが、決定的なものというわけではなかった。彼にとってもっと重要だったのは、わたしの思うところ、次のふたつの点である。まず(これが一番重要なことなのだが)、ナチ・ドイツ時代に失ってしまった人間への信頼感を取り戻したこと。サークは英国やスイスやそのほかの国々で親しい大切な友人を得たし、こうした親交は彼の残りの人生を通じて続いた。ドイツに対する彼の幻滅感さえ、しだいに薄らいでいき、自分がヴァイマル時代のドイツと戦後ドイツの架け橋になっているという気持ちと、ナチスに破壊されてしまった愛すべきドイツ文化の全般的復興に、内心大きな満足を感じていた。もうひとつの重要な点は、ほかの知識人と意見を交換できるようになったことである。サークは演劇人であり、文学人であり、鋭い思考家であった。彼は、文学について話のできる人や、自分の思考を刺激してくれる人と話ができるようになって、ほんとうにうれしかったのである。彼の映画が再発見されたことで、逆説的にサークは映画以外の分野で知的刺激を楽しめるようになったが、これは彼にとって、長いあいだ望みながらも欠けていたものであった。


(ジョン・ハリデイ 『サーク・オン・サーク』 訳:明石政紀 INFASパブリケーションズ [INFAS BOOKS―STUDIO VOICE‐boid Library (Vol.1)] P10 )
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by JustAChild | 2010-10-06 00:10 | Wards


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