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ここや/そこ/あちこちで/わたしたちは/徹底的に/やる

タグ:リュバ・モノソファ・グリーネッツ ( 2 ) タグの人気記事

山口淑子とリュバ・モノソファ・グリーネッツ 1

 「平頂山事件」は我が家に思わぬ影響を及ぼした。中国人に知己が多く、彼らの思いを理解していた父に「敵に通じているのではないか」という疑いがかけられたのである。憲兵隊が父を拘引し取り調べた。もちろん父が炭坑襲撃事件などにかかわっているはずもなく、やがて疑いは晴れたが撫順には居づらくなった。そんなことがあって昭和八(一九三三)年、私たちは満州最大の都市、奉天に移った。撫順女学校二年、十三歳のときだった。

<中略>

 奉天の女学校に転校するはずだったが空きがなく、とりあえず奉天女子商業学校に通った。しかし、数学や簿記などが苦手な私にとってつまらない日々だった。楽しみといえば映画やお芝居を見ることぐらい。女学校で親しい友人ができる間もなく、やがて肺浸潤を患って休学することになった。
 寂しく満たされない心を癒してくれたのが、幼くして得た人生の伴走者、リュバ・モノソファ・グリーネッツだった。
 リュバを初めて知ったのは撫順時代、小学校六年の遠足のときだった。奉天に向かう列車で栗色の髪、青い瞳の少女と偶然隣り合わせになった。最初は言葉少なに、やがて日本語と中国語でおしゃべりに夢中になった。私はリュバが大事な友人になるような不思議な予感があった。別れても奉天に住む彼女と手紙をやりとりしていた。
 彼女は亡命白系ロシアのユダヤ人で、両親は「ペトロフ菓子店」を営んでいた。同い年の彼女は私を「よしこちゃん」と呼び、私はロシア式に「リュバチカ」と呼んだ。
 リュバは日本人学校に通っていたので、まるで東京の下町娘のような歯切れのいい早口の日本語をしゃべった。私が奉天に引っ越してからは毎日のように一緒に遊び、話、笑った。お互いの目の色の違いも、国籍の違いもまったく気にならなかった。真っ白な少女同士の友情が芽吹き育った。
 肺浸潤は癒えたが医師は呼吸器を鍛えろと言う。私の運動嫌いを知るリュバが勧めてくれたのが声楽だった。「お母さんの知り合いに有名なオペラ歌手がいるの。紹介してもらいましょ」。こうして私は帝政ロシアのオペラ座で活躍したというドラマティックソプラノ歌手、マダム・ポドレソフの門をたたいた。
 女性だから「ポドレソフ」ではなく「ポドレソワ」ではないかと後に言われたことがあるが、私にとっては昔も今もマダム・ポドレソフ。
 大きな体のマダムがピアノを弾きながら「発声して」と命じる。緊張した私は蚊の泣くような声でドレミ……と歌った。間もなくマダムはリュバだけを別室に呼んだ。「あの子に素質はないわ。私には教えられない」。そう言うマダムにリュバは食い下がった。長いやり取りの末、マダムは根負けして私に声楽を教えることにした。
 別室での出来事はずっと時間がたってからわかったことだが、リュバが簡単に引き下がっていたら私が歌手になることはなかっただろう。リュバはこれから先も私の人生の重要な場面に現れ、彼女自身が歴史の波にもみくちゃにされながら、ついには私の命さえ救う。

<中略>

 次の土曜日、マダムのピアノの前でシューベルトの歌曲を練習していると日本人の男性が訪ねてきた。奉天広播電台(放送局)の企画課長、東敬三と名乗った。マダムのファンだった東さんはリサイタル会場で私の歌を聴いていたのだ。「ラジオで歌ってみませんか」。マダムもリュバも勧めてくれたが、突然の話に私は身を固くした。

<中略>

 そのころ、私は父の古い友人で北京に住む華北政界の大物、藩毓桂氏のもとに義理の娘として行くことになっていた。「将来は政治家の秘書に」と考えた父が李際春将軍ととも相談して決めたことだった。
 藩氏は早稲田大学卒。国務院参議を経て冀察政務委員会政務処長の食にある親日派。藩氏の家に住み込み、秘書見習いをしながら名門ミッションスクールの翊教女学校に通うのである。
 中国の民謡や歌謡曲をアレンジした満州新歌曲十曲余りを吹き込むと、北京に向かう予定の昭和九年五月が近づいてきた。私はリュバに会いに行った。別れる前に話すことはいくらでもある。ペトロフ菓子店が見えてきた。だがその日、店先から漂ってきたのはいつものお菓子やパンの香りではなく、ただならぬ気配だった。
 玄関も窓も板が打ち付けられ、周囲を憲兵たちが固めている。私は人垣をかき分けて店に走り寄り、窓のすき間からのぞいた。家の中は家具が倒れ、引き出しが荒らされ、衣類や紙が散乱していた。
 そばかすを散らしたリュバの顔が浮かんだ。優しい両親、聡明そうな兄さん。みんなどこに行ったの? 憲兵隊に連れていかれたの? 生きているの?
 泣きじゃくる私を憲兵たちが、まるで野良犬のように追い払った。


(山口淑子 『「李香蘭」を生きて 私の履歴書』 日本経済新聞社 P20)
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by JustAChild | 2010-08-12 17:35 | Wards

山口淑子とリュバ・モノソファ・グリーネッツ 2

 昭和20年
 その年の六月二十三―二十五日、上海一豪華な大光明大戯院(グランド・シアター)でリサイタルの幕が開いた。昼夜二回、三日間のステージである。中国人が作曲した「夜来香」をモチーフに地元の上海交響楽団が演奏する。服部さんと並んで中国の有名な作曲家、陳歌辛も棒を振る。中国人の人々の期待は大きかった。そして幕が上がると、そこには早くも興奮が渦巻いていた。
 第一部が陳昌寿作曲の「水上」の演奏と「蘇州夜曲」「百蘭の歌」。第二部がヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」の演奏、西洋と中国の歌曲。陳歌辛がタクトを振った。
 第三部が「夜来香幻想曲」。白い中国服を着た私とオーケストラが輪唱のように掛け合う。続けて衣装を替え、民謡「売夜来香」のメロディーに寄り添うのは胡弓の音。白い可憐な花、夜来香が入った籠から一本を手に取って「夜来香はいかが」と台詞を言うたびに、何人かの観客がステージに駆け上がった。
 ルンバ、ワルツ、ブギウギに編曲された「夜来香」を次々に歌う。アンコールを何曲歌っても観客は帰らなかった。拍手の嵐がいまも耳に残る。
 最終日の最終公演が終わった。楽屋に帰ろうとした私を呼び止める声があった。
 「よしこちゃん、よしこちゃん」。美しい白人の女性が人込みの中から近づいてきた。
 奉天から忽然と消えたリュバが、いまそこにいる。

 それは間違いなくリュバだった。顔には昔の面影がくっきりと残っている。後ろに両親が立っていた。
 「ポスターの写真をみるとよしこちゃんそっくりなので、まさかと思ってきてみたの。どうして女優になったの? いつ上海にきたの?」
 リュバは相変わらず早口の日本語で聞く。だが聞きたいのはこっちの方だった。一体何があって奉天から一家そろって消えてしまったのか。あれから何があり、いま上海で何をしているのか。
 その夜、フランス租界にあるリュバの家に行った。応接間に入ると壁にソ連国旗とスターリンの肖像画が掛かっていた。亡命白系ロシア人と思っていたリュバの一家は、実はボルシェビキ(共産党員)だったのだ。父親はソ連共産党機関誌「プラウダ」や国営タス通信がらみの仕事をし、リュバは通訳をしていた。

<中略>

 裁判を待っている私をリュバが訪ねてきた。戦勝国民であるリュバは比較的自由に収容所に出入りできた。
 川喜多さんが調べた通り、私のスパイ容疑は晴れたのだとリュバは言った。そして「日本人と証明できればいいのよ。国籍をはっきり書いたものとか、身分証明書とか文書になったものはないの? あれば無罪放免よ。私、力になるわ」。
 その言葉に川喜多さんが膝を打った。「そうだ、北京の両親のところには日本から取り寄せた戸籍謄本があるはずだ」。在留日本人は何かのときに備えて誰もが戸籍謄本を何通か持っている。それが手に入れば日本人と証明できるかもしれない。
 「北京に行って戸籍謄本を持ってきてちょうだい」
 「わかったわ。何とか北京に出張する口実を考えるわ」
 リュバの笑顔が頼もしかった。

<中略>

 リュバからは何の連絡もなかった。北京に行く時間がないのだろうか。じりじりしていたある日、木箱が届いた。開けてみると、私が子どものころから大事にしていた日本人形が入っていた。リュバが北京の家から持ってきてくれたものに違いない。


 木箱には藤娘の人形が入っていた。懐かしいその人形を確かめたが、変わったところはない。だが、よく見ると帯が不自然に盛り上がり、指先にごわごわとした感触が伝わる。そっと帯をほどいた。
 あっ、あった。これだ。
 中から出てきたのは、ガリ版刷りの小さな紙片。佐賀県杵島郡北方村大字志久5819に本籍を持つ日本人、山口淑子の戸籍謄本だった。
 リュバは北京の両親を訪ね、戸籍謄本が必要なことを説明した。両親は思案した。下手な渡し方をしてはリュバに迷惑がかかる。そこで思いついたのが謄本を人形の帯に挟み込むことだった両親は人形を託すとき、そのことをリュバに話さなかった。
 リュバも黙って人形を預かり、上海に戻ってきた。しかし直接持ってはこなかった。ソ連国民の自分が私とつながりがあることを知られると、私に降りかかっているスパイ疑惑に油を注ぐのではないかと心配したからだった。人形は使いの人を通じて私のもとに届けられた。私は両親とリュバの細やかな心づかいに、ただ感謝した。


(山口淑子 『「李香蘭」を生きて 私の履歴書』 日本経済新聞社 P20)
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山口淑子とリュバ・モノソファ・グリーネッツ 1

 「平頂山事件」は我が家に思わぬ影響を及ぼした。中国人に知己が多く、彼らの思いを理解していた父に「敵に通じているのではないか」という疑いがかけられたのである。憲兵隊が父を拘引し取り調べた。もちろん父が炭坑襲撃事件などにかかわっているはずもなく、やがて疑いは晴れたが撫順には居づらくなった。そんなことがあって昭和八(一九三三)年、私たちは満州最大の都市、奉天に移った。撫順女学校二年、十三歳のときだった。

<中略>

 奉天の女学校に転校するはずだったが空きがなく、とりあえず奉天女子商業学校に通った。しかし、数学や簿記などが苦手な私にとってつまらない日々だった。楽しみといえば映画やお芝居を見ることぐらい。女学校で親しい友人ができる間もなく、やがて肺浸潤を患って休学することになった。
 寂しく満たされない心を癒してくれたのが、幼くして得た人生の伴走者、リュバ・モノソファ・グリーネッツだった。
 リュバを初めて知ったのは撫順時代、小学校六年の遠足のときだった。奉天に向かう列車で栗色の髪、青い瞳の少女と偶然隣り合わせになった。最初は言葉少なに、やがて日本語と中国語でおしゃべりに夢中になった。私はリュバが大事な友人になるような不思議な予感があった。別れても奉天に住む彼女と手紙をやりとりしていた。
 彼女は亡命白系ロシアのユダヤ人で、両親は「ペトロフ菓子店」を営んでいた。同い年の彼女は私を「よしこちゃん」と呼び、私はロシア式に「リュバチカ」と呼んだ。
 リュバは日本人学校に通っていたので、まるで東京の下町娘のような歯切れのいい早口の日本語をしゃべった。私が奉天に引っ越してからは毎日のように一緒に遊び、話、笑った。お互いの目の色の違いも、国籍の違いもまったく気にならなかった。真っ白な少女同士の友情が芽吹き育った。
 肺浸潤は癒えたが医師は呼吸器を鍛えろと言う。私の運動嫌いを知るリュバが勧めてくれたのが声楽だった。「お母さんの知り合いに有名なオペラ歌手がいるの。紹介してもらいましょ」。こうして私は帝政ロシアのオペラ座で活躍したというドラマティックソプラノ歌手、マダム・ポドレソフの門をたたいた。
 女性だから「ポドレソフ」ではなく「ポドレソワ」ではないかと後に言われたことがあるが、私にとっては昔も今もマダム・ポドレソフ。
 大きな体のマダムがピアノを弾きながら「発声して」と命じる。緊張した私は蚊の泣くような声でドレミ……と歌った。間もなくマダムはリュバだけを別室に呼んだ。「あの子に素質はないわ。私には教えられない」。そう言うマダムにリュバは食い下がった。長いやり取りの末、マダムは根負けして私に声楽を教えることにした。
 別室での出来事はずっと時間がたってからわかったことだが、リュバが簡単に引き下がっていたら私が歌手になることはなかっただろう。リュバはこれから先も私の人生の重要な場面に現れ、彼女自身が歴史の波にもみくちゃにされながら、ついには私の命さえ救う。

<中略>

 次の土曜日、マダムのピアノの前でシューベルトの歌曲を練習していると日本人の男性が訪ねてきた。奉天広播電台(放送局)の企画課長、東敬三と名乗った。マダムのファンだった東さんはリサイタル会場で私の歌を聴いていたのだ。「ラジオで歌ってみませんか」。マダムもリュバも勧めてくれたが、突然の話に私は身を固くした。

<中略>

 そのころ、私は父の古い友人で北京に住む華北政界の大物、藩毓桂氏のもとに義理の娘として行くことになっていた。「将来は政治家の秘書に」と考えた父が李際春将軍ととも相談して決めたことだった。
 藩氏は早稲田大学卒。国務院参議を経て冀察政務委員会政務処長の食にある親日派。藩氏の家に住み込み、秘書見習いをしながら名門ミッションスクールの翊教女学校に通うのである。
 中国の民謡や歌謡曲をアレンジした満州新歌曲十曲余りを吹き込むと、北京に向かう予定の昭和九年五月が近づいてきた。私はリュバに会いに行った。別れる前に話すことはいくらでもある。ペトロフ菓子店が見えてきた。だがその日、店先から漂ってきたのはいつものお菓子やパンの香りではなく、ただならぬ気配だった。
 玄関も窓も板が打ち付けられ、周囲を憲兵たちが固めている。私は人垣をかき分けて店に走り寄り、窓のすき間からのぞいた。家の中は家具が倒れ、引き出しが荒らされ、衣類や紙が散乱していた。
 そばかすを散らしたリュバの顔が浮かんだ。優しい両親、聡明そうな兄さん。みんなどこに行ったの? 憲兵隊に連れていかれたの? 生きているの?
 泣きじゃくる私を憲兵たちが、まるで野良犬のように追い払った。


(山口淑子 『「李香蘭」を生きて 私の履歴書』 日本経済新聞社 P20)
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by JustAChild | 2010-08-12 17:35 | Wards

山口淑子とリュバ・モノソファ・グリーネッツ 2

 昭和20年
 その年の六月二十三―二十五日、上海一豪華な大光明大戯院(グランド・シアター)でリサイタルの幕が開いた。昼夜二回、三日間のステージである。中国人が作曲した「夜来香」をモチーフに地元の上海交響楽団が演奏する。服部さんと並んで中国の有名な作曲家、陳歌辛も棒を振る。中国人の人々の期待は大きかった。そして幕が上がると、そこには早くも興奮が渦巻いていた。
 第一部が陳昌寿作曲の「水上」の演奏と「蘇州夜曲」「百蘭の歌」。第二部がヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」の演奏、西洋と中国の歌曲。陳歌辛がタクトを振った。
 第三部が「夜来香幻想曲」。白い中国服を着た私とオーケストラが輪唱のように掛け合う。続けて衣装を替え、民謡「売夜来香」のメロディーに寄り添うのは胡弓の音。白い可憐な花、夜来香が入った籠から一本を手に取って「夜来香はいかが」と台詞を言うたびに、何人かの観客がステージに駆け上がった。
 ルンバ、ワルツ、ブギウギに編曲された「夜来香」を次々に歌う。アンコールを何曲歌っても観客は帰らなかった。拍手の嵐がいまも耳に残る。
 最終日の最終公演が終わった。楽屋に帰ろうとした私を呼び止める声があった。
 「よしこちゃん、よしこちゃん」。美しい白人の女性が人込みの中から近づいてきた。
 奉天から忽然と消えたリュバが、いまそこにいる。

 それは間違いなくリュバだった。顔には昔の面影がくっきりと残っている。後ろに両親が立っていた。
 「ポスターの写真をみるとよしこちゃんそっくりなので、まさかと思ってきてみたの。どうして女優になったの? いつ上海にきたの?」
 リュバは相変わらず早口の日本語で聞く。だが聞きたいのはこっちの方だった。一体何があって奉天から一家そろって消えてしまったのか。あれから何があり、いま上海で何をしているのか。
 その夜、フランス租界にあるリュバの家に行った。応接間に入ると壁にソ連国旗とスターリンの肖像画が掛かっていた。亡命白系ロシア人と思っていたリュバの一家は、実はボルシェビキ(共産党員)だったのだ。父親はソ連共産党機関誌「プラウダ」や国営タス通信がらみの仕事をし、リュバは通訳をしていた。

<中略>

 裁判を待っている私をリュバが訪ねてきた。戦勝国民であるリュバは比較的自由に収容所に出入りできた。
 川喜多さんが調べた通り、私のスパイ容疑は晴れたのだとリュバは言った。そして「日本人と証明できればいいのよ。国籍をはっきり書いたものとか、身分証明書とか文書になったものはないの? あれば無罪放免よ。私、力になるわ」。
 その言葉に川喜多さんが膝を打った。「そうだ、北京の両親のところには日本から取り寄せた戸籍謄本があるはずだ」。在留日本人は何かのときに備えて誰もが戸籍謄本を何通か持っている。それが手に入れば日本人と証明できるかもしれない。
 「北京に行って戸籍謄本を持ってきてちょうだい」
 「わかったわ。何とか北京に出張する口実を考えるわ」
 リュバの笑顔が頼もしかった。

<中略>

 リュバからは何の連絡もなかった。北京に行く時間がないのだろうか。じりじりしていたある日、木箱が届いた。開けてみると、私が子どものころから大事にしていた日本人形が入っていた。リュバが北京の家から持ってきてくれたものに違いない。


 木箱には藤娘の人形が入っていた。懐かしいその人形を確かめたが、変わったところはない。だが、よく見ると帯が不自然に盛り上がり、指先にごわごわとした感触が伝わる。そっと帯をほどいた。
 あっ、あった。これだ。
 中から出てきたのは、ガリ版刷りの小さな紙片。佐賀県杵島郡北方村大字志久5819に本籍を持つ日本人、山口淑子の戸籍謄本だった。
 リュバは北京の両親を訪ね、戸籍謄本が必要なことを説明した。両親は思案した。下手な渡し方をしてはリュバに迷惑がかかる。そこで思いついたのが謄本を人形の帯に挟み込むことだった両親は人形を託すとき、そのことをリュバに話さなかった。
 リュバも黙って人形を預かり、上海に戻ってきた。しかし直接持ってはこなかった。ソ連国民の自分が私とつながりがあることを知られると、私に降りかかっているスパイ疑惑に油を注ぐのではないかと心配したからだった。人形は使いの人を通じて私のもとに届けられた。私は両親とリュバの細やかな心づかいに、ただ感謝した。


(山口淑子 『「李香蘭」を生きて 私の履歴書』 日本経済新聞社 P20)
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