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ヴィットリオ・ストラーロ  私たちは過去のすべての撮影者を代表している

ストラーロ 『暗殺のオペラ』では基本的なアプローチはストーリーそのものが指示してくれていた。架空の物語でしたが、本当にあった話として表現しようとした。ある小さな町が物語の舞台だったので、その狭い地域をひとつの巨大なステージとして表そうというのが私たちの考え方だった。使おうとしたのは強烈でかつ純粋な色彩でした。ベルトルッチとの最初の映画でした。この映画の準備のためにミラノやローマのような大都会を出て、初めて田舎に行った時のすばらしさといったらなかった。都会では、煙や霧がフィルターのような作用をするので、物の本来の色が見えない。真っ赤な夕焼けや、青々とした水や、緑の草原が実際のところよく見えていないのです。澄んだ空気の中で、自然の純粋な色を見た時は、何とも言えない感動と強烈な印象を受けた。都会の騒音に邪魔されずに音を聞くこともすばらしかった。いつも車やエアコンやテレビなどの音をひっきりなしに耳にしているので、音を聞く能力が失われているけれど、そういう雑音を取り除くと、にわかに木の葉の落ちる音、木々の間を吹き抜ける風の音が聞こえてくる。これは大きな発見でした。『暗殺のオペラ』のあのルックはこういう経験から出たものです。
 私たちは現代の撮影者として、過去のすべての撮影者を代表している。現在に至るまでのありとあらゆる仕事の集積があって、はじめて現在の私たちがあるわけです。しかし、さらにその先に絵画の歴史がある。洞穴の壁に描かれた最初の落書き以来、古代エジプトの絵画以来、ピエロ・デラ・フランチェスカ以来、それぞれ独自の様式で、ストーリーや形態を個人の感情として表現するさまざまなやり方があらわれてきた。私たちの意識するしないにかかわらず、デザインしたり写真を写したり映画を撮ったりする時、それはこれまでの二千年の歴史をバックボーンとして表現しているということなのです。ですから私たちはこれまでになされたものを意識している必要がある。画家に過去のある様式と同じに絵を描いてくれというのは間違っていると思うし、ある撮影者のほかの映画と同じスタイルで撮影しろというのも間違っている。そんなことは絶対に出来ることじゃない。まったく同じような形で、同じ要素、同じ歴史が繰り返されることなどありえないからです。でも、どの方向に進むか、何をやりたいのか自分ではっきり知るために過去の作品を参考にすることはできます。

――リファレンスとしう形でのみ存在するということですね。

ストラーロ 参考にするものがあると、こうではなくああだと私たちに方向付けを与えてくれる。ですから文化や歴史に関する知識、それに自分自身の経験が大切になる。絵だけではなくて、演劇だとか、今こうして話し合っていることも大事なことなのです。あなたが手にしておられる書類が今このテーブルに影を落としていますが、これも私にとって参考になっている。私の心に影響を与えているかもしれないのです。どんなふうにか、あるいはなぜだか、またいつなのかはわかりませんが、これがまた記憶によみがえらないとは言えないのです。


(デニス・シェファー、ラリー・サルヴァート 『マスターズ・オブ・ライト アメリカン・シネマの撮影監督たち』  訳:高間賢治 他 フィルムアート社 P257)
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by JustAChild | 2010-09-26 18:21 | Wards

ヴィットリオ・ストラーロ  『レッズ』とキャメラマン・ユニオン

――ウォーレン・ビーティの映画『レッズ』についてですが、あれには、大変な時間とエネルギーを注ぎ込まれましたね。ところがあと5日で終了というところでストップが出た。撮影がハリウッドで行われているからということで、ユニオンが自分たちの管轄内であたなに仕事をさせまいと妨害したわけなんですけれど*、ちょうど今お話していることとかかわってきますね。ユニオンは誰か他の人があなたに代わって撮り上げる、それでも結果は同じだと言っているんですね!どのみち、ルックは同じに出来上がると言っているんですが。

ストラーロ 私はアメリカ撮影監督協会にあてて、次のような手紙を書きました――「思想、あるいは直感的洞察を文学、美術、音楽、写真に変換させる創造性を持つ人のことを"作家"と言えるのであれば、また、写真が光の文学であるならば、そして撮影者とは、その経験、感受性、知性、感情、といったものを加味させながら、光、影、トーン、色を用いて与えられた仕事に自己のスタイルと個性の刻印を刻む作家である、というのが正しいとするならば、一国の撮影者を代表するユニオンが、他国の撮影者を代表する者によってなされた撮影の大切な最終仕上げの段階になって妨害を加えるなどということが、良心があるならばできることでしょうか――しかも1年以上かかわってきた仕事に対してです。
 それはまるで、作家に対して、その著作の終章を書き上げさせないこと、画家に対して最後のひと筆を加えさせないこと、作曲家に対して"フィナーレ"の完成を拒否することと同じではありませんか。このことは今日まで撮影者の芸術性と地位を高めるためになされてきた努力の核心を攻撃するものです。映画の撮影監督は表面に出ない技術者に過ぎず、いつでも好きな時に別の技術者と取り替えることができ、その映画にその人が注ぎ込もうとする創造の努力や個々のヴィジョンが突然侵害されてもどうしようもなかった昔に逆戻りさせることです。
 これは、その作品の作家たる全世界の撮影者に敵対する行為です。問題になっている、当のユニオンの全会員の利益に敵対する行為です。"光の文学のマジック"――撮影に敵対する行為なのです。」

――説得力のあるご意見ですね。

ストラーロ 撮影者の仕事を守ると言いながら、一方で私たちを機械の部品みたいに取り替えることができると考えているなどというのは、気狂い沙汰です。今までにこんなにがっかりしたことはありません。露出計をてにすることもできなかったし、13ヶ月間も力を合わせて取り組んできた映画のキャメラを覗くことさえできなくなったのです。


*ユニオンに加入するように説得されたが、ハリウッドに興味のないストラーロはそれを無視して帰国してしまった。だからその後に撮影された『ワン・フロム・ザ・ハート』ではストラーロは撮影監督のタイトルを与えられていない。


(デニス・シェファー、ラリー・サルヴァート 『マスターズ・オブ・ライト アメリカン・シネマの撮影監督たち』  訳:高間賢治 他 フィルムアート社 P267)
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by JustAChild | 2010-09-12 02:08 | Wards

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ヴィットリオ・ストラーロ  私たちは過去のすべての撮影者を代表している

ストラーロ 『暗殺のオペラ』では基本的なアプローチはストーリーそのものが指示してくれていた。架空の物語でしたが、本当にあった話として表現しようとした。ある小さな町が物語の舞台だったので、その狭い地域をひとつの巨大なステージとして表そうというのが私たちの考え方だった。使おうとしたのは強烈でかつ純粋な色彩でした。ベルトルッチとの最初の映画でした。この映画の準備のためにミラノやローマのような大都会を出て、初めて田舎に行った時のすばらしさといったらなかった。都会では、煙や霧がフィルターのような作用をするので、物の本来の色が見えない。真っ赤な夕焼けや、青々とした水や、緑の草原が実際のところよく見えていないのです。澄んだ空気の中で、自然の純粋な色を見た時は、何とも言えない感動と強烈な印象を受けた。都会の騒音に邪魔されずに音を聞くこともすばらしかった。いつも車やエアコンやテレビなどの音をひっきりなしに耳にしているので、音を聞く能力が失われているけれど、そういう雑音を取り除くと、にわかに木の葉の落ちる音、木々の間を吹き抜ける風の音が聞こえてくる。これは大きな発見でした。『暗殺のオペラ』のあのルックはこういう経験から出たものです。
 私たちは現代の撮影者として、過去のすべての撮影者を代表している。現在に至るまでのありとあらゆる仕事の集積があって、はじめて現在の私たちがあるわけです。しかし、さらにその先に絵画の歴史がある。洞穴の壁に描かれた最初の落書き以来、古代エジプトの絵画以来、ピエロ・デラ・フランチェスカ以来、それぞれ独自の様式で、ストーリーや形態を個人の感情として表現するさまざまなやり方があらわれてきた。私たちの意識するしないにかかわらず、デザインしたり写真を写したり映画を撮ったりする時、それはこれまでの二千年の歴史をバックボーンとして表現しているということなのです。ですから私たちはこれまでになされたものを意識している必要がある。画家に過去のある様式と同じに絵を描いてくれというのは間違っていると思うし、ある撮影者のほかの映画と同じスタイルで撮影しろというのも間違っている。そんなことは絶対に出来ることじゃない。まったく同じような形で、同じ要素、同じ歴史が繰り返されることなどありえないからです。でも、どの方向に進むか、何をやりたいのか自分ではっきり知るために過去の作品を参考にすることはできます。

――リファレンスとしう形でのみ存在するということですね。

ストラーロ 参考にするものがあると、こうではなくああだと私たちに方向付けを与えてくれる。ですから文化や歴史に関する知識、それに自分自身の経験が大切になる。絵だけではなくて、演劇だとか、今こうして話し合っていることも大事なことなのです。あなたが手にしておられる書類が今このテーブルに影を落としていますが、これも私にとって参考になっている。私の心に影響を与えているかもしれないのです。どんなふうにか、あるいはなぜだか、またいつなのかはわかりませんが、これがまた記憶によみがえらないとは言えないのです。


(デニス・シェファー、ラリー・サルヴァート 『マスターズ・オブ・ライト アメリカン・シネマの撮影監督たち』  訳:高間賢治 他 フィルムアート社 P257)
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by JustAChild | 2010-09-26 18:21 | Wards

ヴィットリオ・ストラーロ  『レッズ』とキャメラマン・ユニオン

――ウォーレン・ビーティの映画『レッズ』についてですが、あれには、大変な時間とエネルギーを注ぎ込まれましたね。ところがあと5日で終了というところでストップが出た。撮影がハリウッドで行われているからということで、ユニオンが自分たちの管轄内であたなに仕事をさせまいと妨害したわけなんですけれど*、ちょうど今お話していることとかかわってきますね。ユニオンは誰か他の人があなたに代わって撮り上げる、それでも結果は同じだと言っているんですね!どのみち、ルックは同じに出来上がると言っているんですが。

ストラーロ 私はアメリカ撮影監督協会にあてて、次のような手紙を書きました――「思想、あるいは直感的洞察を文学、美術、音楽、写真に変換させる創造性を持つ人のことを"作家"と言えるのであれば、また、写真が光の文学であるならば、そして撮影者とは、その経験、感受性、知性、感情、といったものを加味させながら、光、影、トーン、色を用いて与えられた仕事に自己のスタイルと個性の刻印を刻む作家である、というのが正しいとするならば、一国の撮影者を代表するユニオンが、他国の撮影者を代表する者によってなされた撮影の大切な最終仕上げの段階になって妨害を加えるなどということが、良心があるならばできることでしょうか――しかも1年以上かかわってきた仕事に対してです。
 それはまるで、作家に対して、その著作の終章を書き上げさせないこと、画家に対して最後のひと筆を加えさせないこと、作曲家に対して"フィナーレ"の完成を拒否することと同じではありませんか。このことは今日まで撮影者の芸術性と地位を高めるためになされてきた努力の核心を攻撃するものです。映画の撮影監督は表面に出ない技術者に過ぎず、いつでも好きな時に別の技術者と取り替えることができ、その映画にその人が注ぎ込もうとする創造の努力や個々のヴィジョンが突然侵害されてもどうしようもなかった昔に逆戻りさせることです。
 これは、その作品の作家たる全世界の撮影者に敵対する行為です。問題になっている、当のユニオンの全会員の利益に敵対する行為です。"光の文学のマジック"――撮影に敵対する行為なのです。」

――説得力のあるご意見ですね。

ストラーロ 撮影者の仕事を守ると言いながら、一方で私たちを機械の部品みたいに取り替えることができると考えているなどというのは、気狂い沙汰です。今までにこんなにがっかりしたことはありません。露出計をてにすることもできなかったし、13ヶ月間も力を合わせて取り組んできた映画のキャメラを覗くことさえできなくなったのです。


*ユニオンに加入するように説得されたが、ハリウッドに興味のないストラーロはそれを無視して帰国してしまった。だからその後に撮影された『ワン・フロム・ザ・ハート』ではストラーロは撮影監督のタイトルを与えられていない。


(デニス・シェファー、ラリー・サルヴァート 『マスターズ・オブ・ライト アメリカン・シネマの撮影監督たち』  訳:高間賢治 他 フィルムアート社 P267)
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by JustAChild | 2010-09-12 02:08 | Wards


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