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ここや/そこ/あちこちで/わたしたちは/徹底的に/やる

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梶原金八

 ここにもう一通の手紙がある。小石栄一監督が、昭和五十六年八月二十三日に、ぼくの質問に答えて書いて下さったものである。質問は「鳴滝組」が、二回目の作品「勝鬨」を書いたときの本当のいきさつや、執筆状況についてである。それについての伝説みたいなものはいろいろあるけれど、「勝鬨」を監督した小石栄一監督(当時数えの三十一歳)の側からの発言が皆無なので、この際お聞きしてつき合わせておきたかったからである。お許しを願って、お手紙中のその部分を、ここに紹介させてもらうことにする。次の通りである。
「昭和七年頃、右太プロで、『十三番目の同志』『家賃と娘と髯浪人』を撮った後、昭和八年頃、大日本自由映画で前進座の第一回作品『段七しぐれ』を撮って、それから炭坑地帯の記録映画をやって、右太プロに帰って『足軽突撃隊』や『爆走する退屈男』や『武者絵崩れ』等というのを撮っています。
 作品名をあげたのは、当時私がマルクス・エンゲルスに傾倒し、プロキノにシンパの形で関係したりしていたものだからです。しかしそんな世界は来そうもないので、思想的方向を失って、昭和九年は、競馬などやって憂さ晴らしをしているのを皆が心配して、ことに浩ちゃん(稲垣浩)が心配して、七月に社堂やんが『足軽出世譚』を終えるのを待って彼と相談して、千恵さんに更に相談――、どや、千恵プロ一本撮らんか――と言う話になった。
 そこで脚本はと言うことになるわけです……。」

 やはり「勝鬨」も「二百十日」と同じく、仕事をしていない友人のため、仕事のチャンスを作ろうとする友情からであったわけである。
手紙にある「それを皆が心配して」の皆は、この場合、稲垣浩、山中貞雄、八尋不二、滝沢英輔の四人である。手紙には同監督と四人との関係が簡潔に述べられてある。山中貞雄とのところは、ずっと先に引用したから、ここでは略して――
「浩ちゃんは、私がマキノで四本撮って松竹へ帰ったときに、林長二郎(長谷川一夫)の『怪盗沙弥麿』を助監督として手伝ってくれました。八尋君とは彼の第一回の脚本『学生五人男』が私の第一回作品であり、且つ同県人です。憲坊(滝沢英輔)は俳優として私の現代劇に出演しています。そんなわけで皆が私に温く期待していてくれたことも事実です。
『勝鬨』は千恵さんの遊び宿『さくら家』で、以上の四人と私が、交代で書きました。手のあいている者は休むことになっているのに、隣室で花札をひいて遊んでいるので、『おい、早う交代しろ』と怒鳴ったりしたのを覚えています。話のイニシアチブをとっているのはいつも社堂やんでした。不二でも浩ちゃんでもありません。またその話が、八尋君の持ちだしたものか、浩ちゃんの言い出しか、社堂やんが『どうや、こんな話……』と例の如き口調で話し出したのか――、自分が撮った作品でありながら思い出せないのは、いろんな意味で申し訳ないです。
 そうしてこの『勝鬨』が、梶原金八という名のはじまりになるのですが、『梶原』は、東大の梶原――」
 と、ここで、途中ではあるがちょっと解説する。「梶原」はもう「二百十日」のときからで、その由来も、集団の草分けのひとり稲垣浩が昭和十三年の『シナリオ・臨時増刊』における一文『山中と梶原金八』で明らかにしている。すなわち「当時、六大学野球で帝大の梶原(英夫)君が七割何分かの打撃率をもってリーディング・ヒッターであった処から、『これは十本のうち七本は当たる』という山中の発案」であったのである。問題は金八である。どうして金四郎が金八になったのか。人数合わせで行くなら金五となるはずである。手紙の小石監督によれば、こともなげに、次の通りである。
「最初、二ノ宮金次郎のキンジローをとって金次郎だったのですが、金次郎は一寸おかしいな、それじゃ末広がりの金八ではどうや、という何でもない雑談のうちに『梶原金八』と決まったのです。決して八人居たから金八ではありません。八人はあとで、つじつまを合わせて八人にしたのでしょう。」

『映画監督 山中貞雄』 加藤泰 キネマ旬報社 P218
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by JustAChild | 2010-08-05 06:04 | Wards

加藤泰   そして山中に赤紙(召集令状)が来たのを知らされた

 八月二十五日が来た。
 完成した「人情紙風船」の封切日であった。ぼくは、渋谷の道玄坂の、まだ真新しかった東横映画劇場(いまの渋谷東宝)に出かけて、見た。番組はワーナー映画、ウィリアム・ディターリ監督、ケイ・フランシス、エロール・フリン主演の「沙漠の朝」との二本立てだった。冷房のよく利いた、掃除のよく行きとどいた、五十銭均一の、コセコセしていない映画館での快適な鑑賞だった。
 映画館を出て、同じ並びをもう少し行ったところの古本屋を素見して、いまみたいな、あんなデコデコ、ギタギタ、デパートの縁日みたいでなかった坂道の商店街を戻って、田舎の駅みたいだった渋谷駅と八公の銅像を右に見て、山の手線のガードをくぐった右側の、地方の県庁所在地のの百貨店くらいだった東横デパート(いまの東急東横百貨店)の食堂で、金五十銭也の支那定食(いまならさしづめ中華定食)を食って、市街電車には乗らず、夕日に赤い宮益坂のケトバシ屋を左に見ながらブラブラ歩いて青山南町の家に帰った。山中貞雄も滝沢英輔も、まだ帰っていなかった。そして山中に赤紙(召集令状)が来たのを知らされた。
 掛け値なしの仮住まいで、電話などもなく、ぼくにとくに知らせようとする人もなかったはずのあのとき、だれが、どのようにして知らせてくれたのか、その辺の覚えは、もうまったくの空白になってしまったが、とにかくぼくは知らされた。その年は六月四日に「新人近衛」「未知数魅力」で、軍部からも政党からも財界からも国民からも歓迎された近衛内閣が成立していたが、国民の期待は裏切られ、盧溝橋事件勃発、それを引き金にしての宣戦なき戦争「北支事変」「上海事変」、それがやがて不拡大方針による拡大を重ねて「支那事変」へと雪崩込もうとしていた年だった。山中は、一年志願の陸軍歩兵伍長であった。
 山中貞雄が滝沢英輔とともに帰って来たのは、あくる日だった。無論もう赤紙のことは知っていて、それから、何か、ウワーとなって、人が来て、二人とも出て行って、また人が来て、二人が戻って、壮行会があったらしくてテンテコ舞いのようだった。ぼくは何もすることがなかった。何かしたい気だったが、手が出せず、見守るばかりだった。山中とは何も話す時を持てなかった。そして山中は滝沢英輔やみんなに囲まれて、応召の地、残暑の京都に帰って行った。三月、もう戻るまいと心に定め、あとにして来た京都へであった。その立つ間際の倉皇の間、ちょっとのすきを見つけた山中は、あの三白眼でジロッとぼくを呼んで、人のいない隅っこで、「お前のこと、あと憲坊に頼んだから……。ええな」、早口にそれだけ言って、みんなのほうに戻って行った。それが、この世で山中から聞けた最後の言葉となった。

<中略>

 だが、本当をいうとぼくはあまりよく山中貞雄のことを知ってはいないのだ。なぜと言って、ぼくが彼と起居を共にしたのは、彼が監督昇進第一回作品「抱寝の長脇差」を発表した当時の一年余りと最後の「人情紙風船」のころの東京・青山南町一丁目の家での一ヶ月余りの暮らしだけなのだ。本当によく彼を知る者は、その映画界以前は父母、兄や姉、学校友達、先生たち、映画の人となってからは同期の友、先輩たち、上役たち、作品のスタッフ、俳優諸君、ファン、研究家、そうしてその中から、やがて生涯の友、心の友となり、交わりを厚くした人たちこそではなかろうか。ぼくは、この本は、可能な限りその人たちが残した話や書いたものを渉猟して書いた。文中のその人たちの年齢は当時の習慣に従って数え年とした。
 一つ、青山南町の家でのことを落としていた。応召の山中、彼を送って京都まで共に行く滝沢英輔たち、みんな潮を引くように去ってしまったあとだった。ひとり、留守番で残されたぼくは、山中が部屋にしていた奥に行って、書架を見てたたずんだ。蝉の声が耳立って腋の汗に気がついた。書架には講談社の『評釈江戸文学叢書』の全冊と、三田村鳶魚の本数冊と、月に一冊ずつ来るはずだった『古事類苑』と、道玄坂の古本屋で見つけて、金だけ払ってきて、ぼくに取りに行かせた『円朝全集』の完本とが、ポイと突っこまれてあった。山中はそれらを、総朱の机に広げて読むではなく、人が来なかったり、滝沢英輔との馬鹿ッ話に飽いた時など、二つ折りの座蒲団枕に、パンツ一丁くらいで寝ころんで読んでいたものだった。ぼくは、坐って、三田村鳶魚の何かに手を出しかけた。明けっぱなしだった玄関で声がした。女の声だった。ぼくは着たっきり雀の絣のひとえと、しわで細くなった木綿の兵児帯だった。それでノソノソ玄関に出て行った。パーッとその目に華やかなものが飛びこんだ。小柄な、目のパッチリした丸ポチャの、この世にこんな綺麗な女がいるのかと思うような女がそこに立っていた。その母親らしい年輩の婦人がその横に立っていた。「山中さんは……?」とその年輩が口をきいた。ぼくは飛び上がって坐って、シドロモドロで、「もう出かけた」という意味のことを口走ったようだった。綺麗で若い方が、その大きな、鈴を張ったような目をしばたたかせ、何か言って急いで、丁寧に腰を折って、二人は去った。ぼくは急に着たっきり雀と兵児帯が恥ずかしくなった。そして、ああ、深水藤子だったと気がついた。


(加藤泰 『映画監督 山中貞雄』 キネマ旬報社 P15―19)
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by JustAChild | 2010-08-04 06:50 | Wards

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梶原金八

 ここにもう一通の手紙がある。小石栄一監督が、昭和五十六年八月二十三日に、ぼくの質問に答えて書いて下さったものである。質問は「鳴滝組」が、二回目の作品「勝鬨」を書いたときの本当のいきさつや、執筆状況についてである。それについての伝説みたいなものはいろいろあるけれど、「勝鬨」を監督した小石栄一監督(当時数えの三十一歳)の側からの発言が皆無なので、この際お聞きしてつき合わせておきたかったからである。お許しを願って、お手紙中のその部分を、ここに紹介させてもらうことにする。次の通りである。
「昭和七年頃、右太プロで、『十三番目の同志』『家賃と娘と髯浪人』を撮った後、昭和八年頃、大日本自由映画で前進座の第一回作品『段七しぐれ』を撮って、それから炭坑地帯の記録映画をやって、右太プロに帰って『足軽突撃隊』や『爆走する退屈男』や『武者絵崩れ』等というのを撮っています。
 作品名をあげたのは、当時私がマルクス・エンゲルスに傾倒し、プロキノにシンパの形で関係したりしていたものだからです。しかしそんな世界は来そうもないので、思想的方向を失って、昭和九年は、競馬などやって憂さ晴らしをしているのを皆が心配して、ことに浩ちゃん(稲垣浩)が心配して、七月に社堂やんが『足軽出世譚』を終えるのを待って彼と相談して、千恵さんに更に相談――、どや、千恵プロ一本撮らんか――と言う話になった。
 そこで脚本はと言うことになるわけです……。」

 やはり「勝鬨」も「二百十日」と同じく、仕事をしていない友人のため、仕事のチャンスを作ろうとする友情からであったわけである。
手紙にある「それを皆が心配して」の皆は、この場合、稲垣浩、山中貞雄、八尋不二、滝沢英輔の四人である。手紙には同監督と四人との関係が簡潔に述べられてある。山中貞雄とのところは、ずっと先に引用したから、ここでは略して――
「浩ちゃんは、私がマキノで四本撮って松竹へ帰ったときに、林長二郎(長谷川一夫)の『怪盗沙弥麿』を助監督として手伝ってくれました。八尋君とは彼の第一回の脚本『学生五人男』が私の第一回作品であり、且つ同県人です。憲坊(滝沢英輔)は俳優として私の現代劇に出演しています。そんなわけで皆が私に温く期待していてくれたことも事実です。
『勝鬨』は千恵さんの遊び宿『さくら家』で、以上の四人と私が、交代で書きました。手のあいている者は休むことになっているのに、隣室で花札をひいて遊んでいるので、『おい、早う交代しろ』と怒鳴ったりしたのを覚えています。話のイニシアチブをとっているのはいつも社堂やんでした。不二でも浩ちゃんでもありません。またその話が、八尋君の持ちだしたものか、浩ちゃんの言い出しか、社堂やんが『どうや、こんな話……』と例の如き口調で話し出したのか――、自分が撮った作品でありながら思い出せないのは、いろんな意味で申し訳ないです。
 そうしてこの『勝鬨』が、梶原金八という名のはじまりになるのですが、『梶原』は、東大の梶原――」
 と、ここで、途中ではあるがちょっと解説する。「梶原」はもう「二百十日」のときからで、その由来も、集団の草分けのひとり稲垣浩が昭和十三年の『シナリオ・臨時増刊』における一文『山中と梶原金八』で明らかにしている。すなわち「当時、六大学野球で帝大の梶原(英夫)君が七割何分かの打撃率をもってリーディング・ヒッターであった処から、『これは十本のうち七本は当たる』という山中の発案」であったのである。問題は金八である。どうして金四郎が金八になったのか。人数合わせで行くなら金五となるはずである。手紙の小石監督によれば、こともなげに、次の通りである。
「最初、二ノ宮金次郎のキンジローをとって金次郎だったのですが、金次郎は一寸おかしいな、それじゃ末広がりの金八ではどうや、という何でもない雑談のうちに『梶原金八』と決まったのです。決して八人居たから金八ではありません。八人はあとで、つじつまを合わせて八人にしたのでしょう。」

『映画監督 山中貞雄』 加藤泰 キネマ旬報社 P218
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加藤泰   そして山中に赤紙(召集令状)が来たのを知らされた

 八月二十五日が来た。
 完成した「人情紙風船」の封切日であった。ぼくは、渋谷の道玄坂の、まだ真新しかった東横映画劇場(いまの渋谷東宝)に出かけて、見た。番組はワーナー映画、ウィリアム・ディターリ監督、ケイ・フランシス、エロール・フリン主演の「沙漠の朝」との二本立てだった。冷房のよく利いた、掃除のよく行きとどいた、五十銭均一の、コセコセしていない映画館での快適な鑑賞だった。
 映画館を出て、同じ並びをもう少し行ったところの古本屋を素見して、いまみたいな、あんなデコデコ、ギタギタ、デパートの縁日みたいでなかった坂道の商店街を戻って、田舎の駅みたいだった渋谷駅と八公の銅像を右に見て、山の手線のガードをくぐった右側の、地方の県庁所在地のの百貨店くらいだった東横デパート(いまの東急東横百貨店)の食堂で、金五十銭也の支那定食(いまならさしづめ中華定食)を食って、市街電車には乗らず、夕日に赤い宮益坂のケトバシ屋を左に見ながらブラブラ歩いて青山南町の家に帰った。山中貞雄も滝沢英輔も、まだ帰っていなかった。そして山中に赤紙(召集令状)が来たのを知らされた。
 掛け値なしの仮住まいで、電話などもなく、ぼくにとくに知らせようとする人もなかったはずのあのとき、だれが、どのようにして知らせてくれたのか、その辺の覚えは、もうまったくの空白になってしまったが、とにかくぼくは知らされた。その年は六月四日に「新人近衛」「未知数魅力」で、軍部からも政党からも財界からも国民からも歓迎された近衛内閣が成立していたが、国民の期待は裏切られ、盧溝橋事件勃発、それを引き金にしての宣戦なき戦争「北支事変」「上海事変」、それがやがて不拡大方針による拡大を重ねて「支那事変」へと雪崩込もうとしていた年だった。山中は、一年志願の陸軍歩兵伍長であった。
 山中貞雄が滝沢英輔とともに帰って来たのは、あくる日だった。無論もう赤紙のことは知っていて、それから、何か、ウワーとなって、人が来て、二人とも出て行って、また人が来て、二人が戻って、壮行会があったらしくてテンテコ舞いのようだった。ぼくは何もすることがなかった。何かしたい気だったが、手が出せず、見守るばかりだった。山中とは何も話す時を持てなかった。そして山中は滝沢英輔やみんなに囲まれて、応召の地、残暑の京都に帰って行った。三月、もう戻るまいと心に定め、あとにして来た京都へであった。その立つ間際の倉皇の間、ちょっとのすきを見つけた山中は、あの三白眼でジロッとぼくを呼んで、人のいない隅っこで、「お前のこと、あと憲坊に頼んだから……。ええな」、早口にそれだけ言って、みんなのほうに戻って行った。それが、この世で山中から聞けた最後の言葉となった。

<中略>

 だが、本当をいうとぼくはあまりよく山中貞雄のことを知ってはいないのだ。なぜと言って、ぼくが彼と起居を共にしたのは、彼が監督昇進第一回作品「抱寝の長脇差」を発表した当時の一年余りと最後の「人情紙風船」のころの東京・青山南町一丁目の家での一ヶ月余りの暮らしだけなのだ。本当によく彼を知る者は、その映画界以前は父母、兄や姉、学校友達、先生たち、映画の人となってからは同期の友、先輩たち、上役たち、作品のスタッフ、俳優諸君、ファン、研究家、そうしてその中から、やがて生涯の友、心の友となり、交わりを厚くした人たちこそではなかろうか。ぼくは、この本は、可能な限りその人たちが残した話や書いたものを渉猟して書いた。文中のその人たちの年齢は当時の習慣に従って数え年とした。
 一つ、青山南町の家でのことを落としていた。応召の山中、彼を送って京都まで共に行く滝沢英輔たち、みんな潮を引くように去ってしまったあとだった。ひとり、留守番で残されたぼくは、山中が部屋にしていた奥に行って、書架を見てたたずんだ。蝉の声が耳立って腋の汗に気がついた。書架には講談社の『評釈江戸文学叢書』の全冊と、三田村鳶魚の本数冊と、月に一冊ずつ来るはずだった『古事類苑』と、道玄坂の古本屋で見つけて、金だけ払ってきて、ぼくに取りに行かせた『円朝全集』の完本とが、ポイと突っこまれてあった。山中はそれらを、総朱の机に広げて読むではなく、人が来なかったり、滝沢英輔との馬鹿ッ話に飽いた時など、二つ折りの座蒲団枕に、パンツ一丁くらいで寝ころんで読んでいたものだった。ぼくは、坐って、三田村鳶魚の何かに手を出しかけた。明けっぱなしだった玄関で声がした。女の声だった。ぼくは着たっきり雀の絣のひとえと、しわで細くなった木綿の兵児帯だった。それでノソノソ玄関に出て行った。パーッとその目に華やかなものが飛びこんだ。小柄な、目のパッチリした丸ポチャの、この世にこんな綺麗な女がいるのかと思うような女がそこに立っていた。その母親らしい年輩の婦人がその横に立っていた。「山中さんは……?」とその年輩が口をきいた。ぼくは飛び上がって坐って、シドロモドロで、「もう出かけた」という意味のことを口走ったようだった。綺麗で若い方が、その大きな、鈴を張ったような目をしばたたかせ、何か言って急いで、丁寧に腰を折って、二人は去った。ぼくは急に着たっきり雀と兵児帯が恥ずかしくなった。そして、ああ、深水藤子だったと気がついた。


(加藤泰 『映画監督 山中貞雄』 キネマ旬報社 P15―19)
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