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敗戦時の映画人

 敗戦の時点で日本の映画人達はいったい何をしていただろうか。
 黒澤明『虎の尾を踏む男達。』を撮影中で、敗戦を無視して感性まで漕ぎ着けたが、その公開は禁止された。田坂具隆は広島で被爆し、以後何年にもわたって苦しい闘病生活を強いられることになった。溝口健二はすっかり途方に暮れ、その弟子の新藤兼人は新時代の到来を悦んだ。マキノ雅弘はただちに撮影所の倉庫に仕舞われていた楽器を取り出し、速成のジャズバンドを組織して占領軍を歓迎しようとした。小津安二郎はシンガポールの捕虜収容所で連日のようにハリウッド映画を観ていた。そして内田吐夢は満州国にあって甘粕正彦の自殺に立ち合い、以後八年にわたって現地に留って、中国映画人に技術指導を行なった。こうして戦後の日本映画は開始された。一九四五年一〇月には戦後で最初のフィルム『そよかぜ』が、佐々木康によって松竹で封切られた。荒廃した東京を離れた並木路子が、故郷の村の果樹園を横切りながら歌う「リンゴの唄」は大ヒットした。

(四方田犬彦 『日本映画史100年』 集英社新書 P126)
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by JustAChild | 2010-08-12 01:00 | Wards

ショットにおける日本画の全体的画面構成

絵画に関するかぎり、日本の映画監督は充分にその影響について意識的であり、方法論的自覚を備えていたようである。たとえば溝口健二は『元禄忠臣蔵』を撮るにあたって、西洋絵画がクローズアップによる一点の凝視と焦点化に重きを置いているのに対して、日本絵画は「全体的画面構成」によるロングショットを基調とし、同じ画面のなかに複数の中心を持ち込んでいると論じた。彼は日本映画は「静かに平凡な日本画の前に立って学ばねばならぬ」と説いた。彼は住吉具慶の『洛中洛外図』に理想の構図を見出し、遠くから事物を俯瞰で見つめることを好んだ。また安藤広重の各所図絵の空間構成に深い関心を抱き、流動的にしてゆるやかな時間の推移と、それにともなう空間の連続的な変化を文体に取り入れた。『雨月物語』における露天風呂から岩場を超え、浜辺へと通じるカメラの移動とオーヴァーラップに、そのもっとも美しい実現を見ることができる。

(四方田犬彦 『日本映画史100年』 集英社新書 P24)
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by JustAChild | 2010-07-18 02:52 | Wards

戦前―戦中の映画理論と政治的イデオロギー

溝口(おそらく彼の政治認識は中学生程度のものであったろう)は満州国の成立を知って、ただちに『満蒙建国の黎明』(一九三二)を撮り、少し後のことであるが鈴木は『東洋平和の道』(一九三八)を撮った。
一九二〇年代後半には主にフランスとソ連から、さまざまな映画理論の紹介がなされ、若き映画人たちは激しい口吻でエイゼイシュテインや、シクロフスキー、ムーシナックの理論を論じあっていた。おそらくその数年こそ、日本人がもっとも映画理論をに熱中した時期だといえるだろう。一九二八年にはエイゼイシュテインはモスクワを訪問した市川左団次の演じる歌舞伎『忠臣蔵』を観て、モンタージュ理論の練り上げのさらなる契機を発見していた。だが映画理論の浸透を通して監督の地位が確かなものとなるのと裏腹に、日本人は慨してあるひとつのイデオロギー(キリスト教、トルストイ主義、マルクス主義)から決定的な影響というものを受けとることがなかった。

(四方田犬彦 『日本映画史100年』 集英社新書)
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by JustAChild | 2010-07-11 22:21 | Wards

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敗戦時の映画人

 敗戦の時点で日本の映画人達はいったい何をしていただろうか。
 黒澤明『虎の尾を踏む男達。』を撮影中で、敗戦を無視して感性まで漕ぎ着けたが、その公開は禁止された。田坂具隆は広島で被爆し、以後何年にもわたって苦しい闘病生活を強いられることになった。溝口健二はすっかり途方に暮れ、その弟子の新藤兼人は新時代の到来を悦んだ。マキノ雅弘はただちに撮影所の倉庫に仕舞われていた楽器を取り出し、速成のジャズバンドを組織して占領軍を歓迎しようとした。小津安二郎はシンガポールの捕虜収容所で連日のようにハリウッド映画を観ていた。そして内田吐夢は満州国にあって甘粕正彦の自殺に立ち合い、以後八年にわたって現地に留って、中国映画人に技術指導を行なった。こうして戦後の日本映画は開始された。一九四五年一〇月には戦後で最初のフィルム『そよかぜ』が、佐々木康によって松竹で封切られた。荒廃した東京を離れた並木路子が、故郷の村の果樹園を横切りながら歌う「リンゴの唄」は大ヒットした。

(四方田犬彦 『日本映画史100年』 集英社新書 P126)
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by JustAChild | 2010-08-12 01:00 | Wards

ショットにおける日本画の全体的画面構成

絵画に関するかぎり、日本の映画監督は充分にその影響について意識的であり、方法論的自覚を備えていたようである。たとえば溝口健二は『元禄忠臣蔵』を撮るにあたって、西洋絵画がクローズアップによる一点の凝視と焦点化に重きを置いているのに対して、日本絵画は「全体的画面構成」によるロングショットを基調とし、同じ画面のなかに複数の中心を持ち込んでいると論じた。彼は日本映画は「静かに平凡な日本画の前に立って学ばねばならぬ」と説いた。彼は住吉具慶の『洛中洛外図』に理想の構図を見出し、遠くから事物を俯瞰で見つめることを好んだ。また安藤広重の各所図絵の空間構成に深い関心を抱き、流動的にしてゆるやかな時間の推移と、それにともなう空間の連続的な変化を文体に取り入れた。『雨月物語』における露天風呂から岩場を超え、浜辺へと通じるカメラの移動とオーヴァーラップに、そのもっとも美しい実現を見ることができる。

(四方田犬彦 『日本映画史100年』 集英社新書 P24)
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by JustAChild | 2010-07-18 02:52 | Wards

戦前―戦中の映画理論と政治的イデオロギー

溝口(おそらく彼の政治認識は中学生程度のものであったろう)は満州国の成立を知って、ただちに『満蒙建国の黎明』(一九三二)を撮り、少し後のことであるが鈴木は『東洋平和の道』(一九三八)を撮った。
一九二〇年代後半には主にフランスとソ連から、さまざまな映画理論の紹介がなされ、若き映画人たちは激しい口吻でエイゼイシュテインや、シクロフスキー、ムーシナックの理論を論じあっていた。おそらくその数年こそ、日本人がもっとも映画理論をに熱中した時期だといえるだろう。一九二八年にはエイゼイシュテインはモスクワを訪問した市川左団次の演じる歌舞伎『忠臣蔵』を観て、モンタージュ理論の練り上げのさらなる契機を発見していた。だが映画理論の浸透を通して監督の地位が確かなものとなるのと裏腹に、日本人は慨してあるひとつのイデオロギー(キリスト教、トルストイ主義、マルクス主義)から決定的な影響というものを受けとることがなかった。

(四方田犬彦 『日本映画史100年』 集英社新書)
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by JustAChild | 2010-07-11 22:21 | Wards


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