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ここや/そこ/あちこちで/わたしたちは/徹底的に
田中純 近代都市は絶え間なく、写真へと変容することを欲望しつづけてきたのだ
ウジェーヌ・アジェのパリからウィリアム・クラインのニューヨーク、荒木経惟の東京まで、あるいは無名の観光写真、絵はがき写真にいたるまで、都市は写真というメディアの特権的な主題でありつづけている。いや、むしろこう言うべきだろうか。近代の都市は絶え間なく、写真へと変容することを欲望しつづけてきたのだ、と。飯沢耕太郎が編著『東京写真』において、「写真の中には、映像として定着された東京の物理的な姿だけではなく、他の表現手段ではどうしても実体化できない部分――東京の無意識とでもいえるようなものが写りこんでいるはずだ」と述べているのは、恐らく正しい。伊藤俊治が的確に言い切ったように「写真は都市の視覚的無意識を浮上させる」。まさしく都市は写真という分身のうちに二重化されるとともに分裂し、写真のなかにおいてはじめて、その欲望のかたちを可視化するのではないだろうか。
イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオーは、20世紀における写真を通じたメトロポリスの表象をめぐって、三つの異なる記号システムあるいは写真的感性の変遷を認めた。その三者とは、モダニズム建築の都市計画がプロパガンダを展開した1920-1930年代における都市表象としてのフォトモンタージュ、1955年の展覧会「ファミリー・オブ・マン」やマグナムの一連の写真に代表される50年代から60年代にかけての、無名の個人のイメージから生まれる都市物語への感受性、そして70年代以降の「テラン・ヴァーグ(terrain vague)」へのまなざしである。ソラ=モラレスが注目するこのテラン・ヴァーグとは、何らかの出来事が起こったのちの放棄された空虚な場所を意味するが、そこにはフランス語のvagueが語源とするゲルマン語やラテン語との関係から、波、空虚、開放、曖昧といったいくつかのニュアンスが重層している。ジョン・デイヴィス、デヴィッド・プローデン、ヤネス・リンデルといった写真家たちの作品に見出されるこのテラン・ヴァーグは、都市の日常的利用にとっては外在的でありながら、都市そのものには内在的な何ものかである、とソラ=モラレスは言う。
生産・消費活動やそのための管理を欠いた、都市内部の「島」であるテラン・ヴァーグは、都市システムに対して異質な、「都市の物理的内部における、精神的に外部的な、都市の否定的=陰画的イメージ」である。ジュリア・クリステヴァやオド・マルクヴァルトに依拠しながらソラ=モラレスはそこに「他者性」や「未知性」、あるいはフロイト的な「無気味なもの」といったテーマとの関連を指摘している。自己の内部の最奥の他者、未知なるものとしての無気味なこのテラン・ヴァーグとはまさに都市の無意識であり、われわれの言葉で言い換えれば「非都市」にほかならない。
しかしながら、ソラ=モラレスはこの都市の無意識の発見という地点から、現実の都市の内部に実在するテラン・ヴァーグがもつ可能性と、その保存について語ることへと無造作に移行してしまう。あたかもそこでは写真というメディアがそれ自体としては厚みをもたずに透明で、現実の忠実な再現表象を提供しているかのように。だが、事実としての空き地とは所詮たかだか効率的に利用可能な空隙であって、テラン・ヴァーグという都市の無意識ではありえないだろう。テラン・ヴァーグの無気味さの根源は都市と都市写真との間のずれ、この両者の間にあってまなざしを屈折させる歪んだ空間の物質性にこそ求められなければならない。
またこのテラン・ヴァーグを殊更に新しい写真的発見とするにはおよばない。どこにも人影のない街路を撮影したアジェの写真がすでに、パリという都市全体をテラン・ヴァーグと化していたのではなかったか。「どこも寂しい場所というのではない。気分というものが欠如しているのである。都市はこれらの写真の上では、まだ新しい借り手が見つからない住居のように、きれいにからっぽである」(ヴァルター・ベンヤミン)。この人影のなさこそ、アジェが「街路を犯行現場のように撮影した」と言われる所以であったのだ、とベンヤミンは書く。そして、都市のどんな一角もつねに「犯行現場」なのであり、都市のなかの通行人はみな「犯人」なのだ、と。
( 田中純 『都市表象分析Ⅰ』 INAX出版 P36)
イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオーは、20世紀における写真を通じたメトロポリスの表象をめぐって、三つの異なる記号システムあるいは写真的感性の変遷を認めた。その三者とは、モダニズム建築の都市計画がプロパガンダを展開した1920-1930年代における都市表象としてのフォトモンタージュ、1955年の展覧会「ファミリー・オブ・マン」やマグナムの一連の写真に代表される50年代から60年代にかけての、無名の個人のイメージから生まれる都市物語への感受性、そして70年代以降の「テラン・ヴァーグ(terrain vague)」へのまなざしである。ソラ=モラレスが注目するこのテラン・ヴァーグとは、何らかの出来事が起こったのちの放棄された空虚な場所を意味するが、そこにはフランス語のvagueが語源とするゲルマン語やラテン語との関係から、波、空虚、開放、曖昧といったいくつかのニュアンスが重層している。ジョン・デイヴィス、デヴィッド・プローデン、ヤネス・リンデルといった写真家たちの作品に見出されるこのテラン・ヴァーグは、都市の日常的利用にとっては外在的でありながら、都市そのものには内在的な何ものかである、とソラ=モラレスは言う。
忘れさられたかのようなこのような場所においては、過去の記憶が現在よりも優勢であるように見える。都市の活動から完全に離反してしまっているにもかかわらず、ここにはほんのわずかに残された価値ばかりが生き残っている。こうした奇妙な場所は都市の効率的な回路や生産構造の外部に存在する。経済的観点からすれば、この工業地帯、鉄道駅、港、危険な住宅地区、そして汚染された場所はもはや都市ではないのだ。
生産・消費活動やそのための管理を欠いた、都市内部の「島」であるテラン・ヴァーグは、都市システムに対して異質な、「都市の物理的内部における、精神的に外部的な、都市の否定的=陰画的イメージ」である。ジュリア・クリステヴァやオド・マルクヴァルトに依拠しながらソラ=モラレスはそこに「他者性」や「未知性」、あるいはフロイト的な「無気味なもの」といったテーマとの関連を指摘している。自己の内部の最奥の他者、未知なるものとしての無気味なこのテラン・ヴァーグとはまさに都市の無意識であり、われわれの言葉で言い換えれば「非都市」にほかならない。
しかしながら、ソラ=モラレスはこの都市の無意識の発見という地点から、現実の都市の内部に実在するテラン・ヴァーグがもつ可能性と、その保存について語ることへと無造作に移行してしまう。あたかもそこでは写真というメディアがそれ自体としては厚みをもたずに透明で、現実の忠実な再現表象を提供しているかのように。だが、事実としての空き地とは所詮たかだか効率的に利用可能な空隙であって、テラン・ヴァーグという都市の無意識ではありえないだろう。テラン・ヴァーグの無気味さの根源は都市と都市写真との間のずれ、この両者の間にあってまなざしを屈折させる歪んだ空間の物質性にこそ求められなければならない。
またこのテラン・ヴァーグを殊更に新しい写真的発見とするにはおよばない。どこにも人影のない街路を撮影したアジェの写真がすでに、パリという都市全体をテラン・ヴァーグと化していたのではなかったか。「どこも寂しい場所というのではない。気分というものが欠如しているのである。都市はこれらの写真の上では、まだ新しい借り手が見つからない住居のように、きれいにからっぽである」(ヴァルター・ベンヤミン)。この人影のなさこそ、アジェが「街路を犯行現場のように撮影した」と言われる所以であったのだ、とベンヤミンは書く。そして、都市のどんな一角もつねに「犯行現場」なのであり、都市のなかの通行人はみな「犯人」なのだ、と。
( 田中純 『都市表象分析Ⅰ』 INAX出版 P36)
by JustAChild
| 2010-12-27 23:28
| Wards
田中純 近代都市は絶え間なく、写真へと変容することを欲望しつづけてきたのだ
ウジェーヌ・アジェのパリからウィリアム・クラインのニューヨーク、荒木経惟の東京まで、あるいは無名の観光写真、絵はがき写真にいたるまで、都市は写真というメディアの特権的な主題でありつづけている。いや、むしろこう言うべきだろうか。近代の都市は絶え間なく、写真へと変容することを欲望しつづけてきたのだ、と。飯沢耕太郎が編著『東京写真』において、「写真の中には、映像として定着された東京の物理的な姿だけではなく、他の表現手段ではどうしても実体化できない部分――東京の無意識とでもいえるようなものが写りこんでいるはずだ」と述べているのは、恐らく正しい。伊藤俊治が的確に言い切ったように「写真は都市の視覚的無意識を浮上させる」。まさしく都市は写真という分身のうちに二重化されるとともに分裂し、写真のなかにおいてはじめて、その欲望のかたちを可視化するのではないだろうか。
イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオーは、20世紀における写真を通じたメトロポリスの表象をめぐって、三つの異なる記号システムあるいは写真的感性の変遷を認めた。その三者とは、モダニズム建築の都市計画がプロパガンダを展開した1920-1930年代における都市表象としてのフォトモンタージュ、1955年の展覧会「ファミリー・オブ・マン」やマグナムの一連の写真に代表される50年代から60年代にかけての、無名の個人のイメージから生まれる都市物語への感受性、そして70年代以降の「テラン・ヴァーグ(terrain vague)」へのまなざしである。ソラ=モラレスが注目するこのテラン・ヴァーグとは、何らかの出来事が起こったのちの放棄された空虚な場所を意味するが、そこにはフランス語のvagueが語源とするゲルマン語やラテン語との関係から、波、空虚、開放、曖昧といったいくつかのニュアンスが重層している。ジョン・デイヴィス、デヴィッド・プローデン、ヤネス・リンデルといった写真家たちの作品に見出されるこのテラン・ヴァーグは、都市の日常的利用にとっては外在的でありながら、都市そのものには内在的な何ものかである、とソラ=モラレスは言う。
生産・消費活動やそのための管理を欠いた、都市内部の「島」であるテラン・ヴァーグは、都市システムに対して異質な、「都市の物理的内部における、精神的に外部的な、都市の否定的=陰画的イメージ」である。ジュリア・クリステヴァやオド・マルクヴァルトに依拠しながらソラ=モラレスはそこに「他者性」や「未知性」、あるいはフロイト的な「無気味なもの」といったテーマとの関連を指摘している。自己の内部の最奥の他者、未知なるものとしての無気味なこのテラン・ヴァーグとはまさに都市の無意識であり、われわれの言葉で言い換えれば「非都市」にほかならない。
しかしながら、ソラ=モラレスはこの都市の無意識の発見という地点から、現実の都市の内部に実在するテラン・ヴァーグがもつ可能性と、その保存について語ることへと無造作に移行してしまう。あたかもそこでは写真というメディアがそれ自体としては厚みをもたずに透明で、現実の忠実な再現表象を提供しているかのように。だが、事実としての空き地とは所詮たかだか効率的に利用可能な空隙であって、テラン・ヴァーグという都市の無意識ではありえないだろう。テラン・ヴァーグの無気味さの根源は都市と都市写真との間のずれ、この両者の間にあってまなざしを屈折させる歪んだ空間の物質性にこそ求められなければならない。
またこのテラン・ヴァーグを殊更に新しい写真的発見とするにはおよばない。どこにも人影のない街路を撮影したアジェの写真がすでに、パリという都市全体をテラン・ヴァーグと化していたのではなかったか。「どこも寂しい場所というのではない。気分というものが欠如しているのである。都市はこれらの写真の上では、まだ新しい借り手が見つからない住居のように、きれいにからっぽである」(ヴァルター・ベンヤミン)。この人影のなさこそ、アジェが「街路を犯行現場のように撮影した」と言われる所以であったのだ、とベンヤミンは書く。そして、都市のどんな一角もつねに「犯行現場」なのであり、都市のなかの通行人はみな「犯人」なのだ、と。
( 田中純 『都市表象分析Ⅰ』 INAX出版 P36)
イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオーは、20世紀における写真を通じたメトロポリスの表象をめぐって、三つの異なる記号システムあるいは写真的感性の変遷を認めた。その三者とは、モダニズム建築の都市計画がプロパガンダを展開した1920-1930年代における都市表象としてのフォトモンタージュ、1955年の展覧会「ファミリー・オブ・マン」やマグナムの一連の写真に代表される50年代から60年代にかけての、無名の個人のイメージから生まれる都市物語への感受性、そして70年代以降の「テラン・ヴァーグ(terrain vague)」へのまなざしである。ソラ=モラレスが注目するこのテラン・ヴァーグとは、何らかの出来事が起こったのちの放棄された空虚な場所を意味するが、そこにはフランス語のvagueが語源とするゲルマン語やラテン語との関係から、波、空虚、開放、曖昧といったいくつかのニュアンスが重層している。ジョン・デイヴィス、デヴィッド・プローデン、ヤネス・リンデルといった写真家たちの作品に見出されるこのテラン・ヴァーグは、都市の日常的利用にとっては外在的でありながら、都市そのものには内在的な何ものかである、とソラ=モラレスは言う。
忘れさられたかのようなこのような場所においては、過去の記憶が現在よりも優勢であるように見える。都市の活動から完全に離反してしまっているにもかかわらず、ここにはほんのわずかに残された価値ばかりが生き残っている。こうした奇妙な場所は都市の効率的な回路や生産構造の外部に存在する。経済的観点からすれば、この工業地帯、鉄道駅、港、危険な住宅地区、そして汚染された場所はもはや都市ではないのだ。
生産・消費活動やそのための管理を欠いた、都市内部の「島」であるテラン・ヴァーグは、都市システムに対して異質な、「都市の物理的内部における、精神的に外部的な、都市の否定的=陰画的イメージ」である。ジュリア・クリステヴァやオド・マルクヴァルトに依拠しながらソラ=モラレスはそこに「他者性」や「未知性」、あるいはフロイト的な「無気味なもの」といったテーマとの関連を指摘している。自己の内部の最奥の他者、未知なるものとしての無気味なこのテラン・ヴァーグとはまさに都市の無意識であり、われわれの言葉で言い換えれば「非都市」にほかならない。
しかしながら、ソラ=モラレスはこの都市の無意識の発見という地点から、現実の都市の内部に実在するテラン・ヴァーグがもつ可能性と、その保存について語ることへと無造作に移行してしまう。あたかもそこでは写真というメディアがそれ自体としては厚みをもたずに透明で、現実の忠実な再現表象を提供しているかのように。だが、事実としての空き地とは所詮たかだか効率的に利用可能な空隙であって、テラン・ヴァーグという都市の無意識ではありえないだろう。テラン・ヴァーグの無気味さの根源は都市と都市写真との間のずれ、この両者の間にあってまなざしを屈折させる歪んだ空間の物質性にこそ求められなければならない。
またこのテラン・ヴァーグを殊更に新しい写真的発見とするにはおよばない。どこにも人影のない街路を撮影したアジェの写真がすでに、パリという都市全体をテラン・ヴァーグと化していたのではなかったか。「どこも寂しい場所というのではない。気分というものが欠如しているのである。都市はこれらの写真の上では、まだ新しい借り手が見つからない住居のように、きれいにからっぽである」(ヴァルター・ベンヤミン)。この人影のなさこそ、アジェが「街路を犯行現場のように撮影した」と言われる所以であったのだ、とベンヤミンは書く。そして、都市のどんな一角もつねに「犯行現場」なのであり、都市のなかの通行人はみな「犯人」なのだ、と。
( 田中純 『都市表象分析Ⅰ』 INAX出版 P36)
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| 2010-12-27 23:28
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